水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

正解(2)

2022年02月04日 | 学年だよりなど
1学年だより「正解(2)」


 正解がある問題の答えは、ネットで調べたり、誰かに尋ねればいい。
 正解があるのに、それを調べもしないで悩んでいるのは時間のムダだ。


~ ここで非常に重要なことがわかります。それは「いま自分が悩んでいる問題・解きたいと考えている問題」が、「正解のある問題なのか、それとも正解のない問題なのか」を最初に見極めることが、なにより重要だということです。
 それがわからないと、調べればよいのか、それとも考える必要があるのか、判断できません。そしてそれを間違えると、「正解のある問題について考え続け、いくら時間をかけても答えが出ない」とか「正解のない問題について調べ続け、いくら時間をかけても答えが見つからない」という落とし穴にはまってしまいます。
 特に「すべての問いには正解があるはず」と誤解していると、「考える」ことに時間をかけず、ひたすら「調べる」ことに没頭してしまいます。でもそれでは、いつまでたっても問題は解決できません。
 転職や起業について、「大成功しているあの人なら正しい答えを知っているに違いない」と、成功者や著名人からアドバイスをもらおうとする人もいます。でも正解のない問題に関してそんなことをしても、問題は解けません。そういう人から聞けるのは「その人の意見」だけだからです。(ちきりん『自分の意見で生きていこう』ダイヤモンド社)~


 「学校的正解」――それはほとんどの場合「世間的正解」だが――ばかりを求める状態におかれている人は、すべてのことに正解があると勘違いしがちだ。
 そして自分が正解に達しなないと思ったときに、絶望する。
 東大理三に入れない人間に生きる価値などないと、自暴自棄になってしまったりする。
 学校生活が、「物事にはひとつの正解がある」という学校的正解ばかりで満たされていない現実は、みなさんの方がよく分かっているのではないだろうか。
 勉強にしても、部活にしても、人間関係にしても、大体のことは思い通りにならない。
 思い通りにならないことを心の隅で予感しつつも、なんとかならないかとチャレンジしてみる。
 「努力は裏切らない」という言葉は、おおまかには正しいが、それは「努力すれば必ず望ましい結果が得られる」という意味ではない。チャレンジすれば「何か」は残るという意味においてだ。
 その「何か」は、多くの場合「成長」とみなされる。
 やってみて、それがうまくいくかどうか、いくら考えても「正解」は見つからない。
 チャレンジしないと、何も残らない。
 プラマイゼロではなく、「自分はやらなかった人間だ」というマイナスの記憶が残ってしまう。
 チャレンジすると、時に人から笑われることはあるかもしれないが、命まではとられない。
 仮に大失敗しても、「こんな大きな失敗をするほどのことにチャレンジできた自分」の記憶が残る。
 トータルはプラスにしかならないのだ。さあ、ゲームしてる場合じゃないよ。
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正解

2022年02月02日 | 学年だよりなど
1学年だより「正解」


 映画「コーダあいのうた」で、主人公ルビーが家族のもとを離れて音大に進学したことは「正解」だったのだろうか?
 家族はその後、ほんとうに幸せだったのか……、と考えることはできる。
 確約のない未来のために、あえて困難な道を選ぶ必要はないのではないかと。
 唯一の健聴者を失った家族の生活が、大変になることは言うまでもない。
 しかし両親も兄も、そんなことはわかった上でルビーを送り出した。
 もしそうしなかったら、おそらくみんなが後悔する日が来ただろう。
 ルビーを送り出したことで、かりにそれが期待から大きくはずれた結果になったとしても、「やらなかった後悔」は抱かずにすむ。
 やって後悔するか、やらずに後悔するか。
 どちらを選ぶのも自由であり、どちらを選ぶかに正解はない。
 理系か文系か、どの大学を受験するか、国立か私立か、通えるところか家を出るか……。
 いろんな考え方があり、みなさんのおかれた環境もそれぞれだが、正解はない。
 どこに就職しようか、自分で会社を立ち上げてみようか、この人にコクってつきあおうか、結婚しようか、転職しようか、どこに住もうか……。


~ 学校教育は、問題にはひとつの正しい答え=正解があると教えます。2+2は4だし、日本最初の総理大臣は伊藤博文。He am Taro. は不正解で、He is Taro. が正解!
 こうした教育に慣れすぎてしまうと、人生で遭遇するさまざまな問題にも、正解があるかのように錯覚してしまいます。でも生きていくうえで私たちが直面する問題のうち、「重要な問題」にはほぼ正解がありません。正解があるのは、たいして重要でない問題ばかりです。いったいなぜ、人生の重要な問題には正解がないのでしょう?
 それは「どんな人生がもっともよい人生なのか?」という問いに正解がないからです。
 もし「誰にとっても最高の人生とはこういう人生である」という正解があるなら、あらゆる意思決定は、その「正解の人生」に少しでも近づけるように行なうべき、となります。
 そうなれば、その方法が学校で教えられ、すべての人が同じ判断をするようになるでしょう。そして、すべての人がまったく同じような人生を送る、極めて画一的な社会ができあがります。
 でも、もしそんなコトが行なわれていたら、人類はここまで豊かな社会を作り上げることはできなかったでしょう。というか、もっとずっと前に、滅びてしまっていたかもしれません。
 社会にはさまざまな人がいるから(もしくは、さまざまな人がいたから)私たちはここまで豊かになれているのです。
           (ちきりん『自分の意見で生きていこう』ダイヤモンド社)~


 正解のない問題の「答え」は、ネットを調べても、誰かに尋ねても、見つからない。

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