ぼくはツイッターもフェイスブックもやんない。
が、ひとのネット言論(一般意志2.0)は見ている。
今朝、不破利晴ツイッターで見た言論は面白い、三つ引用;
① yukawareiko 湯川れい子
確かにご正解です。RT @fujinamicocoro 脱原発世界会議大成功というツイートをよく見るけど、申し訳ないけど、ぶっちゃけ日本の未来、ヒトの命がかかっている問題に、2日で来場者1万2千人というのは少なすぎると思う。
7時間前
@Toshiharu_Fuwa がリツイートしました。
② iwakamiyasumi 岩上安身
「無税国家論」を唱えていた松下幸之助氏。その理念を実現するため、気鋭の政治家を育てようと開いたのが松下政経塾だった。その第一期塾生として入塾したのが野田佳彦氏。松下幸之助氏の薫陶を受けたはずの野田氏が、皮肉なことに今や大増税内閣の首班。
7時間前
@Toshiharu_Fuwa がリツイートしました。
③ bianc0_ner0 しろくろ
作家にTwitterやらせたら先陣切るのは正岡子規。漱石に勧めると140文字いっぱいツイット、月に3回位の頻度なのにその全てを芥川にRTファボされる、当の本人は番付の常連で、菊池寛がそれに対抗。鷗外は軍医の公式アカ、太宰は夜中に連投。宮沢賢治はそもそもネット圏外。
9時間前
@Toshiharu_Fuwa がリツイートしました。
(以上引用)
三つ目のツイートにある《宮沢賢治はそもそもネット圏外》という言葉に打たれる。
だから、宮沢賢治は、ぼくが近代で唯一興味を持てる<日本人>なのだ。
なかなか賢治を“読む”ことはできないけれど。
以上でこのぼくの“ブログ”は完結している。
しかし、“上記”のように書いたところで、“伝わらない”だろう。
“伝わらないこと”を書けるのも、“ネット言論”である。
<追記>
上記を書いたあとに、‘あらたにす=新聞案内人’で水木 楊(作家、元日本経済新聞論説主幹)とかいうひとの、“新聞に期待する”という文章を読んだ。
こういう文章こそ“伝わる(はずの)”文章なのだ(もちろん皮肉だ)
そういう文章の一部を“例文”として引用しておく;
《 論理が弱いことは、ツイッターやブログも同じようなものです。人間はよほど面白いものでないと、パソコンのモニターに長い間、目を凝らし、論理を追うことなどできない。(というと、この「案内人も同じ電子メディアではないか」と言われそうですが、この欄は幸い、筆者の好きなだけの長さで原稿を書くことを許されていますので、論理展開が可能です)
論理が溶けていく―これはなかなか由々しい問題で、私たちや次世代の人々は論理的に物事を考える頭の働きを失いつつあるのではないか。
私はたまたま学生の作文や論文に触れる機会があります。そこで気が付くのは、ただ仲間内と話しているような、論理構成が乏しい、いわばツイッターのような作文や論文が多くなっているということです。
論理を失うと何が起きるか。結論を先に言うなら、人は歴史観を失います。過去には無数の事実があります。その無数の事実の中から、自分が重要だと思う事実を取り上げる。なぜ重要かを説明する。これこそが歴史観であり、論理なのです。
歴史観を失った民族は、過去から学ぶことをしないわけですから、必ず衰退します。いや、日本はすでに衰退しつつあるのかもしれない。》(引用)
ぼくは上記の“論理展開”に反対ではないし、ネットより“旧大メディア”(熟議!)がいいとかわるいとか、言っているのではありません。
正しい論理展開をするひとが、その論理展開のように生きる意志(方向)があるかどうかだけが問題のように感じるだけです。