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それでもボクはやってない

2008-03-04 07:43:06 | 映画
 フジテレビでついこの前放映された、この映画。単なる冤罪映画かと思えば話はそんな単純じゃない。

 司法の場であると教えられてきた裁判所という所の実態のひどさ、検察、警察の実態、なぜ弁護士がいつも“戦う”という言葉を使うのかが描かれた映画。

 自分は本当に正しく、やましいことが無いならば、裁判で負けることはないと信じ、あらぬ疑惑をかけられたら、それをはっきりさせることができるのが、裁判なのだと思っていたら、大間違いだということを教えられた。

 


 裁判所って場所が本当にこういう所なら、へたに裁判なんて出来ない。




 また、この映画の中での話だが、検察の立場と、裁判所の立場の微妙な繋がりも感じられた。

 被疑者とのやりとりの結果、検察官が起訴を決めるのだが、その時「本人と被害者の言い分が違うのだから、裁判ではっきりさせるしかないでしょ」という台詞があった。

 これを聞いた被疑者は、「裁判で、はっきりさせればいいや、ボクは本当にやってないんだから。」と間違いなく思う。


 

 しかしである。裁判所は、真実をあきらかにし、公正な判断をする場所ではなかった。




 これを見る限りにおいては、かの植草氏の一件も、ほんとうのところは怪しいのかも知れないと思わざるを得ない。


 証拠や調書を“自分たちの有利になるように”出し渋ったり、修正に応じなかったりするという“意図的”な操作が当たり前な検察。


 そういうものだという事を一切しらない被疑者。そういう環境のなかで被疑者の弁護を行う弁護士でさえ、検察の持つ証拠をすべて知り得ないという実態。そんな状況では、弁護士は、権力と“戦う”という気持にもなるわな。



 これも映画の中での台詞だが、「裁判官は、年中“ウソ”をつかれて居るんじゃないかという目で見てるから・・・」なんていうものがあった。実際にウソをつくのは、被告だけではなく、検察もウソをつくのだが、映画ではウソをつくのは、被告だけという前提だったように描かれていたような印象を受けた。

 
 こんな状況の中で裁判員制度がスタートするということを分っておいた方が良い。できるだけ時間があるならば、あらかじめ傍聴しておくべきだとも思う。そしてこの映画も見ておいた方が良いと思う。


 そして、万が一にも検挙されて調書をとられ、署名しろと言われても、事実がきちんと書かれていない限り、署名してはいけない。そして本当のことを言えば大丈夫だと信じて検察や警察に安易に言葉を発してはいけない。

  
 

コメント (1)
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