数年前のことだ。
大物政治家の先生に就職のお願いをしたことがある。
後日、○月○日に結果が出る、
と先生から連絡を受けた。
恐らく、就職が出来ると感じた私は、
ふと、大槻重之丞氏(漢字が違っているかも)に会いたくなった。
大学進学後、
最初の二年間は実家から埼玉に通った。
っで、その間の成績が良かったので、
三年からは東京に下宿して好い事になって、
父が、知り合いの下宿屋を決めてきた。
家主は長身の、
皇宮警察隊の隊長をしていたという人物で、
馬の鑑別が得意で、
調達などもしていたらしい。
退職して、下宿屋を始めたと言う事だった。
二階建ての家を二世帯向けに改造して、
大家夫婦が一階、
私ともう一人の女性が二階に間借りしていた。
口うるさい親から離れて羽を伸ばせると思っていたのに、
勝手に門限を決めるわ、
掃除の仕方が悪いと怒られるわ、
警察隊の隊長だけあって、
とにかく、口うるさいというか厳しかった。
一度などは、コンパで遅くなった私を、
門の所で仁王立ちして待っていた。
今思えば、知り合いの娘を預かって、
何かあっては大変と思っていたのかも知れない。
この家には三十坪(?)ほどの庭があって、
桜や松やシュロ等が植わっていた。
大家が丹精しているらしく、
大家夫妻の所に挨拶に行った時に、
しみじみ見ていると、
「好い庭だろう」
と聞くので
「はい」と答えた。
それから、箱に並べられた
恩賜の煙草を持ってきて、
「(皇室から)頂いた物だ」と自慢そうに見せるので、
奥さんの出してくれたお茶を頂きながら、
「菊の御紋がありますね」などと答えた。
皇太子殿下の警護をしたことを自慢していて、
目白(?)の駅で殿下に逃げられたらしかった。
春には桜が咲き、冬には雪をかぶった松が美しかった。
シュロはいつでも、にょっきりと生えていて変だった。
ただ、真っ直ぐ上に向かって伸びているのが、
大家の好みだったのかも知れない。
私は、掃除は嫌いだったし、
学校ではクラブを二つ掛け持ちしていたし、
特に、院試前は、掃除もせず洗濯もせず、
いつ寝ているのか判らない状況で、
大家との関係は、次第に険悪になった。
卒業までの二年間は、
ここに厄介になっていた。
院試の受験勉強をしたのもここで、
最も楽しく充実した時間がここにあった。
引っ越しの時には、
手伝いに出てきて、
「思っていたよりも、綺麗に使ってくれていたようだね」
などと言い、
荷物を積んだトラックが出る時には、
門の外まで出てきて、
「幸せにな」
と言って、私が車の中から見ていると、
暫く、立ったままこちらを見ていた。
子供がいなかったので養子を迎えたが、
成人して、外で働いているという話だった。
大家とは、それきりになった。
口うるさくて、厳しくて、どうにも頑固だったが、
私は、この人物が嫌いではなかった。
就職が決まりそうだとなったときに
ふと、報告がてら様子を見に行こうと思った。
確か、大正生まれだったから、
だいぶ年を取っていると思われたが、
それでも、家族に囲まれて幸せにしているだろう、
と思っていた。
記憶を辿りながら、
確かこの辺りと尋ねて行くと、
近所の様子は変わっていた物の、
木造の門も郵便受けも、
多少古くなってはいるものの
昔のままだった。
門をくぐると、
玄関は閉まったままで、
長いこと開けた形跡がなかった。
庭に向かうと、
松もシュロも桜も切り倒されていた。
切り株から伸びた枝に桜が咲いて、
「おう!」と挨拶をしているようだった。
ああ、そうか。
大家が一緒に住みたかったのは、
下宿人などではなくて、
家を改造したのも、
実は義理の息子夫婦の為ではなかったかと思っている。
数日後、大物政治家の先生から、
就職は駄目だったとの連絡を頂いた。
おおかた、アレが横やりを入れたのだろうと思った。
政治家の先生には非常に感謝すると同時に、
非常に申し訳ないことをしたと思った。
大物政治家の先生に就職のお願いをしたことがある。
後日、○月○日に結果が出る、
と先生から連絡を受けた。
恐らく、就職が出来ると感じた私は、
ふと、大槻重之丞氏(漢字が違っているかも)に会いたくなった。
大学進学後、
最初の二年間は実家から埼玉に通った。
っで、その間の成績が良かったので、
三年からは東京に下宿して好い事になって、
父が、知り合いの下宿屋を決めてきた。
家主は長身の、
皇宮警察隊の隊長をしていたという人物で、
馬の鑑別が得意で、
調達などもしていたらしい。
退職して、下宿屋を始めたと言う事だった。
二階建ての家を二世帯向けに改造して、
大家夫婦が一階、
私ともう一人の女性が二階に間借りしていた。
口うるさい親から離れて羽を伸ばせると思っていたのに、
勝手に門限を決めるわ、
掃除の仕方が悪いと怒られるわ、
警察隊の隊長だけあって、
とにかく、口うるさいというか厳しかった。
一度などは、コンパで遅くなった私を、
門の所で仁王立ちして待っていた。
今思えば、知り合いの娘を預かって、
何かあっては大変と思っていたのかも知れない。
この家には三十坪(?)ほどの庭があって、
桜や松やシュロ等が植わっていた。
大家が丹精しているらしく、
大家夫妻の所に挨拶に行った時に、
しみじみ見ていると、
「好い庭だろう」
と聞くので
「はい」と答えた。
それから、箱に並べられた
恩賜の煙草を持ってきて、
「(皇室から)頂いた物だ」と自慢そうに見せるので、
奥さんの出してくれたお茶を頂きながら、
「菊の御紋がありますね」などと答えた。
皇太子殿下の警護をしたことを自慢していて、
目白(?)の駅で殿下に逃げられたらしかった。
春には桜が咲き、冬には雪をかぶった松が美しかった。
シュロはいつでも、にょっきりと生えていて変だった。
ただ、真っ直ぐ上に向かって伸びているのが、
大家の好みだったのかも知れない。
私は、掃除は嫌いだったし、
学校ではクラブを二つ掛け持ちしていたし、
特に、院試前は、掃除もせず洗濯もせず、
いつ寝ているのか判らない状況で、
大家との関係は、次第に険悪になった。
卒業までの二年間は、
ここに厄介になっていた。
院試の受験勉強をしたのもここで、
最も楽しく充実した時間がここにあった。
引っ越しの時には、
手伝いに出てきて、
「思っていたよりも、綺麗に使ってくれていたようだね」
などと言い、
荷物を積んだトラックが出る時には、
門の外まで出てきて、
「幸せにな」
と言って、私が車の中から見ていると、
暫く、立ったままこちらを見ていた。
子供がいなかったので養子を迎えたが、
成人して、外で働いているという話だった。
大家とは、それきりになった。
口うるさくて、厳しくて、どうにも頑固だったが、
私は、この人物が嫌いではなかった。
就職が決まりそうだとなったときに
ふと、報告がてら様子を見に行こうと思った。
確か、大正生まれだったから、
だいぶ年を取っていると思われたが、
それでも、家族に囲まれて幸せにしているだろう、
と思っていた。
記憶を辿りながら、
確かこの辺りと尋ねて行くと、
近所の様子は変わっていた物の、
木造の門も郵便受けも、
多少古くなってはいるものの
昔のままだった。
門をくぐると、
玄関は閉まったままで、
長いこと開けた形跡がなかった。
庭に向かうと、
松もシュロも桜も切り倒されていた。
切り株から伸びた枝に桜が咲いて、
「おう!」と挨拶をしているようだった。
ああ、そうか。
大家が一緒に住みたかったのは、
下宿人などではなくて、
家を改造したのも、
実は義理の息子夫婦の為ではなかったかと思っている。
数日後、大物政治家の先生から、
就職は駄目だったとの連絡を頂いた。
おおかた、アレが横やりを入れたのだろうと思った。
政治家の先生には非常に感謝すると同時に、
非常に申し訳ないことをしたと思った。