Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

希望という手仕事

2012-01-26 17:36:42 | 日記


★ 「未来の世界では何もかもが、ぼくらの世界でと同じようすだろう。部屋のようすもいまと同じだろうし、いま眠っているぼくらの子どもは、そこで同じ場所に眠っているだろう。ぼくらはこの世界で身にまとっているものを、未来の世界でも着ているだろう。何もかもここと同じだ――が、ほんの少しだけちがう。それは想像力のせいだ。ただ一枚のヴェールを、想像力ははるかなものにかぶせる。何もかもかつてと同じかもしれない。しかし、ヴェールのゆらめきのもとで、ひとの目にとまらぬ移動と交換が生じている。」(ベンヤミン“日を浴びて”)

★ 当時のかれの主要な仕事は、「1900年前後のベルリンでの幼年時代」を執筆することと、1783年から1883年にいたる100年間の「ドイツのひとびと」の、「ドイツ的な意味で人間的と呼ばれうるひとつの態度をまざまざと見せている」数々の手紙を発掘して編集すること、だったといってよいが、それらはまさに<アゲシラウス・サンタンデル>の手に成る仕事である。かれは、未完了にとどまっている過去、しかも現在の危機のなかで現在とともに滅びてゆきかねないその過去の破片を、危機に内在する者の眼をもって発見し、想像力のヴェールのもとに再構成したのだ。

★ いまブルジョワジーの「文化遺産」をめぐる論議が起こっているけれども、その論議のおおかたは、「文化遺産の現在高は完全に管理可能であり、もれなく記帳されている、という観念から距離をとる」ことができていない。しかし、問題はできあいの遺産をとりこむことなどではありえない、ということこそがかんじんなのだ。というのも、「すでに達成されたもののすべて」は、そのまま継承しうるものとしてではなく、「消滅しつつあるもの、おびやかされているものとしてのみ、現在にあたえられて」いるのだから。根源的であってアクチュアルなものをそこから救出する作業は、いまアカデミズムから左翼亡命文学にまで浸みついているかに見える「是認的な文化概念」をもってしては、なされない。

★ 「民主主義社会の崩壊過程から、その初期とその夢とに結ばれた諸要素、きたるべき社会との、人類そのものとの連帯を否認しないような諸要素は、分離されうるか?この問いに肯定をもって答ええなくては、国を去ったドイツの研究者たちは、多くのものを救えなかったことになろう。歴史のくちびるからこの問いへの肯定を読みとる試みは、アカデミックなものではないのだ。」(ベンヤミン“あるドイツの自由な研究所”)

★ 完結しきっているといわれるどんな作品であっても、その前史と後史をふくむ状況のコンテクストのなかに置かれれば、いずれも断片にすぎない。他方、日常の片々たる表現も、同様のコンテクストのなかでは、重大な意味をはらむことがありうる。やがてぼくらひとりひとりがおこなう批評は、断片を読むように作品を読み、作品を読むように断片を読むだろう。そしてぼくらの表現は、批評を内在させつつ、しかもなお途上の表現であることを自覚してなされるだろう。

★ かれは、畢生の仕事として選んだ<パリのパサージュ>論を、日々の手仕事としてつねに眼前におきながら、迷宮の都市パリを歩きまわっていた。その仕事がかれの支えだった。「この仕事のなかに、ぼくが生存競争のなかで勇気を失わずにいることの、唯一のではないまでも、本源的な根拠がある」、とかれはある手紙に書いている。それが発表できるような状況は、当分は来るとも見えず、未来は暗澹たる雲に閉ざされていたけれども、仕事を続けうるかぎりは、困難ではあれ希望があった。ややのちにかれの友人のブレヒトが、北辺のフィンランドにのがれて書きとめたつぎの二行の詩句を、もし知る機会がかれにあったとすれば(しかし、その機会はついに来なかった)、かれは大いに共感したことだろう。

    亡命者ははんのき林の奥に坐して、とりあげる
    ふたたびかれの困難な手仕事を――希望を。


<野村修『ベンヤミンの生涯』(平凡社ライブラリー1993)>