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漢字の話(キラキラネームの秘密、秘密四)

2017年09月24日 01時10分04秒 | 日記

*冠夫姓(かんぷせい)
中国には「冠夫姓」という習慣があります。結婚後に主に女性の姓に男性の姓を冠する、というものです。

中国大陸・朝鮮・韓国・ベトナムの法律では、夫婦は結婚前に同姓である場合を除いて、結婚後に姓氏を変える事はできません。必ず夫婦別姓が保持されます。例えば、金正恩(きんせいおん)の妻李雪主(りせっしゅ)の姓は李、金正恩の母高英姫(こうえいき)の姓は高、姚明(ようめい、プロバスケットボール選手、中国バスケットボール協会主席、CBA公司代表取締役社長)の母方孝悌(ほうこうてい)の姓は方、姚明の妻葉莉の姓は葉、習近平の妻彭麗媛(ほうれいえん)の姓彭というようにです。

但し、既に嫁いだ女性は日常的に夫の姓を用いて呼ばれます。日本でも同様の呼び方がありますが、中国でも、「夫姓+奥様(中国語の、太太)」「夫の姓名+夫人」で、劉さんの奥様・李さんの奥様や金正恩夫人・習近平夫人等がこれですです。但し、中国では「太太(taitai 奥様)」という呼称は、もともと使用人が女主人に対して用いていたので、新中国誕生から文化大革命の終了までは、大陸では「資産階級太太(ブルジョアの奥様)」と言って、批判の対象とされました。但し、現在は普通に使われています。

さて、台湾・香港・マカオを始め海外の華人は、20世紀の初期から中期にかけて、割合多くの女性が、「夫姓+本姓」を用いて結婚後の姓としました。例えば、連戦(元中華民国副総統)の妻の場合、結婚前の方瑀(ほうう)に「連」を冠して、連方瑀(れんほうう)と言っています。

1929年5月、南京国民政府は《民法》を公布し、第四篇第三節第一千條に、始めて“夫妻の冠姓”についての法律を作り、“妻はその本姓に夫の姓を冠し、婿入りの場合はその本姓に妻の姓を冠す。但し当事者に他に制定する者がいる場合は、この限りではない。”と定めました。時代が移っても冠姓の習慣は残り、1998年6月17日には、《民法》第1000條を修正公布し、“夫婦は各自その本姓を保有する。但し書面による契約は本姓に配偶者の姓を冠し、並びに内政部戸政機関に登録しなければならない。”、“冠姓は随時その本姓を回復できる。但し、同一の婚姻関係の継続中において一回限りとする。”としました。要するに、冠姓の習慣は今でも続いているのです。
例えば、
・連方瑀
・蒋方良(蒋介石の長男、中華民国元総統、蒋経国の妻)
・蒋宋美齢(中華民国の指導者蒋介石の妻)
・蒋方智怡(蒋経国の三男蒋孝勇の妻)等々

香港では正式な場合、政府高官や名門の女性は夫姓を冠します。これは、英国の影響もあるかもしれませんし、外国の文化に直面し、却って自国の文化を守る意識が働いたのかもしれません。
例えば、
・曽鮑笑薇(そうほうしょうび)、香港特別行政区の前行政長官 曽蔭権(そういんけん)の妻。
・陳馮富珍(ちんふうふちん)、香港眼科医院行政総裁である医師 陳志雄の妻。医師であり、第七代WHO事務局長、香港衛生署長、WHO事務局長補を歴任しました。
・陳方安生(ちんほうあんせい)、元皇家香港輔助警察隊總監 陳棣栄(ちんていえい)の妻、香港の元政務司司長。
・范徐麗泰(はんじょれいたい)、公認会計士 范尚徳の妻。三度、立法会議長を務めました。
・葉劉淑儀(ようりゅうしゅくぎ)、正興建築有限公司の創業者 葉正平の子葉文浩の妻。葉の親族から結婚を反対され、婚礼の当日、葉家側は均しく欠席。葉文浩はエンジニアとなり、一女を授かりました。1989年、葉正平が亡くなると、3,000万香港ドルとも言われる資産は三人の娘が相続する事になりましたが、葉文浩はこれに不満を抱いて訴訟を起こし、世間の注目を集めました。訴訟期間中、葉劉淑儀は一貫して夫を支えましたが、1996年8月、葉文浩に肝癌が見つかり、1997年11月に病没しました。新民党主席、元香港政府保安局局長。
・羅范椒芬(らはんしょうふん)、羅延康の妻。第十二期全国人民代表大会代表、香港特別行政区行政会議非公式メンバー。
・周梁淑怡(しゅうりょうしゅくい)、元香港考試及び評核局(Hong Kong Examinations and Assessment Authority)主席であり、周明権工程顧問有限公司創業者 周明権の妻。香港貿易発展局理事会メンバー・香港旅遊発展局主席・自由党副主席・行政会議メンバー等々を歴任。
・梁劉柔芬(りょうりゅうじゅうふん)、香港サッカー総会主席、香港紡織業界の大物 梁孔徳の妻。服飾は香港にとって重要な産業ですが、梁孔徳は1970年代にジーンズ等を米国を始め海外に輸出して成功し、取引額は一億米ドルを越えました。梁劉柔芬は、香港立法会議員・経済動力政党メンバー・中華人民共和国香港特別行政区第十、十一、十二期全国人民代表大会代表でもあります。
・林鄭月蛾(りんていげつが)、ケンブリッジ大学で代数トポロジーで博士号を獲得した数学者 林兆波の妻。2017年3月26日に行われた行政長官選挙で、林鄭月蛾は1194人で組織された選挙委員会で777票を獲得し、第五期香港行政長官に当選。7月1日の就任以降、彼女は史上初の女性の行政長官に就任しました。彼女は夫の林兆波と英国ケンブリッジ大学で知り合い、1984年に結婚しました。二人の子供達と林兆波の三人は、既に英国国籍を取得していますが、林鄭月蛾は2007年に発展局局長に就任したために、英国籍を放棄しました。

香港では、自分の姓に夫の姓を冠した女性は、枚挙にいとま有りません。しかも、彼女達の英語の姓氏は英国の習俗にならい、夫姓を使用しもとの姓を放棄し、「夫の姓名」に、「夫人」の称を綴ります。

一方、中華人民共和国(大陸)の1950年の《婚姻法》第11條には、“夫婦は各自の姓名を用いる権利を有している。”とあり、夫婦は姓名権の上で完全に平等であると規定されています。《中華人民共和国民法通則》第99條第一款には、“公民は姓名権をもつ。決定し、使用し、規定に従い自己の姓名を変える権利を有し、他人が干渉し、盗用し、詐称する事を禁止する。”、と規定されています。

中共に因れば、夫婦別姓・冠夫姓・同姓(妻が夫の姓に従う)は、それぞれ順序があり、
"妻が夫の姓に従う"のは、封建社会の家族体制に基づき、「家にありては父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う」という"三従"の倫理観念に呼応しているので、最も封建的で男女不平等である。"妻が夫の姓を冠する"のは、"三従"の倫理観念を捨て去り、実践においても、夫人の人格解放に努力した部分的精華である。夫婦別姓に至っては、姓名権の上で完全に平等であり、家族制度の解体にともない、“冠夫姓”は、族譜と墓碑を除いて、大陸では既に消失しているが、但し、薄谷開来は例外で、谷開来の事件が薄煕来と関係が深い事を示唆する為に、或いは、香港か他の国に移住したので、「薄谷開来」と報じているのではないか、と考えられています。

*夫婦別姓は男女不平等
しかし、この論から分かるのは“冠夫姓”が、僅かに台湾・香港・マカオ地区と一部の海外華僑の中に存在しているのは、共産主義の洗礼を受けなかったからである、と言う事だけです。結論から言えば、夫婦別姓と男女同権とは無関係か、或いは、寧ろ夫婦間の差別を助長する物であると思います。


姓 小篆


姓 隷書

そもそも「姓」と言う文字は、女と生との合字です。「姓」とは、一つの祖から生まれ出たものを、他と区別するために用いた号です。『説文解字』によれば、「姓は人の生まるる所なり、古の神聖人の母、天に感じて子を生む、故に天子と称す、生に因って以て姓と為す。」、と書かれています。

少し補足しますと、例えば『呉越春秋・呉太伯伝』には、王朝の始まりについて、次の様に書かれています。

「呉国の開国の君主太伯(たいはく)は、后稷(こうしよく)の遠い子孫である。后稷の母は台(たい)氏の娘の姜嫄(きようげん)で、帝嚳(ていこく)の皇后となった。

 姜嫄(きょうげん)が、年若く、未だ妊娠しておらぬ時、野外に散策に出かけて、巨人の足跡を見つけた。この足跡に近づいて、鑑賞しているうちに、心中に喜びが湧きおこり、その形象を好もしいと思った。そこで、自分の足で巨人の足跡を踏んでみたが、その途端、体が震え、それは恰(あたか)も、熱い抱擁を受け感じた如くであった。その後、姜嫄は妊娠した。

 姜嫄は、人から不義密通の誹(そし)りを受けるのを恐れた。そこで、祭壇を設けて、神明を祭り、お告げを求めた。その答えに、
 「汝(なんじ)に子無し。しかれども、上帝の足跡を踏んだ事により、天なお汝に子あらしむ。」
と出た。

 [子を生んで後]姜嫄は、その子を不気味に思い、狭い路地裏に捨てた。すると、牛馬が通り過ぎるたびに、踏みつけないよう避けて通り、乳を与えては、また避けていった。次ぎに、山中に捨てに行ったが、たまたま木を伐りに人が多く出ていて[子を捨てることが出来なかった]。そこで今度は、沢中の寒氷の上に捨てたが、多くの鳥が飛んできて、翼を広げて子供を覆い温めた。かくて、后稷は死ぬことが無かったのである。姜嫄は神異な事と思い、抱いて連れ帰り、大切に育てた。この子が成長すると、棄(き)と名付けた。初め棄てようとしたからである。

 堯帝(ぎようてい)の時代に、洪水が起こった。人々は水の氾濫によって、住居を追われて高台に遷(うつ)り住んだ。堯帝は棄を招き、民を指導して山中に住まわせ、その地形に従って住まいを作り、農耕の技術を存分に発揮させた。三年あまりで、道行く者の顔から、飢餓・貧困の様相が消えた。そこで、堯帝は、棄を召して農師の官に任命し、台(たい)の地に封じて、号して后稷(こうしよく)とした。姓は姫氏である。」

『詩経・大雅・生民』に「厥(そ)の初(はじめ)て民を生ずるは、時(こ)れ維(こ)れ姜嫄」、と。毛萇(もうちょう)の『毛伝』に「姜は姓、嫄は名、有邰氏(ゆうたいし)の女(むすめ)、帝嚳(ていこく)の元妃、后稷の母なり」、と。また、鄭玄(じようげん)の『鄭箋(ていせん)』に「周の始祖、其れ之を生ずる者は姜嫄なり。姜姓は炎帝の後、女(むすめ)有り、嫄(げん)と名づく。堯の時に當(あた)り、高辛氏(こうしんし)の世紀と爲(な)る」、と。

台氏は炎帝(えんてい)神農氏の子孫です。出典によって台(たい)は邰(たい)とも書きます。黄帝(こうてい)は姫水(きすい)付近の豪族であり、炎帝は姜水(きょうすい)付近の豪族でした。そこで、黄帝の姓は姫と言い、炎帝の姓は姜と言います。姜嫄は炎帝の子孫です。周王室は姫姓。『説文解字』に「邰(たい)は炎帝の後、姜(きょう)姓の封ぜられし所、周の棄(き)の外家の國」、と。

帝嚳(ていこく)とは伝説時代の帝王の名です。号は高辛(こうしん)氏、姓は姫(き)、名は夋(しゅん)、字(あざな)は嚳(こく)。黄帝の曾孫です。四人の妻がおり、その妻の生んだ子供は、それぞれ天下を有しました。皇后には有邰氏(ゆうたいし)の娘、姜嫄(きょうげん)を娶(めと)り、后稷が生まれました。后稷は周の始祖です。次妃は有娀氏(ゆうじゅうし)の娘、簡狄(かんてき)を娶り、契(せつ)が生まれました。契(せつ)は商(殷)の始祖です。次妃は陳豊(ちんほう)(鋒)氏(し)の娘、慶都を娶り、放勛(ほうくん)(勳)が生まれました。これが帝堯(ていぎょう)です。次妃は娵訾氏(しゅしし)の娘、常儀(じょうぎ)を娶り、帝摯(し)が生まれました。帝嚳が崩じて後、立ったのが帝摯(し)であり、その後、帝堯が立ちました。

『史記・五帝本紀・正義』には、「帝王紀に云ふ、帝嚳(こく)に四妃有り。其の子を卜(うらな)へば、皆天下を有(たも)つ、と。元妃は有邰氏の女(むすめ)、姜嫄と曰ふ、后稷を生む。次妃は有娀氏の女、簡狄と曰ふ、卨(せつ)を生む。次妃は陳豊氏の女、慶都と曰ふ、放勛を生む。次妃は娵訾氏の女、常儀と曰ふ、帝摯を生む」、と。

姓は始祖の居住地に因んで、或いは、天子から賜り名づけられました。古の神聖人(人格の完全無欠な人、天子)である神農氏の母が、姜水のほとりに住んでいたので姜を姓とし、黄帝の母が姫水のほとりに住んでいたので姫を姓としました。それで、子を生む女の字と生の字とを合わせて「姓」としました。「生」は音符でもあるので、会意形声文字です。

中国では、結婚しても姓は変わらず、二人の間に生まれた子供は、父の姓を名乗ります。ですから、同じ家族の中で、母と祖母だけが姓が異なることになります。この様な習慣は、別に、新中国誕生以降にできたわけではなく、1950年の《婚姻法》などで規定するまでもなく、毛沢東を始めとする、第一代の元老達も、蒋介石も、或いは、孔子の時代、或いは、伝説時代から、既に夫婦別姓は行われていました。何故なら、結婚しようがしまいが、先祖は変わらないからです。

例えば、孔子(前551年頃~前479年没)の父母について、司馬遷(前145年頃~前86年頃)の『史記・孔子世家』は、父は「(孔)叔梁紇(しゅくりょうこつ)」、母は「顔氏の女(むすめ)」と書いています。唐の司馬貞の『史記索隠(さくいん)』には、魏の王粛(おうしゅく)の偽作と言われる『孔子家語(こうしけご)』を引用して、母の名を「顔徴在(がんちょうざい)」、と記しています。叔梁紇は、はじめ魯の施氏を娶り、九女を儲けました。妾が男児の孟皮を生んだものの、孟皮は足が悪く、そこで、顔氏徴在に求婚しました。唐の張守節の『史記正義』によれば、叔梁紇は六十四歳を過ぎての結婚でした。

『史記』の記述が正しければ、孔子が「女子と小人(しょうじん)とは養い難しと為す」と言う前から、ひょっとすると、夏・殷・周以前の伝説時代から、また、近くは、蒋介石の三人の妻が、最初の妻が毛福梅、二番目の妻が陳潔如、三番目の妻が宋美齢と言うように、或いは、毛沢東の妻が、それぞれ、羅一秀、楊開慧、賀子珍、江青というように、皆、夫婦別姓でした。

要するに、中共が制度として採用する以前から、中華圏では夫婦別姓でしたので、もし、夫婦別姓が男女平等に影響するのであれば、紀元前から男女平等であったはずですし、少なくとも、新中国建国以降、中共は「男女平等」を掲げているわけですから、現在、中国は、男女平等の社会になっていなければならないはずです。しかし、そうなっているでしょうか?

90年代の始め、中国では、祖父が四歳の女児を井戸に突き落として殺害する、という事件が起きました。家の断絶を恐れた祖父が、次に男の子が生まれる事を期待して、殺害してしまったのでした。その一方で、双子や三つ子の男児を出産した母が、英雄のように称えられ、媒体に取り上げられていました。ネット上では子供がオークションに掛けられ、世間からの非難を浴びて、直ぐに取り止めになりましたが、男児の方が高かったと話題になりました。

「姓」が先祖を示す物であり、子供は父の姓を名乗るからには、男の子の誕生は一族が増える事を意味します。当然、各家庭は男子を熱望します。その様な社会が、男女平等であるはずはありませんが、中華民族繁栄の秘密がここにあるとも言えます。人々が名乗る「姓」が、その人物の認証と同時に、一族に対する責任を求めるからです。

私は、家庭に入って家事に専念する女性が、外に出て働く女性よりも劣っているとは思えません。私的と公的とでは、公的な事が重要で優先される事は当然ですが、職業に貴賎が無く男女平等というのであれば、家庭を守る主婦も同様に称えられるべきです。外に出て働く女性が、ある種の便宜のために結婚前の姓のまま名乗りたいというのは、それぞれに理由のある事と思いますが、制度としての夫婦別姓は、男女平等には結びつきません。それは、はからずも、中共政府の行った一人っ子政策の過程において、大陸で生まれる男女比率の不均衡さにも如実に表れています。

結婚しても、先祖が違うからと夫婦別姓にする事と、一族として迎えられ姓が変わる事と、どちらが平等であるかを考えれば、優劣は自ずと明らかです。夫婦別姓は、寧ろ、家庭の中では男女差別に拍車が掛かる可能性が高くなるので、社会に普遍的に広めるべき制度とは思われません。気を付けなければならないのは、家族とは、国家の最小単位であると言う点です。家族がおかしくなると、めぐりめぐって国家がおかしくなります。

※あまり知られていませんが、私の専門は『呉越春秋』です。なので、上記の部分は、注も含めて私の翻訳になります。あの創価 林部に出版を邪魔されている原稿です。『文春』さん、良いネタありますぜ、と思いながら読んで下さい(テヘペロ)。

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カリフォルニアも良いけれど。。。ふふふ。

長くなりましたので、次回に続きます。


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