Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

誤り(エラー)と真理

2012-01-09 23:06:29 | 日記


★ そしてこれらの問題の中心には誤り(エラー)の問題がある。というのは、生命のもっとも根源的なレベルにおいて、コードと解読の働きは偶然にゆだねられている。それは病気や欠陥や畸型になる以前の、情報システムの変調や「取り違え」のようなものだ。極端な言い方をすれば――そしてそこから生命の根源的な特徴が生じるのだが――、生命とは誤ることができるようなものである。異常の概念が生物学全体を横断している理由はこうした前提条件、いやこうした根本的な偶発性に求められるだろう。こうした偶発性ゆえにこそ、突然変異や進化のプロセスが導き出される。同様に、こうした偶発性があるからこそ、生命は人間の出現とともに、けっしておのれの場に落ち着けないような生体に到達する。それは「さまよい」、「誤る」よう運命づけられている。だからこそ、特異でもあり遺伝的でもあるこの誤りを問題にしなければならないのだ。

★ そして概念とは、生命みずからがこの偶然に与える答えであるということを認めれば、誤りとは人間の思考と歴史をかたちづくるものの根源だと考えなければならない。真と偽の対立、真偽に付与される価値、さまざまな社会や制度がこの分割に結びつけて考えている権力効果など、すべてが生命に固有な誤りの可能性への遅ればせながらの回答にすぎないのかもしれない。科学史は非連続なものであり、それは「訂正」の系列として、真と偽の新たな配分としてしか分析できず、真理の最終的な瞬間を解放してくれることもけっしてないとすれば、やはり「誤り」は約束された完成の忘却や遅れではなく、人間の生命や種の時間に固有な次元をかたちづくることになるだろう。

★ 真理とはこのうえなく深い嘘である、とニーチェは言っていた。ニーチェから近いと同時に遠いカンギレムは次のように言うだろう。真理とは、生命の長い年代記において、もっとも新しい誤りである。さらに正確に言うならば、真と偽の分割や真理に付与された価値は、生命が発明し得たもっとも特異な生き方をかたちづくっているのだ。生命はその究極の起源以来、誤りの可能性をみずからのうちにはらんでいるのだから、と。カンギレムにとって誤りとは、生命と人間の歴史が巻き付いている恒常的な偶然のことである。この誤りという概念によって、カンギレムは生物学についての知識とその歴史の方法とを結びつけることができる。ただし、進化論の時代のように、生物学からその歴史を演繹しようなどと考えることはない。誤りの概念によって、カンギレムは生命と生命の認識の関係を見きわめ、価値と規範の存在を導きの糸のようにたどっていくのである。

<ミシェル・フーコー“生命―経験と科学” 『フーコー・コレクション6』(ちくま学術文庫2006)>








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