『蜻蛉洲大和の国のサンライズタイム』ー外国人参政権反対、移民政策反対、背乗り工作反対!盗聴・盗撮は日本では犯罪です!ー

キラキラネームは日本の漢字文化を破壊するための、カルトの工作活動です!公務員の国籍条項と外国人土地法の復活求む!

箸休めで 再アップ♪

2014年12月20日 10時52分00秒 | 日記
以下の二つの文章は、某懸賞論文に応募して落ちた物です。とは言え、それ程酷い内容とも思われませんので、ここに再掲載します。一つは、13年に書いた物、一つは12年に書いた物を手直しした物です。気が向いたら、受賞作品と見比べながらお楽しみ下さい(笑)。


『周恩来も知っていた日本の尖閣領有』

一、始めに
2010年9月に尖閣諸島沖で起こった中国漁船衝突事件以降、中国国家海洋局の公船による領海侵犯が相継ぎ、2012年4月16日、遂に(日本時間17日)石原慎太郎都知事(当時)は、ワシントンのヘリテージ財団主催のシンポジウムで、尖閣諸島を東京都が買い取る意向を示した。その後、7月7日、今度は野田佳彦首相(当時)が、平穏且つ安定的に管理する観点から国有化を検討すると発表した。

こうした中で、8月15日、香港保釣行動委員会会員が、領有権を主張して尖閣諸島に上陸。日本側は、不法入国として彼等を勾留したが、それを不服として陝西省西安市で18日にデモが発生。翌19日には、中国の領有権を訴える反日デモが広東省深玔・浙江省杭州・四川省成都など少なくとも20都市以上で発生した。深玔では現地時間午前10時頃からデモが始まり、約2000人が横断幕を掲げて行進し、後に暴徒化して警察車輌を破壊し、公安当局に拘束されたが、各地のデモは午後になると収束に向かった。同19日には、保釣の上陸に対抗して、日本の地方議員や活動家10名も尖閣諸島に上陸している。

二、領有の根拠
日中双方には、それぞれ自国の領土と主張する根拠がある。1937年7月7日の蘆溝橋事件を発端とする支那事変勃発から1972年9月まで、日中間では、書類の上では戦争状態が続いていた。しかし、田中角栄首相(当時)が訪中し、9月29日に「日中共同声明」に周恩来首相と共に署名したことにより、日中国交は正常化された。

この時締結された「日中共同声明」に、「三、中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。」という一文があり、この「ポツダム宣言第八項」に、「八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」と、日本の主権は、本州、北海道、九州、四国及び「我らが決定する諸小島」に限定する、と書かれている。他に※明朝の嘉靖十三年の記述を始めとする歴史的な主張もあるが、この条約を根拠に、中国側は尖閣諸島を自国の領土と主張する。

※釣魚台に関する最も早い文献として、明の嘉靖十三年(1534年)、第十一琉球冊封使に任ぜられた陳侃の著した《使琉球録》に「釣魚嶼」と書かれている事や、天明6年(1786年)、仙台の林子平の制作した《三国通覧図説》の《琉球国全図》に、釣魚台列嶼の各島が大陸と同系色で、台湾とは色違いに描かれている事を挙げるが、清朝の図には、東北と台湾が中国大陸とは違う色で書かれている。それで、《図説》は、林子平の個人的な解釈と考えられ、確証とするには足りない。

一方、敗戦後の日本に対する方針を決定した条約には、カイロ宣言(一九四三年十二月)・ポツダム宣言(一九四五年七月)の他に、サンフランシスコ講話条約(一九五二年四月)がある。その第三条に、

「日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」

日本では、これらの地域は、一時、米国の信託統治下に置かれ、1972年5月発効の、琉球諸島及び大東諸島に関する日本国と米国との協定(沖縄返還協定)によって、我が国に返還された、と了解している。

さて、上記の条約を根拠として領有権を主張し、日中双方で抗議活動が行われる中、2012年8月24日、※「大紀元」に一つの記事が掲載された。記事には、尖閣諸島が日本に帰属するという二つの根拠が掲げられていた。

※2000年に米国で設立。中国系の目線で、中共の情報操作に対して、報道の自由を守り、真実を伝える事を目標に創設された。独立の多言語媒体。2012年までに5大陸、35の国家に対して、中・英・日本語を始めとして12種類の言語で新聞を発行し、ネットで情報を配信している。以下は、中国語の記事から。

三、「大紀元」の記事
『周恩来が公然と※釣魚島は日本に帰属すると称し 中共の売国が露見した』

※尖閣諸島は、台湾・香港とマカオでは「釣魚台列嶼」と呼ばれ、中国大陸の官報では「釣魚島及びその附属の島嶼」、民間と媒体では「釣魚台」及び「釣魚台群島」と呼ばれている。「釣魚台」は、すべての島嶼を含む名称であり、同時に主島の名でもある。周囲に魚が群生している事からこの名がある。

2012年8月24日

「最近、中日釣魚島の主権紛争が激化した。香港の保釣メンバーは「意気軒昂」釣魚島に上陸して、日本に抑留され、一部の日本人も怒って釣魚島に上陸し、その後、中国大陸の多くの省市で大規模な「反日デモ」が発生した。しかし、ほとんど知られていないが、釣魚島は既に中共によって日本に売られている。1950年代、周恩来はおおっぴらに、釣魚島は日本に帰属すると承認していた。この情報が明るみに出ると、ネット界には大論争が巻き起こった。

・中共の報道官「中国は琉球の主権を放棄しない」と言うデマ
8月18日と19日、中国の20以上の都市で「反日大規模デモ」が発生した。しかし、デモが「勇ましく盛大」に進行し、多数の民衆が街頭で日本車をめちゃめちゃにし、「売国奴」と罵っている頃、ネット上には《人民日報》が1953年1月と1958年3月に別々に発表した釣魚島に関する文章が、流出していた。

一篇は《人民日報》に1958年3月26日に発表された社説《無恥の捏造》で、田桓主編の《戦後中日関係文献集(1945-1970)》中国社会科学出版社1996年版第348-350頁に掲載されている物だ。もう一篇は《人民日報》1953年1月8日発表の『琉球群島人民の米国占領に反対する闘争』で、『新華月報』1953年(2)に見える。

《無恥の捏造》は、当時の中共外交部報道官の話を引用して、所謂「中国は絶対に琉球群島に対する主権を放棄しない」と放送したのは米国人が捏造したデマである、と称するもので、「米国の占領者は、沖縄民主勢力の選挙活動を破壊し、有権者の反米感情を緩和する為に、各種の陰謀を画策し、並びに、様々な手段を取ったが、その中で最も卑劣無恥な物が、すなわち、選挙前夜に北京放送局の名を騙り、沖縄に対して放送したという物だ。この替え玉放送の中で、中国外交部報道官は談話を発表し『中国は絶対に琉球に対する主権を放棄しない』と表明したと述べていたが、これは明らかに陰険悪辣な教唆煽動であり、その目的は、沖縄人民の、沖縄を日本に返還して欲しいという強烈な要求を挫くことにある…」

・周恩来「釣魚島は日本のものだ」
文章は更に、中共総理周恩来は既に1951年8月15日の「米英対日講和条約の草案及びサンフランシスコ会議に関する声明」の中で、(琉球群島と小笠原群島を含む)「これらの島嶼は、過去の如何なる国際協定の中でも、ひとしく未だ日本を離れたと規定された事はない」と表明している。

『琉球群島人民の米国占領に反対する闘争』では、釣魚島を称して、日本の呼称の「尖閣諸島」であると称している。文章は「琉球群島は、我が国台湾の東北と日本の九州島西南との間の海面上に散在し、尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、大島諸島、土噶喇諸島、大隅諸島等七組の島嶼が含まれる」と述べている。

更に、琉球人民は米国が琉球を変えて軍事基地とする事に反対し、米国の奴隷統治に反対し、自由・解放と平和を勝ち取る闘争は決して孤立しておらず、それは日本人民の独立・民主と平和を勝ち取る闘争と不可分である云々、と称している。

上述の驚くべき意見は、ミニブログ(新浪と騰訊微博)上で、人々の強烈な興味と議論を引き起こし、多くの専門家・学者と民間の人々が、続々と《人民日報》に対して説明を求めた…。」(「大紀元」『周恩來公開稱:釣魚島歸屬日本 曝光中共賣國』2012年08月24日)
記事の引用は、ここまで。
四、二つの根拠
さて、上記の記事について少し補足すると、1953年1月8日の『琉球群島人民の米国占領に反対する闘争』(原題「琉球群島人民反對美國佔領的鬥爭」)は、「サンフランシスコ講話条約」の翌年に書かれている。

記事の掲載されている『新華月報』は、1949年11月15日創刊の総合雑誌で、国家出版総署署長 胡愈之(こゆし)によって創刊された。創刊号の題辞は毛沢東の手による。始め新華書局から出版されたが、1950年12月に人民出版社が創設されると、それ以後、人民出版社から出版されるようになった。その時々の党要人、国家発表の重要文献資料を掲載しており、07年には、解放軍総政治部と新聞出版総署から“百家優秀期刊”に選ばれ、09年には、中国期刊協会・中国出版科学研究所によって“新中国60年で最も影響力のある期刊”に選出され、2010年、中共中央党校から“国内著名理論期刊”として推薦されている。

『琉球群島人民の米国占領に反対する闘争』では、米国の沖縄占領を「侵略」と決めつけ、同条約に異議を唱え、並びに、沖縄人民の米国の占領に反対する闘争を賞賛している。

「…「カイロ宣言」「ポツダム宣言」等の各項目、国際協議の中に琉球群島の信託統治を決定する規定がないのも顧みず、ソ連政府と中華人民共和国政府の度々の声明も顧みず、一百万琉球人民のきっぱりとした反対も顧みず、(「サンフランシスコ講話条約」を日本政府と勝手に結び)、…米国はこの様な卑怯な手段で、勝手に無期限に琉球群島を占領するという侵略行為に「合法」の外套を着せた後、昨年四月一日に、島に比嘉秀平を党首とする琉球傀儡政府を誕生させた…。」

ここに記されている「琉球群島」については、記事の始めに次のように書かれている、

「琉球群島は、我が国台湾の東北と日本の九州島西南との間の海面上に散在し、尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、大島諸島、土噶喇諸島、大隅諸島等七組の島嶼が含まれ、合計、五十島以上の名称のある島嶼と四百数島の無名の小島があり、全ての陸地面積は、四千六百七十平方キロメートルである。群島中最大の島は沖縄諸島中の沖縄島(即ち大琉球島)で、面積一千二百十一平方キロメートル、その次は大島諸島中の奄美大島で、面積七百三十平方キロメートル。琉球群島は遠く一千キロメートルにわたって広がり、その内側は我が国の東海、外側は太平洋の公海である。」

と、琉球群島に尖閣諸島が含まれている事が明記されており、並びに、中国が非常に注目している事が窺える。

次に、1958年3月26日の『無知の捏造』(原題「無恥的捏造」)だが、記事にある様に、「中国社会科学出版社」から1996年に出版された田桓主編の『戦後中日関係文献集(1945-1970)』に掲載されている。
『無知の捏造』には、1958年3月16日に、沖縄で行われた立法院議員総選挙で、民主主義擁護連絡協議会が5名を当選させた時の事が書かれている。その時に、中国側の主張によれば、米国の選挙妨害があったらしく、3月14日の晩、北京放送局の名を騙り、沖縄に対して、中国外交部報道官が「中国は絶対に琉球に対する主権を手放さない。」と偽の放送を流したという物だ。記事によれば、中国側は、沖縄の日本への返還を阻止するための、米国側の「無恥の捏造」であると抗議している。そして、周恩来の発言を引用して、中共の沖縄に対する立場を説明する部分があり、

「我が国の周恩来総理も以前、一九五一年八月十五日の《米英対日講和条約草案及びサンフランシスコ会議に関する声明》の中で、米国が琉球群島・小笠原群島等に対して"信託統治権"を保有する、という話を却下した時に、「これらの島嶼は、過去の如何なる国際協定の中でも、未だ嘗て日本を離れたと規定された事はない」と指摘した。」と強調している。

五、結び
この二つの記事は、「大躍進」や「文化大革命」より以前、毛沢東も周恩来も小平も存命であった頃に書かれた物であり、その中で、51年には周恩来が「琉球群島」は日本の領土であると言い、53年の「人民日報」の記事には、「琉球群島」の中に「尖閣諸島」が含まれると記されている。

「尖閣諸島」の問題を論ずる場合に、必ず「70年に国連が行った海洋調査でイラクに匹敵する石油埋蔵量の可能性が報告されると、中国が領有権を主張し始めた」と言う話が出てくるが、真にその通りで、上記の記述からは、50年代には中共指導者の間で、「尖閣諸島」が確実に日本の領土であると考えられていた事が分かる。

『新華月報、1953年(2)』は、既に、昭和二十八年五月二十日に、我が国の国立国会図書館に収蔵されている。当時、小平が「人民日報」を読んでいないはずはない。また、「人民日報」が、毛沢東や周恩来等の意向に反する記事を載せられるはずもない。72年の国交回復前に、或いは、78年の小平の来日前に、我が国の外務省の官僚が、これらの資料に目を通していないはずはない。そもそも、日本には尖閣諸島をめぐって解決しなければならない領有権の問題は存在しない。ならば、中国のデモなど無駄な事。「棚上げ論」など無かったのだ。

中国は日本に対して歴史を学べと言うが、中国側には是非とも、周恩来の言葉を思い出して頂きたい。

                                     (終)


『日本製反日運動』

(一)
二○一二年九月十日に尖閣諸島の国有化が閣議決定されると、中国ではぽつぽつと反日デモが起こり、十五・十六日には、七二年の国交正常化以来最悪の、打ち壊し・略奪・焼き討ちが発生した。デモの参加者は、八十年代以後に生まれた二十代・三十代の若者が多数を占め、「打倒日本帝国主義」と書かれた横断幕を掲げ、また、日本人が尖閣に上陸していないにも関わらず、「釣魚島から出て行け」と口々に叫んでいた。この様な運動は、建国以来たびたび行われた反日教育の賜である事は言うまでもないが、その責任は、中共政府だけにあるのではない。

今から二十二年前の平成四年(九二年)十月二十三日~二十八日、天皇皇后両陛下が中国を訪問された。天安門事件(八九年)で欧米諸国から非難を受けていた中国に、日本が手を差しのべた形での御訪中で、その前後、中国国内では、NHKドラマの「おしん」や、テレビアニメの「一休さん」が放送され、ちょっとした日本ブームが起きていた。北京の建国門外には、ニューオータニ系列のホテル「長富宮飯店」の列びに、高級品や日本食を扱う「ヤオハンデパート」もできて、その一角は「日中友好」の象徴のようだった。

天皇陛下の御訪中が、中国国内で大々的に報じられた事もあり、また、バブル経済が弾けたばかりで、日本がまだまだ裕福であった事もあり、日本人はたいていの場所で、人民から好意的な対応を受けた。私はこの頃、ちょうど中国に留学中で、フィールドワークに出かけた先々で、図書館や博物館で、人民からとても親切に応対して貰ったのを覚えている。恐らく、当時中国にいた日本人は、皆、同様の幸せを享受していたはずだ。

(二)
九三年 江沢民が国家主席となり、
九四年村山内閣成立。
九五年五月三日、村山首相が江沢民国家主席と中南海で会見。

五月四日の「人民日報」第一面、中央の見出しには「江主席 村山首相と会見、双方は歴史に対して正しい態度をとり、将来に目を向ける事が両国の関係を押し進め更に発展させるとの意を示した」と書かれている。江沢民は会見の中で「我々は永遠にこの痛ましい歴史を心に刻むべきである」と言い、また、「李鵬総理 村山首相と会談、二十一世紀に向かう中日関係を更に発展させたいとの意向を示した。村山首相は中国人民英雄記念碑に花輪を捧げた」との、写真付きの記事が掲載された。

また同新聞の四面にも、「日本の首相 抗日戦争記念館を参観、村山の書き置きには、歴史を直視し、日中友好と永久平和を祈る、と」と、蘆溝橋を参観した時の様子を載せている。

この会見から約一ヶ月後の、「人民日報」九五年六月十二日号に、初めて大々的に排日の記事が掲載された。三面、一番上に大きく「中国人民抗日戦争勝利五十周年を記念す」と書かれ、この連載について、「…中国人民抗日戦争勝利五十周年を記念し、愛国主義を発揚し、民族の精神を奮い立たせるために、人民解放軍総政治部宣伝部と本紙国内政治部は、共同で《この歴史を忘れるな》という特集を組み、専門家の意見・レポート・インタビュー・写真等のついた一連の原稿を掲載します。本日は、中国国際戦略学会会長 徐信の著した《血まみれの歴史 偉大な貢献》の一文を掲載し、この特集の序章としたいと思います。」と説明している。

この特集記事は、新聞のまるまる一面を使って、大々的に行われた連載だった。《この歴史を忘れるな》「中国人民抗日戦争勝利五十周年を記念す」という特集について、インターネットで検索すると、九五年十月一日に解放軍出版社から、276ページの本にまとめられて出版されているので、連載は長期に渡る物であったと思われる。私は、この「人民日報」の記事が、その後十数年間続く排日運動を方向付ける記事であったと考えている。
連載が始まった頃、私は中国人からよくこんな事を聞かれた、「この間まで中日友好、中日友好と言っていたのに、日本はこれでいいのか?」。これは、天皇陛下の御訪中に象徴される日本への親しみと、反日愛国運動に対する不信感を示していた。

この頃の「人民日報」は、一部十六面の新聞で、一面まるまる使って排日の記事を連載するのは、中国人の目から見ても、常軌を逸した扱いだった。私は、村山内閣か、或いは、天皇陛下の御訪中をお膳立てした人々が、中国に対して抗議をするだろうと思っていた。御訪中については、多くの反対があり、反対を押し切った人々には、友好を持続させる責任があるはずだ。だいたい、この様な記事が新聞に連載されては、日本人は中国に住んではいられない。邦人の安全の為にも、何か策を講ずると思っていた。

しかし、日本政府は中国の排日運動を看過したのみならず、九八年、排日運動の首謀者 江沢民を招聘し、宮中晩餐会に呼び、日中共同宣言まで発表した。八九年には、民主化運動に理解を示して追放された趙紫陽の後任として、学生の弾圧を肯定して党総書記に就任、九六年には、中華民国総統選に圧力を掛けるために台湾海峡にミサイルを撃ち込んでいる。だいたい、江沢民を嫌いだと言う中国人には大勢会ったが、好きだという中国人には会ったことがない。日本のリベラルとか、親中派と呼ばれる人々は、江沢民の政策や中国での評判を調べたのか、或いは、中国の排日運動をどう思っていたのか非常に疑問だった。

更に不思議なのは、《この歴史を忘れるな》の掲載された「人民日報」は、共産党の機関紙で、当時は発行部数一千万部を誇る中国第一の新聞だった。八九年に「天安門事件」が起こって僅か六年、当時、日本大使館や領事館に勤めていた官僚や日本の職員が、中国の新聞を読んでいないはずはない。文化大革命が上海の「文匯報(ぶんわいほう)」から始まったように、排日愛国運動も、「人民日報」から始まった。人民日報国内版この記事を、どう考えていたのだろう。
さて、九五年から始まった排日運動は、○五年四月への反日・排日デモへと結実して行く。当時、日本大使館、上海領事館、広州日本領事館での反日・抗日デモ及び投石は、七二年、国交が正常化されて以来最大の反日抗議活動と言われた。これは○八年の四川大地震で、日本が中国に自衛隊を送るまで続く事になる。

(三)
ここで少し歴史を振り返ると、

日本から見た日中関係は、一九三七年七月七日の蘆溝橋事件を発端とする支那事変に始まり、四一年蒋介石が連合国共同宣言に署名し正式に宣戦布告、七二年まで書類上では戦争状態が続く。始まりは、日本と国民党、中共は抗日戦争に勝利と宣伝するが、解放軍とどれだけ戦ったのかは分からない。兎も角、日本が去った後、四六年六月からは、人民解放軍(共産党軍)と国民党軍との国共内戦が始まる。これは四九年十月の中国建国まで、三年余り続く熾烈な権力闘争だった。建国後は、一九五○年から五三年までは朝鮮戦争参戦、五八年から六○年までは「大躍進政策」の失敗で餓死者を出し、六六年から七六年までは「文化大革命」による大混乱、七九年には中越戦争勃発、中国はベトナムへ侵攻するも撤退。

何か、戦争と政策の失敗とを繰り返しているような歴史だが、九五年当時、五十代以上の中国人は皆、上記の歴史を体験していた。それで、政府が排日運動を始めても、事実を公平に見ていて、「俺は、人民解放軍の腐敗の方が問題だと思うね。」そんな話しをしていた。しかし、若い世代には経験がない。十年以上続いた反日愛国教育で育った二十代・三十代の若者は、上の世代よりも、日本に対する不信感が強いのではないかと思う。

一九八九年の「天安門事件」は、一党独裁に対する不満や、経済が好調であった日本や欧米に対する憧れの過激な発露であり、中国共産党の終焉を国内外に知らせる事件だった。その為、九十年代前半の、人民の憧れが、相変わらず資本主義陣営にある事を示す日本ブームは、共産党にとって、必ずしも歓迎すべき状態ではなかったはずだ。江沢民にとっては、天安門事件の頃から国家主席に就任した後も、依然として厄介な状態に変わりはなく、有効な政策を打ち出す必要に迫られていたのではないだろうか。

(四)
江沢民については、小平の後押しがなければ何もできないであろう、と言うのが、周囲の中国人達の評価だった。その評価の真偽はともかく、国家主席としての地盤を固めるためにも、また、それまでの共産党政治の失敗を払拭するのにも、排日運動は有効だったはずだ。

村山富市氏と江沢民氏は、このとき始めて会見したのではなく、前年十二月に、既にジャカルタで会見し両国の事を話し合っている。九五年から始まった排日運動は、両氏が出合った事で始まり、中国通と呼ばれる人々が抗議をしなかったために十年以上も続く事になった。その間、中国に於いて日本人の財産も名誉も失われたばかりでなく、ウイグルやチベットに於いて中共の暴走を許し、共産主義を標榜しながら、貧富の差が天地ほども開いた社会を創り上げる事に、結果として日本は荷担した。

天皇陛下が御訪中になった前後は、日本人は、尊敬と憧れを以て中国人に迎えられた。しかし、村山氏の展開した謝罪外交の後では、中国人の日本人に対する態度は、次第に、馬鹿にしたぎすぎすした物に変わって行った。ひょっとすると、日本政府よりも中国人民の方が、天皇陛下の御訪中を、重く受け止めていたのかも知れない。この頃、山東省では毎日NHKの「はね駒」が放送されていた。斉藤由貴や沢田研二が、中国語で話すのが面白くて見ていたが、そのうち打ち切りになってしまった。

(五)
さて、平成二十四年九月十五日、報道に因れば、山東省青島では、デモ参加者がパナソニックなど十社近くの機材を破壊。若者が乱入し、破壊の後放火し、トヨタの販売店では百台以上が焼失、隣接するホンダの販売店も全焼、日産の販売店でも約十台の車がひっくり返された。イオンの「ジャスコ」も、通りに面したガラスが割られ、店に侵入した若者により商品は略奪された。湖南省長沙では、日系スーパー「平和堂」も被害を出している。それらの企業は、デモの参加者が叫んでいたような「帝国主義」を振り回すような事はなく、国交回復以降、日中友好を推進させ、中国経済の発展を支え、人民に職場を提供してきた企業だったはずだ。これが、村山・李鵬の言う、二十一世紀に向かって発展させた中日関係の結果なのだろうか。

しかも、北京、西安、長沙、青島等の地域では、デモが私服の警察官によって募集され、率いられ、甚だしい場合には、派出所の所長が率先して日本車輌を破壊していた。その行為は当日のうちに、中国特有の「人肉捜査」(ネットや人手を使って情報を集め個人を特定する事)によって明らかになり、地元のミニブログに警察官の個人情報が写真と共に掲載された。政治目的のために、組織的暴力に訴える事がテロリズム(terrorism)であるとするなら、これらは、まさしくテロであると言えた。

(六)
外務省のホームペジによれば、七九年に開始された対中政府開発援助(ODA)は、これまでに、有償資金協力(円借款)約三兆一三三一億円、無償資金協力一四五七億円、技術協力一四四六億円、総額約三兆四千億円以上の援助を実施している。また、独立行政法人国際協力機構(JICA)は、○三年度までの累計で一万五千人を超える研修員を、海外技術者研修協会(AOTS)が人材の育成のために、累計で二万二千人を超える研修員を中国から受け入れ、JICAが五千人の専門家を中国に派遣している。

これだけの資金援助や人材交流を行い、国交が回復して四十年以上も経過しながら、意に沿わぬ事があると、話し合いという手段を放棄して暴力に訴える。デモという手段で脅迫をする。一方、日本側も援助をしながら、中国各地で中国人に対する虐殺事件が起こっても抗議もせず、援助によって建設された建物に日本の名が冠される事なく、尖閣沖で海上保安庁の巡視船に中国漁船が体当たりをしても、中国側の圧力に屈し、関係者を殆ど無条件で釈放した。九月十五・十六日の、反日愛国デモに参加した若者を作り出したのも、根は同じだ。この関係は、どう考えても成熟した大人の関係ではない。

国交が回復して今年で四十二年が過ぎた。昨日まで子供だった物が、俄に大人になる事はないにしても、日本が援助した国家がどの様な物で、これからどう変化して行くのか、反日愛国デモを契機に、日本国に軸足を置いて、中国という国を見つめ直すべきと思う。中南海の内情を知ることは難しいとしても、少なくとも、普通の大陸・台湾の中国人が知っている程度の、或いは、欧米人が知っている程度の情報は、日本人も知っているべきで、その様な情報集積の上に、日本人らしく、新たな日中友好を模索する時が来ていると思うのだ。
                                     (終)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。