★ さらに、完全に独居して孤独の対話にいそしんでいるときでも、私は複数性から完全に切り離されることはない。というのもその複数性とは、まさに人間の世界のことであり、もっとも一般的な意味で「人間性」と呼ばれるものだからである。
★ この人間性、いや、むしろこの複数性と呼ぼうか、これはすでに、私は一者にして二者である、という事実の内に暗示されている。(略)人間は、あらゆる地上的存在と同じように複数性において生存するだけでなく、自分自身の内部にこの複数性を暗示するものをも持っているのだ。
★ しかし、私が独りでいるときに一緒にいる自己は、それだけでは、他の人々すべてが私に対して抱くのと同じような、明確で、独自な形とか特徴を持つことは決してできない。むしろこの自己は、つねに変わりやすく、少々怪しげなままであり続けるのである。
★ まさにそうした可変的で曖昧な形で、私が独りでいるとき、この自己は私にとってはすべての人間、すべての人間の人間性を象徴する。私が他の人々にしてほしいと期待すること――そしてこの期待はあらゆる経験に先立ち、あらゆる経験を乗り越えて残る――は、大体において、私が共生している自己の変幻自在の可能性によって決定されるのである。
★ 言い換えれば、殺人者は彼自身の殺人鬼的自己と永遠に交際し続けることを運命づけられるだけではなく、彼自身の行動を雛形にしてありとあらゆる他人を見ることにもなるだろうということだ。彼は潜在的殺人者の世界に住まうようになるのだ。
★ 人間は思考と行動が一体となった存在――言い換えるなら、思考が、つねに、不可避的に、行動に同伴している人間――であるという自覚こそ、人間と市民を改良するものであると彼(ソクラテス)は考えたのである。この教えの基調を成す前提は思考であり、行動ではない。なぜなら、ただ思考においてのみ、一者における二者の対話は実現可能であるからである。
<ハンナ・アレント『政治の約束』(筑摩書房2008)>
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