Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

HUMAN NATURE

2012-01-21 09:59:49 | 日記


★ 個体という主体であることじたいが、すでに<さまよい出た>存在である。Ecstasyの状態である。つまり自分が本来あるはずのところの外部に解き放たれてある仕方である。一度さまよい出た者はどこへでもさまよい出ることができる。

★ 個体を主体としてみれば、個体はその<起源>ゆえに、自己の欲望の核心部分に自己を裂開してしまう力を装置されている。個体にとって、性はなくてもいいはずのものだ。個体の長寿にも安らぎにも幸福にとってもない方がいいものである。それでも個体は不可解な力に動かされるように性を求める。この不幸を求める。この不可解な力は個体自身のいちばん核芯からくる。個体は自分自身の中核によって自分を解体される。

★ けれど個体の、この自己裂開的な構造こそは、個体を自由にする力である。個体のテレオノミー的な主体化が、自己=目的化、エゴイズムという貧相な凝固に固着してしまうことがないのは、個体のこの自己裂開的な構造のためである。個体は個体自身ではない何かのためにあるように作られている。法王と王たちという中世の二重権力がやがて権力一般の相対化に向かうダイナミズムを生むように、生成子(遺伝子)と個という目的論の二重化がテレオノミーの相対化に向かうダイナミズムを生む。

★ 個体はじぶんの身体の中心部分に自己を超越する力を装置してしまっている故に、この超越する力をもまた自己自身を目的化してしまう力も、共に相対化することができる。つまり自由であることができる。

<真木悠介『自我の起源』(岩波現代文庫2008)>



★ 時代の商品としての言説の様々なる意匠の向こうに、ほんとうに切実な問いと、根柢をめざす思考と、地についた方法とだけを求める反時代の精神たちに、わたしはことばを届けたい。

★ 虚構の経済は崩壊したといわれるけれども、虚構の言語は未だ崩壊していない。だからこの種子は逆風の中に播かれる。アクチュアルなもの、リアルなもの、実質的なものがまっすぐに語り交わされる時代を準備する世代たちの内に、青青とした思考の芽を点火することだけを願って、わたくしは分類の仕様のない書物を世界の内に放ちたい。

<1993年、真木悠介『自我の起源』あとがき  この本は“詩人にして科学者であったM.K.(1896~1933)”に贈られている>







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