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アイリス あいりす 

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▲裏・歴史▼ 聖徳太子はペルシャ人!?北斗七星と太子道の驚くべき関係!![ミステリー#75]

2016-02-07 23:11:50 | 歴史

▲裏・歴史▼ 聖徳太子はペルシャ人!?北斗七星と太子道の驚くべき関係!![ミステリー#75]

♫ 聖徳太子は特別な超越した人間であったことは、確かなようです。

この動画にある、日本書紀ですが、真実かどうかはまだわかりません。後世になって書かれているからです。でも真実でないとも断定はできないです。

 

 


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日本のダビンチコード 聖徳太子建立の寺 大阪 四天王寺<>

2016-02-07 22:35:29 | 歴史

聖徳太子の寺 大阪 四天王寺

♫ この動画の西大門の前の鳥居ですが、

この聖徳太子が建立した、四天王寺はれっきとした仏教の寺です。

その門の前にあるのが、神道の鳥居です。

不可解ですよね。

西大門は、極楽浄土への道を記していると言われ、夕日が望める位置に門が建てられているのに、その先に、あるいは寺に入る前に、鳥居ですよ。

日本の不思議発見でしょう?

梅原猛の法隆寺の謎を解いた本「隠された十字架・法隆寺編」

を読んでいなくても、日本人なら、この不可解さがわかると思います。

この不思議を思うのは、私だけではありません。多くの人が、疑問をもっています。

私は、梅原猛氏の書いた、この本は日本のダビンチコードに匹敵するものだと思います。

いいえ、梅原猛氏が先に書いたのですから、別の言い方をしたほうがいいのかもしれません。

しかし、世の中には、既に「ダビンチコード」の言葉が蔓延しており、今は梅原氏の本は本棚にもない可能性がありますから。

今一度この、「日本のダビンチコード」と言って、皆さんに読んでいただきたい本です。

私達の知らない世界が、この日本に確かにあるのです。不可解に思っていながら、それを解き明かすことも、出来ませんでした。

もっとこの不可解なものがあることを、知らせる必要があると、思いました。

聖徳太子の建立した寺、火災にも、空襲にもあっていますが、当時の姿を復元しているそうです。

鳥居は一説によると、1200年ごろに置かれたようです。これは2度目の鳥居のようです。誰が、何の為にでしょう?

鳥居を置くことで、何をしたかったのか。何を目的としているのか、それは梅原猛氏の本から、解るでしょう。(研究されるのでしたら、できるだけ、初版本(国会図書館で閲覧できます。地元の図書館で閲覧可能です。司書に伺ってみてください。)がいいと思います。新しい本は、改ざんされている可能性もあるからです。)

また、大阪では聖徳太子の建立した7つの寺のうち3つが明治時代の法律によって、無くなってしまいました。これも、何かありそうですね。

実はこの鳥居の不可解さには、色々な意見がありました。

聖徳太子は天皇家であり、天皇の建てた寺が神道のしるしとか、あるいは神道と仏教の融合した日本の素晴らしさ。など色々ありました。

日本人は本当にお人よしです。

あるがままを信じて、その不可解さを追求していません。なぜでしょうか?

 

私は梅原猛氏の意見を尊重します。

 


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日本のダビンチコード 梅原猛 「隠された十字架 法隆寺論」 より一部抜粋 <>

2016-02-05 21:39:20 | 歴史

♫ 本の~はじめに~より抜粋して、転載してご紹介します。とても素晴らしい内容です。ぜひ一読されることを、お勧めいたします。

   

    ~~~~~~~~~~~~

法隆寺の仏像は ほとんどすべて仏像の一般的な特徴を逸脱している

建築学や工芸学の一般的説明によっては、理解できないものが多い

 

向こうから、私の仮説の周りにひっついてきたのである。私は太子は日本における最初の理想主義者であったと思う。

そのあまりに高すぎる理想主義ゆえに、太子は孤立し、太子一族は悲劇的最後をとげたが、太子の理想追求の精神と真理愛の精神は、その悲劇性ゆえに、かえって輝きをますのである。

太子に関する間違った理解をやめさせ、太子一家の深い悲劇性を理解することこそ、真に太子を崇拝する道であると、私は思う。

太子の無念なる魂が、太子の怨霊が私に歴史の真相を教えたとしか、私には思われないのである。

私の法隆寺に関する仮説が、たとえどんなに簡単であり、それによって今までの理論によって説明されなかった、法隆寺の謎がどんなに明らかに説明されたとしても、それは絶対の真理性を主張するわけには、ゆかないであろう。

この仮説の否定は、この仮説以上の理論的整合性を持った、他の仮設の創造によってのみ、可能なのである。

願わくば、私の大胆なるこの仮説が、はなはだ認識が遅れていると思われる、日本の古代学の発展の刺激にならんことを。

 

私の古代研究は日本神話についての疑いからはじまり、ついで「古事記」「日本書紀」の著者の問題にいたり、その問題の探求の過程で、法隆寺にぶつかったからである。

 

カント

「直観なき概念は空虚であり、概念なき直観は盲目である」

 

~~~~~~~~~~~

♫ はじめに~の文章を読んだだけで、どのように梅原猛が考えてきたのかが、わかるとおもいます。

これは、単に法隆寺と聖徳太子の深いなぞを知ることだけではなく、歴史の嘘まみれにつながる、可能性があると思うのです。

本当かどうかは、貴方の心が決めることです。

真実は必ずあちらから出向いてくるものですね。

聖徳太子は確かに存在していたのです。「和をもって、尊しとなす」と言う言葉を今の若者 は、知らないでしょうか?

日本人に伝わった根幹のこの言葉は、偶然のものではなかったのです。

太子一族を無き者にした後、政治をつかさどった一族の男性が4人も早死にしたことから、

聖徳太子一族の霊を恐れて、法隆寺を再建して建てたのだが、そこには謎のようにしてある、霊を封印するかのような、おかしなものが残っていたのです。

しかし、それすらも、封印されて他の寺と同じと国民は認識していたので、謎という形で残ったのです。

そして聖徳太子の大切な教えは後世に語りつがれてきているのです。

お札の聖徳太子がなくなり、福沢諭吉、野口英世にしたのも、明らかに策略の臭いが

してきますね。

法隆寺についてもディスクロジャーがこれからきてほしいですね。

そう思うとワクワクしてきます。

 

 


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日本のダビンチコード 法隆寺 救世観音 は長く公開されなかった事実<>

2016-02-05 20:32:57 | 歴史

法隆寺 救世観音

♫ 法隆寺はきっと修学旅行で行かれた方も多いと思います。私も高校生の時に斑鳩の里の法隆寺ののどかな雰囲気に魅了されたひとりです。

多くの友人達は京都を好むのですが、私は斑鳩の里の法隆寺の持つ、何か不思議な懐かしさを感じる雰囲気が忘れられません。

法隆寺については、七不思議と言われるものが存在すると言われていましたが、そういう事も、すっかり忘れていました。

最近になって、哲学者の梅原猛の「隠された十字架」法隆寺論を知りました。そしてその本の中身については、驚きの内容でした。

それは法隆寺の不思議と学者達が声をそろえて、調べれば、調べるほど、謎に満ちているというものでした。建築学的にも、工芸的にも、仏閣を建築した政治が絡んでいたというのです。

歴史の中で私達は法隆寺と聖徳太子について、正しい教育がされてこなかったことも、ありますが。すでに法隆寺の建立事態が、何か忌まわしい政略がそこに隠されていたというものでした。

そして、隣の中宮寺ですが、これは聖徳太子の奥さんの住まいの寺でした。彼女が必死で聖徳太子の真実を残すことに、日々費やしてきました。そのことを国民が知れば、聖徳太子はやはり崇拝に値する人物だったと思えるのです。

人々が聖徳太子を神のように崇めることをさせないことに、当時の聖徳太子を無き者にしてきた、他族の権力者たちは、聖徳太子一族を、封印する為に法隆寺を建てて見かけは法要のためとしているというのです。ですから、おかしな不具合の悪いものが、謎として伝わっていたのです。

テレビでは、聖徳太子はいなかったとする、おかしな番組すらできています。YOUTUBEに動画があります。

このように、策略は、いまだに続いています。

救世観音は、実は隠された秘仏とされて来たそうです。この仏像を隠して、見せないようにするために、この仏像を公に出すと禍(わざわい)が起こると寺には言い伝わっていたのです。

それをフェノロサが明治時代に来日して、明治政府の了解のもと、公にすることに成功したものだそうです。(秘仏の存在をどうして、知ったのか?それも謎ですね)

この仏像は、聖徳太子像ではないかと、言われていますが。後ろから釘をうちつけられており、幾重にも木綿の布で縛られてしまわれていたということです。

フェノロサはモナリザの研究もしており、この救世観音像に感嘆したそうです。

梅原猛氏の本は当然歴史家から、叩かれてきました。はやしひろし氏と同じです。

そのはやしひろし氏の動画には、法隆寺には、レプタリアンの像があるというのを、みました。

この法隆寺の謎は、本当に多いのです。そしてこれは大変な問題が二転三転する可能性も秘めていると思います。

最初に建立したのは、確かに聖徳太子ではあるが、火災にあい、また一族が惨殺されてから、呪いをおそれた人達によって、法隆寺が再建されたのなら、宝物も当時のままなのか、再建してから、持ち込まれたものなのか、わかりませんね。

謎だらけ。それは、調べる人を困惑させるだけのもののようです。

梅原猛氏の、それらを解き明かす、素晴らしい考察が、貴方を待っているのです。

本当にダビンチコードに心を奪われた人なら、この本の素晴らしさを堪能するでしょう。

 

 

 

 

 


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100年前のUボート残骸みつかる 英南東沖 <3452>

2016-01-26 18:45:29 | 歴史

♫ 100年も前にすでに潜水艦が作られていたのは知りませんでした。第一次世界大戦時ですから。それよりも以前から、作られていたのでしょうね。

もう戦争は沢山です。海底探検ができる潜水艦だけで充分ですね。

~~~~~~~~~~~

http://www.cnn.co.jp/fringe/35076675.html より転載しました

英南東沖の潜水艦の残骸、100年前の「Uボート」と判明

2016.01.23 Sat posted at 12:04 JST

(CNN) 英国沖の海底で発見された軍用の艦船の残骸について、100年前のドイツ軍の潜水艦「Uボート」であることがこのほど明らかになった。オランダ海軍のダイバーが調査に当たった。

この潜水艦の残骸は2012年9月、英エネルギー企業のスコティッシュパワー・リニューアブルズが南東部ノーフォーク州とサーフォーク州の沖合で洋上風力発電施設の建設に向けた海底調査を実施している際に見つかった。現場海域は沖合約90キロの地点で、濁った水質の影響で調査が難航し、発見から4年近くが過ぎてようやく艦船の特定が可能になった。

当初は1940年に行方不明となったオランダ海軍の潜水艦である可能性があるとみられていたが、同軍が調査したところ、第1次世界大戦中のドイツ軍のUボートだと判明した。

潜水艦の名称は「U-31」。大きさは全長約57.6メートルで、幅は約4メートル、高さは約4.6メートルある。スコティッシュパワーによると、艦の前部と後部にそれぞれ損傷があり、元々はもう少し長かった可能性がある。損傷を受けた箇所以外はかなり原形をとどめているという。

英イングランドの海事考古学者、マーク・ダンクリー氏はU-31について、イングランド沖を航行中に機雷の爆発を受け、将校4人を含む乗組員35人全員を乗せたまま撃沈したと考えられていると説明した。

 


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天皇まんざーい 山本五十六はフリーメイソン<3446>

2016-01-26 11:58:34 | 歴史

♫ これらの情報を沢山見てくると、やはり八百長戦争であったことは、明白です。この記事もやはり、以前読んで私はなにか、釈然としないものを、感じました。それはお堀の主のことが全く書かれていないからでした。そういうことを、頭にいれて読んで見てください。あなたの裁量で。

他の事では重大な事実が記事になっているので、ご紹介します。山本五十六と言えば、兵隊へ行った父からもその名を聞いた記憶があります。どのように素晴らしい武将だったのかは、何もいいませんでしたが。のちのテレビなどでは、素晴らしい武将としての紹介がありましたけど。

そして、なぜだか、陸軍の戦犯は多いのに、海軍の戦犯が少ないと言う事実も、不可解ですね。

山本五十六はフリーメイソンであったこと、なぜなら、天皇はイル身ナティですから。とうぜんですよね。アメリカのイル身ナティは、ブッシュ一族だといいます。もっともアメリカの大統領はすべて親戚関係者です。アメリカのテレビでも報道されているようです。

あのオバマも実は親戚なんですよね。だから大統領になったのです。親戚でなければなれないのです。大きなバックアップがそこには存在するのです。

八百長の臭いはこれだけでも、プンプンしてきます。人類を将棋の駒のようにして、動かして、ゲームをするかのようにして、人の命を抹殺してきました。それが世界の支配者たちの本当の姿です。

~~~~~~~~~~~~~~~~

 

http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/YamamotoIsoroku04.html

  ミッドウェーは太平洋戦争全体を通じてまさにターニングポイントであった。この敗北以来、日本の帝国陸海軍は苦況に陥るのである。それを象徴するのがミッドウェーの海戦であった。
  「MO作戦」でニューギニアのモレスビー攻略に失敗した日本軍が、米豪を分断するため、次に戦略的拠点として選んだのが南太平洋ソロモン諸島の主島ガダルカナル島である。この島に飛行場を敷設し、強力な基地航空隊をおけば、南西太平洋の制海権(制空権ではない)が得られ、アメリカとオーストラリアの連絡は分断され、オーストラリア北東部は日本軍の攻撃範囲となり、ここに猛攻を加えることによりオーストラリアを厭戦気分に陥し入れ、連合軍からの脱落を誘い、日豪単独講和にもち込むことができればアメリカも戦意を喪失、日米の和平も実現できるのではないかと海軍は考えていた。
  (中略)
  ガダルカナル戦およびソロモン海戦で極めて特徴的なことは、日本軍に戦略というものが全く存在しなかったことだ。山本長官はソロモン海戦においても南雲忠一中将、草鹿龍之助参謀長、原忠一少将、さらにのちのレイテ沖海戦で「謎の反転」を演じた栗田健男中将などの無能な司令官を投入し、日本艦隊の消耗を加速させた。その分、アメリカ側の被害は最小限で済んだのである。
  山本長官はソロモン海戦でも「大和」「武蔵」などの大型戦艦を攻撃隊に加えることなく、戦力の小出し投入を行なった。このため戦艦「大和」はついに「大和ホテル」と呼ばれるありさまであった。
  ガダルカナルの空軍基地からは、山本長官の指揮下にあるすべての空母や戦艦など58隻からなる大艦隊と艦載機を駆使して全力投入していれば、奪還は可能であったのみならず、ソロモン海域全体で大きな勝利を手にすることができたはずであった。
  戦後『大日本帝国海軍』の著者ポール・ダルは、その中で「山本長官はこの会戦をどう考えていたのか理解しにくい」と指摘しているが、山本長官の行動は良心的なアメリカ人にすら全く理解のできないものであった。
  (中略)
  ガダルカナルおよびソロモン海戦で、日本軍は2万3800人におよぶ地上部隊員の戦傷病死を出し、艦艇の喪失も空母1隻、戦艦2隻、巡洋艦5隻、駆逐艦等25隻、それに航空機の喪失は1053機にも及んだ。
  昭和17年12月31日、昭和天皇はガダルカナル島からの撤退を裁可し、翌18年2月1日から7日にかけて、3回の撤収作戦を実施、同島に取り残された飢餓と熱帯病のため生死の境をさまよいつつあった日本軍将兵1万有余人を救出したのであった。
  (中略)
  山本長官は昭和18年4月16日、北ソロモン諸島にいる将兵の労をねぎらい士気を鼓舞するためと称し、前線基地視察を計画した。。

 疑問だらけの死体検案書           [TOP]

  こうして昭和18年4月18日、ブーゲンビル島ブインの航空基地視察のためと称して山本長官は午前6時ラバウル東飛行場を一式陸攻で離陸した。宇垣参謀長らを乗せた二番機もほぼ同時に離陸したが、これを護衛するのは第204航空隊の零戦わずか6機だけであった。
  この日、山本長官はなぜか正式な連合艦隊司令長官の軍服ではなく、生まれて初めて着る草色の略装である第三種軍装を身にまとい、護衛機の数を増やすことにも強く反対したという。
  山本長官の前線基地視察スケジュールの情報は事前に暗号電報で前線基地に予報された。連合艦隊司令長官の詳細な行動予定が、視察の5日も前に前線基地に伝えられるのは異例のことだった。
  ショートランド第11航空戦隊の城島少将は、不用心な暗号電報に憤慨したと言われるが、ご丁寧にもこの暗号電報を受け取った現地指揮官ひとりは、わざわざ儀礼的に低レペル暗号の無電で関係先に知らせたともいう。
  米軍はこの暗号を解読して山本長官搭載機撃墜計画を練ったとされるが、むしろ山本長官自身ないしはその側近が、事前に何らかの方法で米軍に詳細な行動予定を知らせていたというのが真相だろう。山本長官はすべての役目を終了し、ルーズヴェルト大統領との約束に基づいて姿を消すことにしたのである。
  山本長官を乗せた一式陸攻は高度2500メートルでゆっくりと飛行、6機の護衛戦闘機はその500メートル上空を飛行していたが、ブーゲンビル島南端のブイン基地上空にさしかかったところ、ガダルカナル島ヘンダーソン基地を飛び立ったミッチェル少佐の指揮するP-38米攻撃機28機が午前7時33分、正確に山本長官機と出合った。ミッチェル隊はP-38の航続距離からしてわずか10分間という許容時間で攻撃を開始、山本長官機を撃墜したのであった。
  右エンジンに弾丸を受けた長官機は火災を発し、黒煙を吐きながらジャングルの中に落下していった。2番機はモイラ岬沖の海上に不時着、宇垣参課長ら3名は助かったが、長官機は翌19日午後2時頃陸軍の捜索隊によって発見された。
  山本長官の遺体は機外に投げ出された座席に腰かけ、軍刀を握りしめたままであったとされているが、その死には深い謎がつきまとう。
  大本営発表の「死体検案書」(死亡診断書)と「死体検案記録」(死亡明細書)によれば、死亡日時は「昭和18年4月18日午前7時40分」である。傷病名は「顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創」であり、末尾には「右証明ス 昭和18年4月20日 海軍軍医 少佐 田淵義三郎」として署名捺印がある。
  ところが墜落現場を最初に発見した浜砂陸軍少尉は次のように証言している。
  「長官はあたかもついさっきまで生きていたかのような風貌で、機外に抛出された座席上に端然として死亡していた……その顔面には創はなかったし、出血の痕もなかった。その発見は墜落後実に30時間前後も経った頃である」
  同様の証言は陸軍軍医・蜷川親博中尉も行なっている。蜷川中尉は長官機遭難現場近くの歩兵第23連隊の次級軍医として勤務していた。このため、中尉は救難捜索行動に参加し、長官死体の検視も行なっている。
  にもかかわらず、山本長官の秘蔵っ子と言われた渡辺中佐参謀は、事故のあと19日、ラバウルより現地に急行、20日夕刻掃海艇上に運び込まれた長官の遺骸を検死して大本営と全く同一内容の証言をしている。渡辺参謀の証言内容とは「20日夕の時点で顔面貫通機銃創と背部盲貫機銃創は共にあった。4月18日、機上での戦死は間違いない」というものである。
  前出の田淵軍医は「私が検死した時点では顔面に創はあった」「姐(うじ)の侵蝕とは考えられぬ」とし、さらに重要な証言「死後の作為が加えられたかどうか判らない」と言いながらもその可能性を強く示唆している。

 戦死が狂言であったこれだけの証拠     [TOP]

  山本長官の「死」は明らかに狂言であろう。その穏された真相は次の如くであると推測される。

1.山本長官は太平洋戦争前半における帝国海軍崩壊のためのすべての役割を完了した。

2.そのため急遽姿を隠す必要が生じ、側近の宇垣纏中将(連合艦隊参謀長)や渡辺中佐
  (参煤)と共謀し、あらかじめ暗号をアメリカ側に漏洩した上で長官機撃墜の一大ペテン
  劇を演出した。

3.当日、山本長官はわざわざ草色の第三種軍装を身にまとい、ジャングルを逃亡の際目
  立たぬよう略装にした。

4.米軍機攻撃の際、いち早くパラシュートで脱出、地上よりかねて打合せの場所からガダ
  ルカナル島米軍基地へと逃亡した。

5.捜索班が事故機を発見したとき、長官の身替りとされた男(恐らくは風貌の似た人物)を
  座席に縛りつけ毒殺した。

6.従って発見時には顔面の創も背部盲貫機銃創も存在しなかった。

7.その後、山本長官を「機上死」であると捏造するため、遺体に拳銃か鋭利な刀物で人工
  的な死後損傷を加えた。


  事実、田淵軍医が検死をしている最中に長官のワイシャツを脱がせようとしたが、渡辺参謀から突然大声一喝され、「脱がすな、これ以上触れてはならぬ!」と怒鳴られ制止されているのである。人工的な死後損傷であったとする証言も数多く存在するが、これらのすべては黙殺され、渡辺中佐の命令下、虚偽の「死体検案書」と「死体検案記録」は作成され、「機上壮烈なる戦死」という大本営発表となるのである。

 戦後、「山本五十六を見た」という多くの証言    [TOP]

  ここで「運よく」助かった宇垣纏中将とは何者かを知らなければならない。(中略)
  三国同盟締結の折は賛成派に回ったため山本長官にうとんじられているとも言われたが、どういうわけか昭和16年8月、連合艦隊参謀長に任命され、山本五十六大将を直接補佐することになる。以後、連合艦隊の旗艦「大和」上の司令部内で山本長官の影武者に徹して常にその意向を尊重し、補佐してきた。
  あれほど傲岸不遜な宇垣がなぜ山本長官に寄り添い続けたのか。そのわけは宇垣がユダヤ・フリーメーソンに入信したことにあろう。
  山本・宇垣のコンビは真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル、ソロモンと呼吸を合わせ、日本海軍の崩壊に尽力した。
  ブーゲンビル上空で山本長官逃亡の手はずを整えたのも宇垣である。宇垣もしっかりと生きのびており、昭和17年11月には中将に進級、昭和20年8月15日の終戦詔勅渙発を知るや、沖縄の沖合に蝟集する米艦隊めがけて突入すると称して部下の操縦する飛行機に搭乗、そのまま行方を絶った。日本の敗戦を見とどけて姿を消したと言うべきか。
  戦後、山本長官の姿をどこやらで見かけたと証言する人もおり、太平洋戦争を敗北に導いた功労者の多くは「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン陣営によって手厚く保護されるのである。

 ルーズヴェルトの命令を忠実に守ったから        [TOP]

  ここで山本長官の果たした役割についてもう一度まとめてみよう。
  真珠湾攻撃の計画はもともと「世界支配層」およびアメリカ、それに山本長官の深慮遠謀から生まれた計画であった。
  日本人フリーメーソン山本五十六は、連合艦隊司令長官にあるずっと以前、恐らくは海軍次官の頃からアメリカ側と連絡をとり、もし日米が開戦になった時は先ず真珠湾を奇襲し、アメリカの対独戦を合理化させると同時に、日本へのアメリカ国民の参戦気分を一気に高揚させるという計画を練り上げたに違いない。
 アメリカ側でこの計画を推進したのはもちろんフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領であった。そしてこの計画にはヘンリー・スチムソン陸軍長官、フランク・ノックス海軍長官、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長、ハロルド・スターク海軍作戦部長、そしてコーデル・ハル国務長官が加わっていた。
 日本側でこの計画を知っていたのは、山本五十六以外にはほんのひと握りの人間であろう。それはもと首相や海軍大臣、そして外務省の高官たちなど最高度の機密を保てる者に限られていた。
  山本長官はこの計画を実現させるためにいろいろな手を打った。開戦の年昭和16年(1941年)夏の時点では、真珠湾攻撃で使用する予定の軽魚雷はまだ開発中であったし、9月初旬においても攻撃用の直接部隊は不足していた。山本長官は画策の末、こうした戦術面での問題を11月の末にはすべて解決した。
  ところが肝心の永野修身軍令部総長ら海軍首脳部はこぞって反対であった。海軍上層部はまだ日米開戦に躊躇し、真珠湾攻撃が実際にどれだけ効果をあげられるか疑問を持っていたのである。日本がアメリカを仮想敵国としたのは明治40年(1907年)4月に「帝国国防方針」が制定されてからであるが、日本の陸海軍が立案した正式な作戦計画の中にはハワイ攻略は含まれていない。攻略の対象はせいぜいグアム島どまりだったのである。
  昭和15年(1940年)ルーズヴェルト大統領は米海軍首脳の反対を押し切って、それまで西海岸カリフォルニア州のサンディエゴ軍港にあった太平洋艦隊を年次演習の目的でハワイの真珠湾に進出させた。第2次大戦が勃発し、山本五十六が連合艦隊司令長官として対米戦を計画している最中であった。ルーズヴェルトは山本長官と共謀して、日本側に格好の攻撃目標を提供したのである。

 日本を敗戦に導いた山本の謀略とは
            [TOP]

  山本五十六連合艦隊司令長官が3年8カ月に及ぶ太平洋戦争の中で、実際に艦隊を指揮したのは真珠湾攻撃の始まった昭和16年12月8日からブーゲンビル島上空で「戦死」する昭和18年4月18日までの1年4カ月である。
  この間に山本長官は偉大なる貢献を「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン陣営に行なった。その貢献とは何であったかである。山本長官は太平洋戦争が日本の敗北で終わることを望んでいた。日本を敗北させることがフリーメーソンである山本五十六の役目だったのである。
  そのためには日本が圧倒的優位を誇る連合艦隊を速やかに壊滅させる必要があった。そしてもう1つは、アメリカの太平洋艦隊に対し常に手ごころを加え、その戦力を温存させることであった。このため山本長官が取った手段は次の通りであった。

 海軍軍令部の強い反対を押しきって真珠湾攻撃を強行。
  ただしその攻撃は不徹底なものとする。

    忠実なる配下の指揮官  南雲忠一中将(第一航空艦隊司令長官)
                   草鹿龍之前少将(第一航空艦隊参謀長)
                   源田実中佐(第一航空艦隊参謀)
● 珊瑚海海戦で米海軍に手ごころを加える。米空母「ヨークタウン」撃沈せず。
    忠実なる配下の指揮官  井上成美中将(第四艦隊司令長官)
                   原忠一少将(第四艦隊空母指揮官)
● ミッドウェー海戦で連合艦隊大敗北を画策。
   忠実なる配下の指揮官   南雲忠一中将(機動部隊司令長官)
                   草鹿龍之肋少将(機動部隊参謀長)
● ソロモン海戦でガダルカナル大敗北の原因を作る。
   忠実なる配下の指揮言   三川軍一中将(第八艦隊司令長官)
                   南雲忠一中将(機動部隊司令長官)
                   草鹿龍之助少将(機動部隊参謀長)
                   原忠一少将(軽空母「龍驤」指揮官)
● 「い」号作戦で日本の南東方面航空兵力を潰滅させた。

  いずれの海戦においても忠実なる配下の凡将、愚将、怯将である南雲中将、草鹿少将、源田参謀、井上中将、原中将、三川中将などを長期にわたって使い続け、「攻撃の不徹底」ないしは「手ごころ」を加えさせている。
  さらに大事なポイントは、海軍が使用していた暗号電報をアメリカ側に筒抜けにさせていたことであろう。山本長官はアメリカが日本海軍の暗号電報をすでに解読し、連合艦隊のあらゆる作戦行動を見抜いていたこともあらかじめ承知の上で、作戦を強行したふしがある。真珠湾攻撃のときもそうであるし、モレスビー攻略作戦(MO作戦)における珊瑚海海戦は不充分な戦果に終わった。ミッドウェー海戦(MI作戦)の時も、アメリカ側に充分な情報と対応のための準備期間を与えていたと考えられる。
  長期間に及んだソロモン海戦のときも日本の艦隊や輸送船、飛行隊の動きはすべてアメリカによって把握されていた。結局日本海軍は山本五十六の意図によってその初期戦力を激滅させていたのである。
  この偉大なる「功績」により山本長官の役目は一通り終った。そして姿を消す時期がやってきたのである。ブーゲンビル島上空における「戦死」がそれである。アメリカが暗号解読をしていることを承知の山本五十六は、前線視察と称して連合艦隊司令部から一式陸攻に搭乗してブーゲンビル島のブイン飛行場に向かったのである。
  山本五十六連合艦隊司令長官はこうして戦線から姿を消すのであるが、山本長官とともに1年4カ月の海戦を戦った将官たちは、その極度な無能ぶりにもかかわらず戦後さまざまな戦記作家によっていずれも名将、名参謀としてたたえられている。
  戦後の日本がアメリカに占領され、民族心をことごとく失うまでに洗脳された結果、「世界支配層」に迎合するフリーメーソン作家がこのような日本民族に対する背信行為をするのも、いわば当然であろう。
  日本が開戦したときのアメリカとの国力は1対10の比率であったと言われる。
  このために日本が戦争したのは無謀であったとか、やがては負ける運命であったなどという意見があることも事実だ。だが、日本があらゆる海戦で勝利をおさめていれば(それは可能であった)アメリカの戦意が喪失し、休戦、和平交渉の道も可能だったのである。

 
《目次》 クリックして他のページもご覧ください。赤い文字が当ページです。
 
① 負けるべくして始まった太平洋戦争
② 米国のために重大な役割を果たした山本五十六
③ 日本兵を大量にムダ死にさせた山本の作戦
④ 山本五十六は戦死していなかった
⑤ あの戦争は世界支配層のシナリオだった
 
 
 

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天皇まんざーい A級もBC級も戦犯は釈放されていた <3445>

2016-01-26 11:41:58 | 歴史

 

http://saigaijyouhou.com/blog-entry-9750.html より転載しました

♫ 記事のコメントにあったものです。

 

「日本の国内法」においては「罪人」と見なさないということです。
講和条約発効後の1952年昭和27年6月5日から全国一斉に「戦犯受刑者の助命、減刑、内地送還嘆願」の署名運動が始められました。合計約4千万に達しました。こうした国民世論の後押しを受けて、政府は直ちに国内で服役中の戦犯の仮釈放および諸外国で服役中の戦犯を日本に送還する措置について関係各国と折衝を開始しました。でも、連合国側が戦犯釈放になかなか同意しなかったようですね。釈放の見通しも立たないまま1953年昭和28年に入り、喫緊の課題として、一家の主を失って困窮を極めている戦犯の遺族達への援助問題が浮上してきました。戦犯の遺族達にも他の戦没者遺族と同じく弔慰金などの援助をするべきではないか、そのためには、「戦犯を犯罪者と見なすのではなく、公務で亡くなった「公務死」と認定するべきではないか」、という議論が起こりました。「戦犯」とされた人でも「靖国神社」には戦没者としてお祀りするべきという、意見の前提に「東京裁判は間違った裁判だった。」という認識があることは言うまでもないですね。それで、1953年昭和28年8月、「戦傷病者、戦没者遺族等援護法」の一部が改正されて、困窮を極めている戦犯とされた遺族の人達に対しても遺族年金および弔慰金が支給されることになりました。連合軍により軍事裁判で「有罪」とされた全ての人達は、「日本の国内法」においては「罪人」と見なさないということです。だから、日本には所謂、「A級戦犯」なんてものも存在していないのです。一方、日本政府の熱心な働き掛けにより、受刑者の釈放も徐々に進んでいきました。「A級戦犯」は1956年昭和31年3月31日までに関係各国の同意を得て、全員出所したのですが、「B・C級」の最後の18名の仮出所が許されて全員出所したのは、1958年昭和33年5月30日のことでした。 
[ 2016/01/26 01:16 ] アオリイカ [ 編集 ]
 
 
https://www.facebook.com/yoshito.hori.1/posts/604691139596863より転載しました
堀 義人さんが阿部 鉄弥さんの投稿をシェアしました。

A級戦犯は、1952年に4000万人の署名が集まり国会決議を経て赦免された。一方、国際的にも1956年に関係11ヶ国の同意を得て、A級戦犯は赦免されていた。今、靖国神社に合祀されているのは戦犯なのだろうか?

 
 
阿部 鉄弥

リクエストがあったので、戦犯問題について、長いけど歴史的事実について確認

昭和27年(1952年)に発効したサンフランシスコ講和条約の同講和条約第11条では「戦犯」の赦免や減刑についは、「判決に加わった国の過半数が決定する」と定めていたので、全国で戦犯釈放運動が広まり、当時の成人のほとんどいってもよいくらいの4000万人(当時の日本の人口は8454万人)もの署名が集り、その署名運動により、昭和28年に戦犯の赦免に関する決議が国会で、社会党や共産党まで含めて一人の反対もなく決議された。

そして国際的にも、サンフランシスコ講和条約第11条にもとづき関係11ヶ国の同意を得て、A級戦犯は昭和31年に、BC級戦犯は昭和33年までに赦免し釈放された。
このような赦免運動・決議の結果、すでに処刑されていた戦犯は「法務死」とされた。

いわゆるA級戦犯であった重光葵は、第11条の規定により釈放され、公職追放解除後には外務大臣となり、国連加盟時には加盟受諾演説を行った。

 ●1952年(昭和27年)6月9日参議院本会議にて「戦犯在所者の釈放等に関する決議」
 ●1952年(昭和27年)12月9日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
 ●1953年(昭和28年8月3日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
 ●1955年(昭和30年)7月19日衆議院本会議にて「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」
 (以上、全会一致。社会党・共産党も賛成)

ちなみに、
サンフランシスコ講和条約
第二十一条
この条約の第二十五条の規定にかかわらず、中国は、第十条及び第十四条(a)2の利益を受ける権利を有し、朝鮮は、この条約の第二条、第四条、第九条及び第十二条の利益を受ける権利を有する。

要するに、中国(そもそも中華人民共和国でない)と朝鮮(韓国でない)は領土の確定や経済協定などについては認めるということ。

第二十五条(後段)
第二十一条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるものではない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいかなる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない。

要するに、連合国と定義された国以外は口出し無用。

~~~~~~~~~~~~

♫ 靖国神社って、はりぼてだってこと、わかりましたね?国民の操作に使うために作った支配者の思惑神社でした。

なんちゃって戦争でしたね。これを見て皆さんはどう思われるでしょうか?

先の今上天皇の血筋についての情報者のさらなる、情報に会ったA級戦犯の死刑は執行されていなかったと、ありましたが。あり得る話だと思いますね。

すべては、八百長です。なぜあの戦争が行われていたのか。

天皇の周りのエリート達の命は助かったのは、在日エイリートだからです。天皇崇拝を更に強固なものにする為です。

そして、本当の日本人の多くが戦争によって、非業の死をとげています。これはまさしく支配者の驕りによる、日本人の抹殺と言えると思います。

日本人の血を受け継ぐものを、抹殺しているのです。これからの戦争をおこして、大量の日本人を戦場へ送りこみ、拒否すれば、死刑だと国会議員ははっきりと言っていますよ。

日本人の女性の多くを海外へ売りとばして人身売買で大儲けし、男性の多くを海外で戦死させたのは、事実です。戦争だから仕方がない、というのは支配者の策略を知らない人の言う言葉です。 

偽ユダ屋がアメリカから、日本を操作しているのは、確かだと思います。その上にいて、命令を下している人が、日本にいることを、知ってください。

アメリカ軍によるシリアのアサド政権の撲滅を量っているのは、ロス茶の中央銀行の乗っ取りが目的です。これは日本を中心とするNWOです。日本はイル身のてっぺんでしょう。

ロス茶は日本の明治維新に深く関わっており、現天皇家の誕生にも力を貸しています。このようなロス茶と深いつながりのある人が、天皇なのです。

まさか、まさかと思われるでしょう。調べてご覧になってください。

八百長だった、第2次世界大戦。もしかしたら、第1次世界大戦もそうでしょうね。一度あることは、2度あるのです。そして彼らは3度目を画策しているのも、確かです。

日本国民は戦争への靴音がしていることに、気づき始めています。

こんどこそ、このバカバカしい戦争を国民が総出で、阻止できるはずです。

 

これらの真実はやがて明かされる日が来るでしょう。

 

地球人類の奴隷解放はもうすぐ!!!


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この写真の子供 あなたではありませんか?探しています<3234>

2015-12-24 11:37:21 | 歴史

♫ 写真展は20日で終わってしまいましたが、下記の写真にお心あたりのあるかたは、ご連絡すれば、写真をいただけるそうです。貴重な写真だと思います。

沖縄の人は、長年に渡って希望を見いだせずにとうとう、45年前にコザにて暴動を起こしました。その時の写真展があったようです。いかに住民が抑圧された生活を強いられてきたのかが、わかるものです。沖縄の人は、単に我慢強いだけではなく、このようにして、自己アピールをやむなく暴動という形でしてきた過去があるのです。それだけ重圧がひどかったと言うこと以外に何がありますか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=144178 沖縄タイムスより転載しました


発生から45年、「コザ暴動」を検証 沖縄市で写真展

2015年12月3日 15:34 地域 沖縄市 イベント 注目

 

【この少年、捜しています】焼け焦げた米人車両のボンネットの上を歩く少年=1970年12月20日(国吉和夫さん提供)

沖縄】米軍統治下で人権が軽んじられてきた鬱積(うっせき)した不満を爆発させ、住民が国道330号(旧・軍道24号)やゲート通りで米人車両約80台に火を放った、1970年12月20日未明に発生した「コザ暴動」から45年。当時の様子を撮影した新聞社やフリーのカメラマンら8人が10日から、沖縄市中央の「ギャラリーラファイエット」と「ギャラリーM&A」で写真展を開く。20日まで。開館は午前11時から午後7時。入場無料。

» 基地と原発のニュースをフクナワでも

 もうもうと煙を上げながら炎に包まれる米人車両や、暴動が終息して朝方、車両の残骸を見つめる女性や子どもたちなど110点を展示する。事件を通して日米両政府の基地政策を考えようと、フリーカメラマンらが戦後70年「コザ暴動」プロジェクト実行委員会を組織。20日までの期間中各種イベントを展開する。

 12日は午後2時から、「ギャラリーラファイエット」で写真に収められた現場の状況などを紹介するギャラリートークを開催。

 16日は市中央の映画館「シアタードーナツ」で午後1時から、米軍基地に囲まれた沖縄を映し出した「沖縄列島」を上映する。上映は計4回で午後7時まで2時間置きにある。入場料千円。

 また20日は午後2時から、シンポジウムと上映会を市中央のセンター公民館で開く。琉球大学名誉教授の比屋根照夫さん、新聞記者として取材したジャーナリストの高嶺朝一さん、現場を目撃した住民の古堅宗光さんらが当時の時代背景を説明しながら暴動の意味を考える。

 沖縄タイムス中部支社にフリーカメラマンの国吉和夫さん、比嘉豊光さん、今郁義さんが訪れ、「人権を抑圧された住民の怒りのマグマが吹き出たコザ暴動の意味を改めて検証したい。初公開となる写真の展示も多く、ぜひ見てほしい」と呼び掛けた。

 

    ◇     ◇

 

 戦後70年「コザ暴動」プロジェクト実行委員会は「コザ暴動」の写真に収まっている少年を捜している。焼け焦げた米人車両のボンネットの上を歩く少年の姿をカメラマンの国吉和夫さんが撮影したもので、「名乗り出れば本人に写真をプレゼントしたい」と話している。

 問い合わせは同実行委員会(国吉さん)、携帯090(5944)6990。


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ガンディー ネルーの他にチャンドラ・ボースというインド独立を闘った人<3211>

2015-12-21 16:12:14 | 歴史

http://kdachiku.blogspot.jp/2013/02/blog-post.html ハイウェーエンジニアのインド観察記より転載しました。

FEB
25

帝国日本の陰謀か?インド独立運動の英雄チャンドラ・ボースの死の謎

 2005年11月に、スバシ・チャンドラ・ボースの死に関する政府調査委員会が、報告書を提出しました。「ボースは飛行機事故死していない。蓮光寺の遺骨もボースのものでない。」というものです。この政府調査委員会は、これで三度目です。過去の二回の調査結果は、ボースの事故死を支持しましたが、説得力に欠けたことから、今回は5年間に亘る調査を行い、台湾、ロシア、日本など5か国の関係者131人から聴取したその結論です。

ボースは、1945年8月18日に、台湾から日本へ向かう飛行機事故で死亡したと発表されました。今回の調査で、1945年8月14日から9月20日までの間に、現地での飛行機事故は確認されていないという報告を、台湾政府及びアメリカ政府から得ました。インド政府は、「委員会の結論には同意しない。」と表明しました。その根拠の説明は拒否しました。政府は、ボースに関する二つの文書を機密指定とし、調査委員会によるこの資料の開示要求に対して「複数の友好国との関係に影響を与える」との理由で拒んでいます。

ボースは、1897年1月23日に、英国統治のベンガル管区のクタック(現オディシャ州)の裕福な家庭に生まれました。大学共通入試を2番で合格し、秀才の集まるプレジデンシー大学へ入学します。インド人をバカにする英国人教授に対して、学生を集めて授業ボイコットで抗議し、このことで退学になります。カルカッタ大学に再入学した後、イギリスへ留学します。インド公務員試験(ICS) を4番で合格しますが、英国政府の統治下で働くことに納得せず、インドへ帰り政治活動に身を投じました。1923年に全インド青年コングレス党の党首に選ばれます。インド国粋主義の指導者である当時のカルカッタ市長のダスを師と仰ぎ、指導を受けて活動しますが、英国による国粋主義者弾圧で逮捕され、ビルマのマンダレー刑務所へ投獄されました。

釈放後、コングレス党の幹事長に選ばれ、ネルー達と独立運動に身を燃やしました。再び逮捕されますが、釈放されると、今度はカルカッタ市長に立候補し当選します。1938年には、コングレス党の党首に選出されました。ボースの独立運動は、武力も必要とするものです。非暴力主義を唱えるガンディーと対立しました。ネルーもガンディー側に付きますが、ボースの支持者も強く翌年の党首選でもボースが勝って選出されます。しかし、ガンディー側の党の分裂という巧みな派閥運動で、ボースは分裂を避けるために身を引き辞表を提出しました。

ボースはコングレス党から離れ、自身の出身地であるベンガルを支持基盤とした、急進的な活動団体フォワード・ブロックを結成します。この年1939年は、ドイツがポーランドへ侵攻し、イギリスとフランスの対独戦争が勃発し、次第に第二次世界大戦へ拡大していく頃です。ガンディーとネルーが率いるコングレス党に対して、ボースは戦争により混乱している英国に、今こそ武力で独立を勝ち取るチャンスだと申し入れます。しかし、ガンデイー達と意見が合いません。ボースはイギリス軍に逮捕され、自宅軟禁となり監視されます。

ボースは監視の目を逃れてインドを離れ、陸路でアフガニスタンからロシアへ入りました。イギリスと長年敵対しているロシアに対して、インドの独立運動への支援を求めます。しかし、ロシアの関心が薄いことが分かると、今度はモスクワのドイツ大使へアプローチし、特別機でベルリンへ飛びました。ドイツに到着すると、ドイツの支援を得て、北アフリカ戦線でドイツ軍に捕虜になったイギリス軍インド兵3千人を集め、自由インド軍を結成します。その軍を率いてソ連経由でインドへ侵攻する予定でした。しかし、最悪なことにドイツがソ連に攻め入り、ボースの計画は実施困難になります。

ボースはヒットラーに相談します。ヒットラーは、インドの独立には後150年は掛かるだろうと言い、地図を広げてドイツの戦線からインドへの距離が遠すぎることを指摘します。ボースが日本軍の支援を求める提案をすると、ヒットラーは最大の協力をしようと約束しました。折角結成した自由インド軍は置き去りにして、ボースはU-180潜水艦で喜望峰経由でマダガスカルの沖合へ到着し、帝国日本から派遣されたI-29号潜水艦へ乗り換えました。

日本へ到着したボースは、1943年7月に、これまで日本でインド独立運動を指導してきたラシュ・ビハリ・ボースから、インド独立軍を引き継ぎ、インド国軍を結成しました。独立国として承認を得るためには国土が必要です。日本と交渉し、ビルマ沖合のアンダマン・ニコバル諸島を貰い受け、自由インド国(Azad Hind)の独立を宣言しました。ボースは、1943 年 12 月に、諸島の中心地ポート・ブレアを訪れ、自由インド国旗を掲揚します。そして、いつの日か必ずニューデリーの官邸に、この同じ国旗を掲揚すると宣言します。

1944年7月にビルマに入ったボースは、インド国軍を前に演説しました。「諸君の血を頂く、そして私は諸君に自由を勝ち取る。」インド国軍と日本軍はビルマからインド本土へ攻め入り、コヒマやインパールの一部を占領します。ボースは、ここで初めてインド本土に、悲願の自由インド国の国旗を掲揚しました。しかし、1945 年になると戦況は一気に悪くなり、転げ落ちるようにビルマへ撤退していきます。ビルマのラングーンで、英国インド軍に壊滅的な敗北を喫し、タイ方面へ退却しました。1945年8月15日に日本は無条件降伏します。

混乱の続く1945年8月18日に、ボースは日本軍の爆撃機でタイから台湾の台北へ到着します。そこから東京へ向かう飛行機が、離陸直後に墜落しました。ボースは東京からロシアへ向かう予定でした。ボースの遺体は火葬され、その灰は東京の蓮光寺に運ばれ埋葬されました。しかし、日本政府のこの発表には最初から疑問視する声が強く、英国インド政府は、ボースを地下組織への逃亡させる工作だと非難しました。

三回目の調査報告書には、シベリアのキャンプでボースを見たとの証言を得ています。VIP扱いで車と助手も与えられていたボースを見たドイツ系技師が、1962年にモスクワのインド大使館へその情報を持ち込んだところ、他人に漏らすなと厳命されたとの事です。ソ連のフルシチョフ第一書記が、デリーでネルー首相と会った時に、ネルー首相が望めばボースを45日以内に連れて来れる、と発言したことをその通訳者が証言しています。また、ソ連のペテルスブルグ大学で教鞭を取っていたロイ教授が、シベリアで撮影されたボースの写真を、2012年に公表しました。

最初から疑惑に満ちたこの飛行機事故について、一番あり得るストーリーはこうでないかと考えます。日本は、ボースをイギリス軍からの捕獲から逃がすために、事故を装いロシアへ逃亡させた。ロシアはシベリア奥地の収容所でボースを匿った。ロシアは、ネルーが希望すればインドへ返しても良いと思っていた。独立後のインドは、各民族の独立運動も強く、ネルーのコングレス党がやっと国全体をまとめていた。ここにネルーと対立したボースがインドへ帰ってくることは、さらなる分離独立運動に発展しかねない。従って、ネルーは日本政府の飛行機事故死を支持し、ボースに関する文書を処分し、残ったものに対しても機密文書扱いにした。
 
投稿時刻 25th February 2013、投稿者  さん
 
~~~~~~~~~~~
♫ 台湾からの飛行機事故はなかったこと、それだけでも、不可解ですね。終戦の年ですから。
地下組織に彼を連れ込んだものがいるのか、あるいは邪魔にされて消されたのか。
日本に降り立っていない可能性が強いのに、政府(天皇)は火葬まで済ましているとしています。実に不可解な話です。何が不可解かって、偽装を日本政府がしていることです。何のために?
 
インドの首相がアベバカチンをよいしょしたように、インド政府と日本はかなりつながっていることは、確かですね。インドは独立前はイギリスの植民地でしたから。ロス茶が背後にいることは、疑いようもありません。
板垣えいけんによると、天皇はPCを使っていること、セキュリティーをインドに頼んで万全を期していることなど。普通ではありえないことです。自国よりもインドを信用しているのですよ。わかりますか?
 
事実を知っているとしたら、田布施Sしかありませんね。
 
本当にこの日本は歴史を改ざんするのには、たけています。今も行っていますよ。
 
 
 

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考古学者 最古の入れ墨アイスマン <3203>

2015-12-20 11:16:21 | 歴史

スプートニク日本より転載しました

考古学者らは、最古の刺青は誰のものか、という論争を解決した。それは1991年にアルプス地方でツーリストらに発見された、エッツィことチロル地方の「アイスマン」である

エッツィは体に61個という多数の刺青を刻んでいた。これはおそらく治療目的であった。新研究がJournal of Archaeological Science誌に掲載され、概要はThe Independentで報じられた。

エッツィは紀元前3250年ごろに死亡した。

刺青はほとんどが線または十字であった。皮膚に刻み目を入れ、そこに木炭を塗り込んだものとみられる。つまり、装飾でなく、医学的目的だったのだ。



続きを読む http://jp.sputniknews.com/science/20151220/1345909.html#ixzz3up5GLHCD

~~~~~~~~~

♫ 61個の入れ墨をした者が、どうして、雪山で発見されたのでしょう。

治療目的だとするのは、どうなんでしょう?

もっと別の理由があったのではないかと、私は思います。

雪山に登って亡くなったのは、逃げたからではないでしょうか?

奴隷に刻印を押すのは、昔何かの本で読みました。これではないかと思いますが。

 


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1483B ナポレオンの頭蓋骨に埋め込まれていたマイクロチップ <3161>

2015-12-14 14:48:01 | 歴史

1483B ナポレオンの頭蓋骨に埋め込まれていたマイクロチップAlien Chip in Napoleons Skull hoax or Not by はやし浩司

♫ はやしひろし氏は、この話は、本当とも嘘ともまだわからないとしています。

私は、本当ではないかと思いたいですね。この問題はしばらくお預けです。新たに面白いものが出てくるといいですね。


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1203+1202 聖徳太子はミトラだった(2)太子は巨人だった<3160>

2015-12-14 14:39:03 | 歴史

1203+1202 聖徳太子はミトラだった(2)Shotoku Taishi is Mithras2 太子は巨人だったTaishi was a Giant

♫ はやしひろし氏の考察では、聖徳太子は実在している人物で、ミトラ教のミトラに通じる人物だったということです。

ミトラ教はキリスト教に取って変わられたもので、聖書がミトラ教のコピーであることも、はやしひろし氏は、あげています。

世界の主だった宗教は、最初は宇宙からの使者であり、地球の人類に愛を教えていたのですが、やがてそれらの宗教は、支配者に乗っ取られて、変えられていったのです。

ブッダも聖徳太子も巨人でした。

 聖徳太子は襲われても相手を殺すことは、しなかったという伝説があります。

私もはやしひろし氏の考察には賛成です。

その証拠と言えるのが、中宮寺のこのような歴史的な遺産が物語っていると思いますし、

聖徳太子の予言なるものも、あるからです。

支配者には、都合の悪い人であるから、いなかったとする話しが浮上して流布されているのだと思います。

そして、はやしひろし氏の他の動画にありましたが、法隆寺は他の寺とは、線で結ばれていない、ということです。

支配者側ではないと、思われる一つの理由です。

奈良に行かれた人は思うでしょう。

私は京都よりも奈良へ行くと、故郷へ帰ったような気持ちになります。斑鳩の里は、のんびりとして、大きなものを感じます。

 

 


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明治維新は間違いだ長州はテロリスト集団=イスラム国 <3159>

2015-12-14 13:46:11 | 歴史

明治維新は間違いだった!長州はテロリスト集団=ISIS(イスラム国・ダーイシュ)のようなもの【原田伊織『明治維新という過ち』】歴史ミステリー

♫ 明治維新は長州の朝鮮人の画策ですが、何もないところから、生まれるわけが

ないのです。大金をグラバーが出しているのも、これは日本への投資でした。背後にロス茶がいたのです。

長崎より、イエズス会が入り込み日本をくまなく調査したのです。それにより、長州のこのを操るのに、うってつけな集団だと判断したからですね。

ロス茶の思惑がなぜ、長州だったのか、それはまだ謎です。私はもしかしたら、ハザール国の末裔を探していたのではないかと、疑っています。そのハザール国の末裔がもしかしたら、長州のこのにいたのではないでしょうか?

ハザール国は、ものすごい野蛮な民族でした。表の社会では今はそれを隠していますが、裏の社会は、同じ野蛮な民族をすべて表していると思います。

この歴史ミステリーが、どれだけの人を目覚めさせるのかは、まだまだ未知数ですが、すくなくとも、福島県の皆さんを満足させているのは、確かでしょう。福島県会津は、時代をへても、明治維新のくやしさをつないできた人達でした。

江戸の末期、明治維新をこれほどまでに、時代を近くで見ているのは、日本人が日本の嘘に気づき出したのです。

加えて、犬HKの大河ドラマも低視聴率ですって。笑。

大河ドラマで、明治天皇誕生でもやったらいいのに。本当の歴史でですよ。高視聴率間違いなしです。

 


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誰も知らない、水で走る車 <3131>

2015-12-11 12:56:19 | 歴史

誰も知らない、水で走る車

♫ すでに水で走る車が出来ていたのですね。そして彼は暗殺されました。

このような人がどれだけいたのでしょう。

人類の為になるはずの、今では温暖化と言いながら、このような車を作らせなかったことも、

操作ですね。


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ムーミンの翻訳者の過去は <3110>

2015-12-08 15:54:28 | 歴史

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151208-00000000-sasahi-peo より転載しました

ムーミンの訳者は女スパイ!? 日米開戦に猛反対した軍人の夫を支えた“激動の生涯”〈dot.〉

dot. 12月8日(火)7時9分配信

童話「ムーミン」の訳者は女スパイだった!?――フィンランドの作家、トーベ・ヤンソンの名作として知られる「ムーミン・シリーズ」。これを日本に紹介したのが翻訳家・小野寺百合子(1998年没、享年92歳)だ。エレン・ケイの「児童の世紀」(富山房百科文庫)、バルブロ・リンドグレンの「マックスのくまちゃん」(佑学社)など、日本では数少ない北欧・スウェーデンの書籍を翻訳したことで知られる。

 百合子がスウェーデンに携わったのは、夫・信(まこと)の赴任先・ストックホルムへの同行がきっかけだ。百合子の夫は、公使館に勤務するミリタリー・アタッシュ(軍人外交官)として、当時、北欧諸国では「欧州の日本スパイの親玉」と呼ばれた凄腕のスパイ、情報畑の陸軍軍人だった。その活動を妻として支えたのが百合子、その人である。

 74年前の今日、1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争が開戦した。これに先立って今の東京・三宅坂にあった軍中央には北欧・スウェーデンから約30通、ほぼ同じ内容の電報がたて続けに届けられた。

「日米開戦絶対不可ナリ――日本とアメリカの戦争は絶対に行ってはならない」

 こうした電報は、暗号に翻訳され中央に打電される。軍人外交官の妻である百合子は、暗号の翻訳と管理、電信係の仕事を担っていたという。

 1985年(昭和60年)に放映されたNHK特集「日米開戦絶対不可ナリ ~ 小野寺大佐発 ~ 至急電」のインタビューに応える百合子の映像が残されている。

「金庫とはどんなに精巧に作ったものでも、所詮、人間がつくったもの。2時間あれば開き得る。だから2時間以上の外出はしなかった。昼はいいけれど、晩のご飯が向こう(スウェーデン)は長い。だから暗号書など重要な書類を入れるそれ専用の腹巻を作り、帯の中に入れてました。そうするとちっともわからない」(NHK特集「日米開戦絶対不可ナリ」から)

 戦前から戦中のスウェーデンは、各国のスパイが暗躍し、激しい情報戦が繰り広げられた。その真っただ中に百合子もいた。軍人外交官の妻として華やかながらも緊張感に満ちた当時の生活は、百合子の著書、「バルト海のほとりにて―武官の妻の大東亜戦争」(小野寺百合子著・朝日文庫)に詳しい。

<私は相変わらず夜は着物いってんばりで通したが、アフタヌーンドレスやスーツ、それに合わせた帽子や靴をつくらなければならない(中略)当時のディナーというのは夕方六時か六時半の招待で、お開きは十二時過ぎだった。サロンでの食前酒からはじまるが(以下、略)>

 着物いってんばり――暗号書を入れた腹巻きを帯の中に隠していたためである。華やかなパーティーの社交の場、そこは各国の威信を担う外交官や軍人にとっては"情報戦"という名の戦場だ。同書には、そんな緊迫した様子もまた描かれている。

<私は夫人たちが時局について自分なりの意見をはっきりと持っていて、誰の前でもはばからず堂々と発言するのに驚いた。(中略)日本の武官夫人がこう言っていたと言われては大変だからと自己弁護して、なるべく黙って聞いていた>

 百合子の夫・信は、当時の軍人には珍しい"非戦派"として知られている。「戦争は絶対にいけない」というのが信の口癖だったという。「諜報の天才」と呼ばれた軍人外交官の信だが、北欧・スウェーデンにおける活動は、当時の中央ではほとんど評価されることはなかった。信が送ってくる情報が「英米に傾きすぎ」というのがその理由だった。

 もし当時の軍中央が信の情報に耳を傾けていれば、広島・長崎の原爆投下、中国の残留孤児、シベリア抑留の悲劇もなかったかもしれないという歴史学者もいる。

 終戦後、日本に引き揚げた小野寺夫婦だが、引き揚げ船から日本に上陸すると同時に信は「戦犯容疑者」としてそのまま家族から引き離されGHQに連行される。そして百合子は上陸後、米軍の施設に収容される。

<婦人専用の建物の中に入れられ、一人一人になって衣服を全部脱がされ、ガウン一枚を着せられた。それから貴重品を隠し持っていないかの厳重極まる検査がはじまった>

 それから数カ月後、戦犯容疑の晴れた信が帰宅した。ここから、ようやく夫婦の戦後がはじまる。軍人の妻から民間人の妻へ。信は材木会社でトラックの上乗りを、百合子は婦人服の仕立てを行い生計を立てた。

 その後、夫の信はスウェーデン時代の知己とともに「日瑞貿易会社」を設立。再び、小野寺夫婦とスウェーデンの縁が繋がった。そして「ムーミン」シリーズをはじめ、数々の作品が日本に紹介される。

 平和な世界に生きるムーミン、だがこの作品を私たちに伝えた翻訳家・小野寺百合子の激動の生涯を知る人は少ない。開戦の日の今日だからこそ、百合子が訳した平和な時代だからこそ読める名作を味わいたいものだ。

 なお来夏、この小野寺夫婦のスウェーデンの活動は、主演の薬師丸ひろ子が百合子役を、香川照之が信役を演じる終戦記念ドラマ「百合子さんの絵本」(NHK総合)の放映が決まっている。

※敬称略

(フリーランス・ライター・秋山謙一郎)

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♫ なるほどね。スパイと言えるのかどうかわかりませんけど、少なくとも、情報を集めていたことはあったでしょうね。

奥さんたちがしゃべることも、実は計算して、殿方は奥さんに情報を流していたかもしれません。

私はすっかり疑い深くなりました。

戦争は、することに決まっていた。===それだけは、確かなようです。

一人の人間が出来ることは、砂の粒ほどですが。砂の粒がたくさん集まれば、砂嵐となることもあるわけです。

現代の社会は、すでに歴史から知りえた貴重な情報があるのですから、偽物政府の政策を辞めさせない手はないですね。

戦争に賛成の人はどれほどいるのでしょう?

 

 


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