Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

愛撫と噛み傷

2012-06-10 19:44:10 | 日記


ウィトゲンシュタインのノーマン・マルコムへの手紙(1944年11月);

★ 僕は、あのとき、こう思った。哲学を勉強することは何の役に立つのだろう。もし論理学の深遠な問題などについて、もっともらしい理屈がこねられるようになるだけしか哲学が君の役に立たないのなら、また、もし哲学が日常生活の重要問題について君の考える力を進歩させないのなら、そして、もし“国民性”というような危険きわまりない語句を自分勝手な意味にしか使えないジャーナリスト程度の良心ぐらいしか、哲学が君に与えるものがないとしたら、哲学を勉強するなんて無意味じゃないか。

★ 御存知のように、“確実性”とか“蓋然性”“認識”などについて、ちゃんと考えることは難しいことだと思う。けれども、君の生活について、また他人の生活について、真面目に考えること、考えようと努力することは、できないことではないとしても、哲学よりも、ずっとむずかしいことなんだ。その上、こまったことに、俗世間のことを考えるのは、学問的にはりあいのないことだし、どっちかというと、まったくつまらないことが多い。けれども、そのつまらない時が、実は、もっとも大切なことを考えているときなんだ。――もう、お説教は止します。

★ とにかく、生命があって再会する機会があったら、そのときは、やはり深入りすることを敬遠しないようにしよう。自分をきずつけることをいやがれば、まともな思考はできなくなる。僕は君よりもそれを避けたがる方だからそれがよくわかる。

<ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタイン』(平凡社ライブラリー1998)>




2006年、来日したル・クレジオの一橋大学ワークショップでの発言;

★ こうして書かれたものを通して、私たちはある意味で吉増さんが先ほど喚起されたような、風や海の波やそうしたものに似た書物というものを考えてみることができますし、私としてはそれは、むしろことばの優しさであり、何か「愛」のような本源的な触れ合いをさせるものであり、そのような快い経験、それが私にとっては文学の第一の存在理由であるように思います。

★ それと同時に、また過度に理想化してもなりません。というのも、噛み傷の感覚、棘の感覚、そしてある種の辛酸の感覚、そうしたものもまた、人生にとってはとても重要な意味であると思うからです。

★ 私はしばしばこういう印象を持つんです。単に作家ばかりではなく、現代社会全体に欠けているのは、この両義性を持つ可能性、愛撫と噛み傷、暴力と優しさ、憎悪と愛とを、ともに両義的に持つ、その可能性なのではないかと思います。愛撫や快い感覚、享楽といったもののみを描き、私たちに暴力や残虐さをもたらすことを忘れてしまった作家は、本当にそのひとが伝えたいと思ったことを私たちに伝えることはできないでしょう。

★ 現代社会に欠けているものはまさにこの二重のアイデンティティであり、多くのひとびと、現在の多くの若いひとびとはある意味で暴力を必要としているわけです。その暴力はもちろん、戦争とか政治的暴力ではありません。しかしもっぱら、ある種の事柄を暴力的に言うということを必要としているのです。あたかも噛み付くような形でいくつかのことを言う必要がある。

★ エアコン対のパラダイスというようなものがヨーロッパ的、さらにアメリカ的な生活様式ということになっていて、そこでは過剰な優しさ、安楽というものが強調されていますが、そのただなかに実は暴力があって、それがいまや耐え難いものとして現われてきているのだと思います。

<『現代詩手帖特集版 ル・クレジオ 地上の夢』(思潮社2006)>







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