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Weekend Strummer

ウィークエンド・ストラマー。
世間知らずのオジサンが脈絡無く語る、ギター・アフリカ・自閉症。

法廷シーンの説得力

2021-05-02 10:23:22 | 映画の話

関係する作品のすべてを見ているわけではないのですが、ジョディ・フォスターの映画には法廷のシーンが多いような気がします。
裁判そのものを題材にした「告発の行方」は当然ですが、それ以外にも「ネル」とか「コンタクト」など、ストーリー上のいざこざを最終的に裁判で決着する場面が、私が見た映画の中には多いような印象があるんです。その中には、わざわざ裁判沙汰にしなくてもストーリーとしては十分成立するんじゃないかと思えるものもあって、しかし法廷で主人公の申し立てが通って勝利すれば、それはそれでカタルシスが満足でき、お話の構成としては成功しているように思えます。何しろ裁判で出た判決ですから誰も文句をつけられない。シロは白でクロは黒と歴然とした結果になり、わかりやすく簡単に納得させられてしまう。

先月始まった「イチケイのカラス」というテレビドラマを楽しく見ています。
型破りな裁判官が主人公で、当初は全面的に悪いと思われた被告人にまつわる隠れた事実がストーリーが進むにつれて浮かび上がり、実は被告人は無実であったり、時には被害者であることが判明したりして立場が逆転し、最終的に法廷で真の勧善懲悪が成立します。
登場人物のうちの誰が善者で誰が悪者か、主人公の捜査の過程を見るうちに大体わかってくるのですが、最後の法廷シーンでそれが決定的なものになる。裁判官が真の悪者の悪行を暴いて判決を言い渡す場面は胸が透(す)くようで、とても気持ちが良い。
この気持ち良さは、どうも法廷シーンが持つ雰囲気に影響されているような気がします。放送回によっては、エピソードの決着について法廷ではない場所で後日談のように語られる回もあるのですが、その場合、さほど感動しないのです。
ストーリーの決着が「法廷において裁判官が申し渡す判決であること」に大きな価値を感じているようで、何だか権威主義的なものに丸め込まれているような気もして我ながらちょっと嫌なのですが、抗えない。
裁判官とは思えない型破りな言動をする人物が裁きをする、というのは有名な時代劇「遠山の金さん」に通じるところがあるように思えます。裁判官という威厳をまとう者が、庶民の側に立った人情味あふれる判決を下す、という設定にすることで法廷シーンが持つ権威主義的な部分の解消を試みているのかもしれません。

ジョディ・フォスターの映画では白黒ハッキリさせて主人公の正当性を強調するために法廷シーンを挿入し、イチケイのカラスではクールに裁くだけの決着を嫌って人情味を含めたお情けの裁きを尊ぶ。
ま、どちらも面白いんですけどね。

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CMのカット割り

2020-05-18 16:58:08 | 映画の話

「長回し」は映画の技法のひとつで、ワンシーンの撮影をカットせずに撮り続けることを言います。その長さは、ウィキペディアによると「定義はないが、分単位の時間、カットせずに撮影すれば長回しと言えるだろう」とのこと。
長回しで撮影した映画は臨場感が増し、観る者にとってとてもリアルなシーンとなります。ですが、その分、役者や撮影スタッフには失敗は許されず、緊張を強いられるつらい作業だと思います(長回しの難しさは、一昨年話題になった映画「カメラを止めるな!」で描かれていましたね)。
逆に短いカットでつなぐように撮影する場合、カットごとに撮影の準備ができるのでそれぞれのシーンの完成度は増すでしょうし、うまく編集することで短時間内に多くの映像情報を盛り込むことができます。また、見ている側にすればカットごとに視点が変わるので、飽きずに画面に注目することができます。
これは特にコマーシャルを作成する際に便利でありましょう。たいていのテレビCMは一遍が15秒(もしくは30秒) と決まっているようですが、その限られた時間内に、いかに効果的に商品の情報を視聴者に伝えるかが、テレビCMに期待される成果です。

最近、テレビで放送されるCMがいくつのカットで構成されているか、気になるようになりました。商品によってカット数に傾向があるようなんです。

やはり目まぐるしくカットが繰り返されるCMは若者向けの商品を紹介するものが多いような気がします。若いヒトは動体視力が高いのでしょう。
逆に一つ一つのカットを長めにしてゆったりとした雰囲気を出すCMは年配者向けの商品のものが多い。
例えばペットボトル入りの清涼飲料を例にとると、緑茶のCMは15秒中平均11カットであるのに対し、若い女性に人気の紅茶飲料は14カットも詰め込まれていたりします。これはかなりの差であります。

どのへんにボーダーがあるのかな?

サントリーのセサミンという商品は、若さを保つために効果的なサプリメントだそうで、CM中35年ぶりに再会する同級生として出演している役者は54歳だそうです(CM中での表示による)。なので、このCMは50代がターゲットであると考えてよいでしょう。このCM、15秒間に11か12のカットで構成されています(2バージョンあるんです)。これが基準になるかもしれません。これよりカット数が多いCMはより若いヒト向けで、少ないものは年配視聴者向けではないかという仮説です。

清涼菓子のフリスクが14カット。刺激の強いタブレットですから、やはり若者向けなのでしょう。
「40代50代の契約者は大幅に割り引き」という謳い文句の自動車保険なんて、たったの7カットでした。
これは世代を選ばない商品なのかな、コカコーラは12カットでした。 
意外にカット数が多かったのが葬儀社のCM。平均して11カット以上でした。もっとゆったりしたカット割りになっているかと思いましたが、これは親に別れを告げるケースが50代に増えるからでしょうか。
逆に、若い世代を対象としているはずの学習塾のCMは意外にカット数少なめの場合が多く、やはりこれも学費を出す立場の親をターゲットにしているせいでしょう。

時代でCMを見比べても面白い傾向が見られました。昔のCMの方がカット数が少ないんです。YouTubeで紹介されている昔のCMと比較してみたのですが、例えばマクドナルドのCMを1990年と2020年で比べてみると、前者は6カットであるのに対し、後者は11カット。ワン・カットにかける時間は確実に短くなっています。
時を経るにしたがって我々視聴者が早いカット割りに慣れてきていると言えるでしょうし、また、制作側がそれだけお金をかけられるようにもなってきている(もしくはワン・カットにかかるコストが低くなってきている)、とも言えるでしょう。

ここまで読まれて「外出を控えてテレビばかり見ているんだろうな、コイツ」と思われたかもしれませんが、正解です。

(注:文中のカット数はごく限られたCMを観察した結果であり、それぞれ一例に過ぎません)

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ボヘミアン・ラプソディ

2018-11-24 02:05:00 | 映画の話

最近話題になっている映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観に行きました。ロックバンド、クイーンの伝記映画です。
熱烈なファン、というわけではありませんが、主にリード・ボーカルであるフレディ・マーキュリーの声に惹かれて、クイーンは昔から好んで聴くことが多いバンドです。

普段のムービーナイト同様、親子3人で映画館に赴きました。
日本での封切り日だったので、もしかしたら映画館がクイーン・ファンで満員になっちゃうんじゃないかと心配しましたが、そんな心配は完璧に的外れで、いつも通りガラガラの金曜日のレイトショウ。我々を含めて観客はたったの15人ほどでした。
んもー、クイーンの映画なのにー。みんな観に来いよ!

普段はアニメとかミュージカルとか、自閉症の娘のために平和な映画ばかりをチョイスしている我々です。本日の映画は、ある意味ミュージカルではあるものの、娘にとっては退屈な内容かもしれない。
娘が厭きて騒ぐようだったら他のお客さんたちに迷惑がかかるし、親の好みに付き合わされる娘もかわいそうだし、映画鑑賞は潔く諦めて帰路に就こうね、と妻と取り決めをしたうえでチケットを購入しました。

映画のストーリーは、主にバンド結成から1985年のライブ・エイドまでのクイーンの軌跡をフレディ・マーキュリーを軸に描くものでありました。
フレディがタンザニア・ザンジバル島で生まれたインド系のヒトだったということを初めて知りました。
ラミ・マレックというエジプト出身の役者がフレディを演じているのですが、付け歯()に慣れていないせいか喋るセリフが聞き取りづらく、違和感が強かったです。でもその違和感も映画が進むにつれて薄れ、自然に受け止められるようになっていました。私が聞き慣れたのか、もしくは撮影が進むにつれて役者が付け歯に慣れてセリフをうまく言えるようになったのか(そんなわけないか)。

フレディ始めバンドのメンバー全員を役者が演じておりますが、音源は全てオリジナルのクイーンのものです。映画館という広い空間にフレディの歌声が響き渡り、オジサンはそれだけで感動して落涙してしまった。

またクライマックスのライブエイドの場面ではカメラワークが圧巻でした。
ステージに向かうフレディの背中越しに見える、スタジアムにあふれる観客。会場となったスタジアム上空からスカイダイブするように急降下し、人々の頭上をかすめるようにステージ真下まで急接近するカメラの動き。どちらも鳥肌が立ちました。
CGをカメラワークと言っていいのか少々疑問ではありますが。

映画の最後にフレディ・マーキュリー本人の映像が映されますが、2時間の劇中ずっと役者が演じるフレディにのめりこんじゃったせいか、急に本人映像を見せられて「アレ?これ誰だっけ?」という状態になったのがおかしかったです。

赤ん坊のころからクイーンを聴いていた(聴かされていた)娘はストーリーは理解できていなかったはずですが音楽にノリノリで、ライブ場面では立ち上がるはジャンプするはの大コーフンでした。映画館が空いてて良かった。

ボヘミアンとは世間の習慣などを無視して放浪的な生活をするヒトという意味だそうです。クイーンの代表的なナンバーである「ボヘミアン・ラプソディ」は、まさにフレディ・マーキュリーの人生を表すにふさわしいタイトルでありました。

暗い映画館でフレディの歌声に呼応するように跳ね回る我が愛娘も、ある意味ボヘミアンという呼称にふさわしいのかも知れませんが。

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どうもおぶりがどございます。

2017-04-18 22:12:20 | 映画の話

映画「野のユリ」(1963)を時々観たくなります。何度観ても鑑賞後はいつも優しい気持ちになれるので、大好きな作品です。

理想の職を探してアメリカ西部へ向かう青年スミスが、アリゾナの荒野で偶然出会った修道女たちを助けて教会を建てる、というストーリー。無報酬であることに加えて食事も貧しいものしか与えられないという「奴隷のような」待遇であるにもかかわらず献身的に働くスミスに、修道女のマザー・マリアは一言も感謝を述べません。神に仕える彼女にとって、感謝とは神にすべきこと。スミスがいかに助けてくれようとも、それはすべて神の思し召しなのです(ラストに近いシーンで、彼女がうっかり口を滑らせて言ってしまった「Thank you」と、それに満足するかのように応えるスミスの「Very good」がとても印象的です)。

10年ほど前、西アフリカのガーナに住んでいたころ、たぶん「野のユリ」と同様の理由からだと思いますが、何をしてもあまり感謝されませんでした。
感謝の言葉の代わりによく聞いたのは「OK」でありました。オーケーは肯定的な言葉ではありますが、感謝ではありません。相手が喜ぶだろう、と考えてしてあげたことに対するヒトコトの「オーケー」は、まるで「その厚意、アクセプトしてあげてもいいよ」とでもいうような、とても高慢な態度のように感じられました。こちらにしてみれば、せっかく好意的に接しているのに非常に後味が悪いんです。
あくまでも宗教上の理由で悪意はないのだ、と理屈ではわかっていても、やはり感情は害されてしまう。

モザンビークは感謝あふれる社会です。些細なやり取りの中でも、感謝の意を頻繁に表明します。
そしてポルトガル語の「オブリガード」は日本語の「ありがとう」に語感が似ていて親しみやすく、耳にするたびに感謝の気持ちが自然に浸み込むような気もします。

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ミンボーの女 (1992)

2013-03-26 03:23:00 | 映画の話

20年以上も前の映画です。1980年代から映画監督として有名になった故伊丹十三氏の作品。私は氏の一連の映画作品が大好きで、いまだに繰り返して観ています。

この映画は、ヤクザの民事介入暴力を専門とする弁護士と、その弁護士のサポートを受けて成長していくホテルマンたちを描く作品。

ホテル・ヨーロッパはサミット会場の候補にもなる有名ホテルですが、その利用客に暴力団関係者が多いことが悩みのタネです。ホテルからヤクザを一掃すべく、ヤクザ担当者としての新ポストを押し付けられた経理担当の鈴木とベルボーイ・若杉の二人は、まったく気乗りがしないままヤクザと関わってゆくことになります。無防備に孤立する二人は脅され、たかられ、いじめられ、どんどん弱っていきます。この弱体コンビに加勢するのが弁護士・井上まひる。ヤクザ問題に携わるプロです。彼女の指導の下、物語の前半部分とは逆に二人はずんずん力をつけてゆき、当初は畏怖する存在でしかなかったヤクザたちと互角に渡り合うまでになります。

ラストシーンでは団体で押しかけた暴力団員に対して、成長したホテル・スタッフが全員で対峙します。本来はにこやかに利用客に接するはずのホテルマンたちの表情が、このラストシーンではことごとく暗く迫力のある表情になっており、このままヤクザ役とホテルマン役を入れ替えても物語は成立するのではないか、と思えるほどです。それに気づいたとき、監督の意図が解ったような気がしました。

この映画は「制服」の映画なんです。制服というのはとても便利で、着用すれば誰でも一応その役に見えてしまう衣装であります。ホテルマン役はホテルのユニフォームを着て登場し、ヤクザ役は肌に刺青ペイントを施した上にいかにもヤクザらしい服装をすることでヤクザを装う。

伊丹監督はこの映画で制服という衣装をとても効果的に使っており、登場人物が制服を着ているときはホテルマン、そうでないときは観客に近い立場、という、いわば映画内のルールを作り上げています。で、このルールを理解してしまうと、伊丹監督の演出意図がものすごくわかりやすくなるんです。

新ポストに就いた直後、本来はフロント係と同じブレザーを着用するはずであろう鈴木・若杉のヤクザ担当コンビは、なぜか自前らしきスーツを着ています。新ポストに就いたばかりでホテルの制服が間に合わない、という設定なのでしょうが、この設定が映画を観ている者に対して非常に効果的に働きます。つまり「ホテルの制服を着ていない」=「ホテルのスタッフではなく、より観客に近い存在」として印象付けられるのです。彼ら二人が応対しなくてはならないヤクザの持つ脅威が、ホテルに対してではなく、我々観客に直接降りかかってくるような効果を感じます。

この二人がホテルのブレザーを着用するのは、援軍である弁護士・井上まひるが登場した直後です。まひるの指導で成長してゆくのは鈴木や若杉という個人ではなくホテル全体なのです。

まひるが裁判所に仮処分を出してもらうべく奔走するシーンでは、若杉がホテルの制服の上にコートを着込んで同行します。制服を隠すことで若杉は再び観客寄りの、極端に言えば「映画に参加する観客代表」という立場になり、まひるによる道中のレクチャーが観客の耳に直接届きます。

その後の鉄砲玉による襲撃シーンでも若杉はまだコートを着ております。まひるが刺されたあと、ヤクザと格闘する若杉をホテル側ではなく観客に近い位置に置くことで、あたかも観ている我々がヤクザをぶっとばしているかのように感じさせ、観客のカタルシスを満足させる。観客を満足させたあと、とどめのボディブローを食らったヤクザがスローモーションで崩れ落ちてゆきます。若杉のコートが乱れてホテルの制服(胸のエンブレム)が見え、この暴力は私怨によるものではなく正義なのだ、と説明する。このシーン、いかに自然にはだけるコートを演出するかで、きっと何度も撮り直したに違いありません。

作品の随所にこだわりを感じさせる伊丹映画。今観ても極めて質の高いエンターテイメントだと思います。

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