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18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

安心して働く

2019-01-23 11:31:00 | 社会・経済
ここ10年以上まえから、大企業が揺らいでいる。

バブルがはじけたときは、文字通り「バブル」が割れて消えていくように、経済が縮小し、お金が回らなくなり、いくつかの企業、特に金融関係や大企業でも営業外で資産運用損を出して傾きかけた企業が多くでた時代があった。

それはそれで、みんなが浮かれてしまった結果なんだけど、その後の失われた10年、20年の間に、中国や韓国という日本の隣国が経済力や技術力を得て、世界市場に出てきた。

この事は、経済地図が大きく変わったことを表していて、バブルがはじけたこととはわけが違う。


中国が徐々に開放政策を取り始めた1980年代前半。日本の多くの企業は、チャンスだとばかりにこぞって中国進出を試みた。なにせ当時7億人とも言われた人口。例えば割りばしひとつとっても、7億人分の市場があるわけだから、じっとしているはずがない。

つまり中国は日本にとって格好の市場という認識だった。まだまだ成長できる、日本国内の5倍ほどの巨大市場が飛行機で1時間ほどのところにあるとなれば、だれだって狙う。


しかし、いまはどうか?世界の工場だった中国が、世界を市場にした巨大企業が居並ぶ国になった。

携帯電話の生産台数など、億単位である。かたや日本の携帯電話メーカーたるや、いまや京セラ、シャープ、ソニーだけである。しかもかれらの総生産台数を合わせても、中国のメーカーの1か月分程度の規模である。


さてそんな風に経済環境が激変したこの30年ほどを背景にして考えると、日本人が安心して働ける環境も大きく変化しているのは間違いない。


大企業に就職すれば定年まで安心、銀行に就職すると一生安泰などと言ってたことが本当だったのかと思ってしまうほど、多くの日本の大企業は弱体化している。


いま何とか世界の列強と肩を並べられているのは、自動車産業ぐらいだろう。




そんな中で、どうやって一生安心して働けるのか?




働く人達も大きく考え方を変える必要がある。




一つの極端な例を挙げれば、どんな企業に就職しても10年以内に成功する転職をする。




という考え方がある。





もう、企業に依存しない。言われるままの「従順な社員」で定年までいても、定年後つかいものにならないような働き方はやめるべきだろう。





仮に大企業でも、中小企業でも就職したらまずは、その分野でどこでも通用するスキルや経験、人とのつながりを作ることに専念すべきだろう。社内・社外の人との出会いを大切に維持する。可能な限り広い範囲の業務について知識を得て、場合によっては社内の他部門に出かけて頻繁に人と接触するなど、とにかく積極的に顔を売り名前を売る。

だれの為でもない、10年後の自分の転職の為である。


もちろん仕事も率先する、さまざまな経験を積む、人がやりたがらないクレーム処理や難題の解決に携わる。それも自分の為である。



事情が分からない周囲からすれば、「なに猛烈社員やってんだ」と揶揄されるかもしれない。


でも、そうやっていくうちに、会社という組織の中では確実に目立つ。いや注目されるし、いくつか実績を残せば、それこそ若いうちであればあるほど一目を置かれる。

そうやってだんだんと周囲の人を見方につけると、やっかむ人間もいるだろう、理不尽な命令を受けることもあるだろうが、そんなのはお構いなしである。


そして、もっと長くいてもいいなと思ったらそのまま長く居ればいい。

でも、同じ環境で長く居ても、実力が付かないと考えたり、世間の様子の方が気になるのであれば、とっととやめればいい。


例えやめたとしても、出来上がった人間関係は消えない。得たスキルや知識、経験は間違いなく役に立つ。


新しく働く環境を見つける場合でも、やってきたことを客観的に伝えるだけで、どんな人物かを理解してくれる。


バイタリティの問題でもないし、やる気の問題でもない。


単に自分自身の価値を上げる為だけの努力。どこに行っても通用するスキル。経験を身に着ける為の努力。




ひと昔まえ、ふた昔前では、40代になると転職は難しいと言われていた。いまでも楽ではない。50代の転職なんてそれこそいまでもかなり難しい。


しかしゼロではない。


ではどういう人が転職出来ているのかといえば、広く業界の事を知っていて、ある特定分野では非常に深い経験があり、かつコミュニケーション能力が高い。そこにもし人的ネットワークがあれば鬼に金棒である。



多くの大企業では、いまでも従順な社員が評価される。でも一旦外にでれば、その評価が絶対ではない事が分かる。わかってからでは遅い。



成功した話や苦労した話を経験として語っても評価してくれない。あなたがどれくらいの問題を見つけ出す力、見つけた問題を解決する手段を構築する力、構築した手段を実行に移す為のチームを編成し、メンバーのモチベーションを上げるちからがあるか話せないと魅力的に映らない。



就職した会社で、先輩や上司から言われた通りの仕事をしているだけではそんな話はできない。
多くの大企業の30代の社員たちは、みんな結構従順に仕事をしている。その様子を見ていると、年齢があがって会社にしがみつかなきゃいけない予備軍に見えて仕方がない。



あなたの人生の責任を会社はとってくれない。
一生面倒を見てくれるわけでもない。引っ張り上げてもらうなんて期待するより、自ら頭一つだけ飛び出せばいい。



10年、20年たって、後悔しないために。安心して働くために、自ら整えて置く事がとても大事。





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ジャーナリズムの起点と我々の判断

2017-10-13 08:34:00 | 社会・経済
ジャーナリズムの起点

「なんか怪しい」から始まる。

特に政権与党に対しては「番人」としての機能を期待されているマスメディアでは政権与党内閣、政府関係者についてその嗅覚を強く働かせる傾向がある。

政治家、特に政権与党には一般に様々な権力が集中してしまう。なぜかと言えば、行政と言うのは制度と法律によって運営の骨子が決められている。これは公平性や国民の権利を守る為。

その制度は、根拠となる法律を元に定められる。その法律は「立法府」である国会で国会議員が「法案」として出して賛否を問う。

簡単にいえば、官僚は国会議員の「立法」の力が脅威でありまた欲しているのです。

話が逸れたけど、こんな風に権力(権限)が集まっちゃう国会議員の言動に目を光らせる誰かがいないとダメでしょ?と言う考え方がある。警察だって結局は国の機関なのであてにしていいのかと問われれば、100%大丈夫とは言い切れない。

なので、国家機関でもない誰かが監視して世間に報じる役目を担わないといけない。ここが根拠で、またその為の「言論の自由」が保証されており、報道に制限をかけられない事もあり多くのマスコミは政府批判こそ自分たちの役割であると認識している。

これは間違いではないし、正しい。

「なんか怪しい」と言う感覚は必要なのだ。

誰が政権を取っていようと、どんな人物が総理大臣であろうと、何党が政権与党であろうと全く関係なくその役割は必要である。


だが、


例えばである

「なんか怪しい」と考えて取材を続けていても、それが外れる事だってある。

そのあたりからだんだんマスコミの姿勢が怪しくなってくる。


「怪しい」と感じて「怪しくない」とほぼわかっても「怪しい」と言い続け、そのうちつじつま合わせをやり始める。もちろんそれは読者や視聴者を惹きつける為だ。事情を知らない読者視聴者はやはりスキャンダラスな情報を好む。いや無意識にその記事を読んでいる。

ネタが尽きそうになると、より鮮度の高いニュースやショッキングでスキャンダラスな記事を探す。
あちこちから情報の切り貼りをやらざるを得なくなる。

もうこうなるとジャーナリズムでもなんでもない。歪んだ世論を作るためだけの作為に満ちた情報になってしまう。

つじつま合わせとは、例えば加計学園問題で、一方の証言のみ時間と紙面割いて紹介しつつ、反対意見を言い訳程度に報じると言うものだったり、「加計ありきで来ました」と言う言葉だけを切り取ってみたり、マスコミ自ら情報操作や誤解を誘導する報道の仕方、言葉の使い方を工夫してとにかく批判姿勢を続ける。

繰り返すがテレビには視聴率があるし新聞は毎日発行される。そんな中、視聴者の関心を買い続ける為にも同じ問題で引っ張らないといけないと言う事情もある。

だから、とにかく「モリカケ」とディレクターが指示を出す通り、その事を扱わないわけにはいかないのである。



そして大切なことは、私たちが正しく物事を理解する事。



そんなのが日常で、まともなジャーナリズムに基づいた報道がなされるわけはないのだ。

だから、もともとテレビニュースを見ない、新聞も読まない若い世代はネットとテレビの温度差に気づき、テレビ報道や新聞報道を斜めに見ていくのである。


国会の話に戻ると、日本には色々な考え方の人がいるので、そんな人達を代表する為には、さまざまな政治政党があっていい。

少数だからと言ってた簡単に意見が潰されない様に、国会議員選挙では比例代表制を取っている。それ自体は問題ない。ただし、徹頭徹尾批判に終始しているだけでいいのかと言う事も考えたほうがいい。もしその政治家や政党が政権を担う意思があるのなら、批判するだけじゃダメだと思うがどうだろう。



今回の選挙が初選挙の人もいるでしょう。どの候補者、どの政党に投票すればいいのかわからないと言う人へアドバイス。


いみじくも国会議員なら、国の設計図を書ける人物であるべき。また近代国家制度がある以上、国と国民が政治の基盤である。その国と国民をどの様にさまざまな困難から守り成長させ発展させるのか、より豊かで幸せを実現出来る国にするのかを具体的な方法を揃えて描けなきゃいけない。

大阪では高校まで学費は無償である。
しかし一方で高齢者が負担せずにいたバス無料化をやめたりした。これこそが設計図だ。

消費税をあげる以外の方法論を示さずに、消費税税率を10%にあげるなと言うのでは設計図もなく騒いでいるだけである。

全体図を描いて、方針を公に示しどこを強化してどこを減らす。メリハリを考えた設計図でなければならない。

局所的な話に終始しているのではいけない。先に述べた通り、国民を守り、成長発展させ豊かにする国創り、国の制度を作る、諸外国との関係を作る。

どんな国にしたい、どんな国にすべきかと言う理念があり、その為の議論してくれる知識や胆力がある人を選ぶのが国政選挙である。

一人一票と言うルールの中で選ばれた人がそれを担うのである。選ぶ側の責任は重い。

マスコミの一方的な報道に影響されず。自ら情報を積極的に取りに行く。直接政治家に話を聞く。それぐらいは当たり前にやらなければならない。マスコミは必ずしも伝えるべき情報を全て伝えてくれているわけではないから。

声を上げることは大事なことである。
しかし、批判だけなら誰にでも出来る。
「叩き斬ってやる」なんて言語道断。何も解決しない単なる野次である。

人間なんだから、私たち有権者は知恵を使って問題の解決に当たろうとする人を選ぶべきでしょう。

設計図をかける人を選ぶ。知恵を使って問題解決に当たろうとする人を選ぶ。問題解決に繋がらない発言を繰り返す人たちは存在する。そんな人たちは概して声が大きいがそれが正しいとも限らないし、多くの人の声をあらわしているとも限らない。

私たち、しっかりと見極め、自分の目と耳で確かめた事を元に判断すべきだ。











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学校で学ぶこと

2017-03-26 17:35:00 | 社会・経済
3月も終わりに近づいて、再来週には4月。

多くの学生たちが、新しい学年を迎える。

ところで、みんな一所懸命に勉強しているが、目標、目的ってあるのだろうか?

正直なところ、目的をもって何かを勉強しようと思ったのは中学三年生のとき。

このままじゃどこの高校にも入れないかも知れないと危機を感じた親が、せっせと参考書を大量購入してくれたので「ああ、勉強しなきゃいけないのね」と思ったときが最初。

それまでは、ただ学校にいって、ただ授業があって、授業で教えられてる内容はすべて受け身で聞いていて、ノートは取るけど、疑問も質問もなくただ、周囲は先生にあてられてすらすら答えられているのをみて、すごいなぁと思っていた。

そんな調子だから、高校受験勉強なんてやり方もなんもわからず、試験を受けたけども、まともに回答できているとは思えないが、なんとか第一希望も滑り止めも受かった。


そっからが本格的な「目的を持った勉強」が始まった。そのきっかけは、




落第である。




高校では、落第があると入学式を終えて教室に入ったときに先生に言われた。何教科何単位落とすと落第で、赤点は40点未満だったか以下だったか。

何教科何単位なんてことの意味すら分からず、ただ「おお、落第したら大変だ」と漠然と思ってこりゃ本気で勉強しなきゃと思ったのが最初。

中学の授業もまともに聞いてないし、be動詞もわかってないので正直ゼロからの勉強しなおし。
高校受験で親に買ってもらった参考書の中にたまたま良いものがあったので、それっを引っ張りだして、まず自分が「何をわかってないのか」から始めた。「何が分かってないのか」が分かってないと勉強のしようがないからだし、また「わかった!」という達成感というか、勉強の成果も見えなかったからこのアプローチは結構意味があった。

何かがうまくいかないときなんていうのは、そもそも「自分自身が何をわかってないのか」をわかってない事があったりするということを学べた。



そんなこんなで勉強をしだすと、「分かる!」が増えてくる。勉強すればした分だけ賢くなるんだということを経験できた。それからは赤点とらないように、落第しないようにという目的から、テストで満点とってやろうという風に変化し、丸暗記でいい科目は徹底して丸暗記を繰り返した。おかげで、高校二年生の時の世界史は、一学期から三学期まですべての定期テストを100点で終えた。これは決しておれ頭いいというのではなく、単に覚えてれば答えられる問題を出してくれた先生のおかげ。


そうするとおかしなもので、無意識に目的のハードルを上げていた。中学生のときに全く勉強せずに入れた高校は公立の工業高校。しかも同級生には、暴走族もいたし、ヤクザの組長の息子もいた。生徒間の暴力もあったけど、先生たちも力をもっていた。そんな環境。

一方で、中学の同級生だった奴は公立の普通科に通っていた。平均的な奴だったがあるときそいつの家に遊びに行ったとき、愕然とした。

英語の教科書が何冊もあって、グラマーだの英作だのいろいろ合わせると厚み10cm近くもあった。前述のとおりこちらは公立工業高校なので、英語は高校英語A。教科書はもちろん一冊。中学校でつかうNEW CROWNだのNEW HORIZONというあの薄さ。
「こいつらこれを一年かけて勉強するんだ。やばい、単純に10倍の勉強量だ」とおもった。


せめて、普通科高校出たやつと同じくらいの英語力つけとかなきゃ、やばいよなきっと。と工業高校であることのマイノリティを自覚していた自分は、高校卒業後に英語の専門学校に入学した。高校入学は特に目標もなく「高校ぐらい行っとけ」という世間一般程度の認識だったし、重要性など一切理解していなかったから中学の勉強はなんも覚えてない。

でも専門学校は自分で選んだ。せめて普通科高校でてるやつらと同じぐらいの英語を身に着ける。
具体的な目標を持つときわめて強力な集中力を発揮する(ことがようやくわかった)自分は、結局2年+1年専門学校に通った。

もう30年以上まえのことだが、英語があったおかげで転職にも役立った。


さて、長々と書いたけども、短期的であれ長期的であれ、目標を持つことはそこへ到達するための道をわかりやすくしてくれるし、到達するまでをしっかり自分で確認できるというメリットがあることが言いたかった。

目標や目的がないことが悪いとは言わない。目標や目的は誰かに言われて決めるものでもないから、そういう「実感」がない限り、真の意味での目標、目的は持てないから。


でも目標を持て、目的をもって頑張れと周囲がやいのやいの言ってくるし、自分自身でも目標、目的は必要だと思うなら、まずその「実感」を感じる為に自ら動き出すのはどうだろうか?

「落第がやばいから」「ずっと100点とってやろう」「せめて普通科高校レベルの英語ぐらいは」
これ全部、自分自身で決めた目標。誰に言われたわけでもない。大きな事じゃない、達成したからといってどうってことない。でも自分自身で決めたことであることが大事。



4月から不安、わくわく、いろいろな思いがあるでしょう。でも小さな目標。自分だけの目標でいいので、目標や目的をもって臨んでみるといろんな面白い事が待っているかもしれない。



目標や目的を据えないでいろんなことをやるのも人生。それは「目標や目的を決めない」という「目標」なのかもしれない。




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マタハラ・セクハラ・パタハラ

2017-01-12 11:20:00 | 社会・経済
職場のハラスメントが話題になっている。


わざわざ横文字にせず「嫌がらせ」と素直に表現すればいい。

セクシャルハラスメント(卑猥表現を使った嫌がらせ)から始まり、マタハラ(マタニティ-妊婦であること-に対する嫌がらせ)、パタハラ(パタ二ティ-本来は父性という意味- 父親が積極的に育児などに参加する態度-に対する嫌がらせ)、など間接的表現や略語で表現することでハラスメントに対する罪悪感やハラスメント行為に対する恥ずかしさを消し去ってるように思える。

要するに、嫌がらせ。

職場のセクハラ、マタハラ、パタハラって要するにいい大人が、嫌がらせやイジメを会社内でやっているってこと。

嘆かわしい現実だ。

大人の年齢なのにイジメ行為を行なう。
精神的に如何に幼く未熟であるかがうかがい知れる。
全く情けない。


社内で解決部門や相談窓口を設けることは大いに結構。

でも、それってともすれば社内で留めておく手段とも取れる。

これらのハラスメントにあったら、外部機関に連絡し、外部機関は躊躇なくその組織名を公表するべきだろう。

恥の文化を持つ日本だから、その方が抑止力にもなるし企業も本気で対策を考えるだろう。相談窓口だけで足りないのだから。

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同一労働同一賃金

2016-11-05 10:37:00 | 社会・経済
同一労働、同一賃金って本当に実現できるのか?

まずはそもそも論から、「賃金」は労働成果に払われているのか?労働行為そのものに対してか?あるいは能力に対してか?
賃金という言葉の定義が思考の邪魔をするなら、ならシンプルにお金としよう。

このお金。現実にはそれぞれ支払う側が決めているし、自治体毎の最低賃金はあるが、もちろんその金額も決めている。

つまり同一労働同一賃金というのは、この現実に対して何らかのルールで支払う金額を労働内容に応じて誰かが決めると言うわけで、
現実的にはあまりに実現性のハードルが高い。

誰が決めて、誰が監視するのかなんてことすらたぶん今後決まらない。



では、改めて「そもそも」の「そもそも」。



なぜ同一労働、同一賃金を言い出したのか? これは案外長い歴史があって話が脱線するので、ウィキ参照の事。



ウィキを見ればわかる通り日本でも過去にその動きがあったが、労組も財界も反対して頓挫している。
またアメリカでも法制化はされていない。要するに、難しい。



しかし出来る事はいくつかある。まずお金を払う側が、お金の支払い基準が労働か成果か能力かを明確にする。
ここでのポイントは、その基準をどちらかにしなければなないというものではなく、混在していいという発想。




例えばコンビニバイトは就労時間に応じて払う金額の部分と、例えばシフトに従って働く”労働”そのものの部分と
店長不在の場合の対応と言った”能力”の部分で金額を明確にする事から始める。




これが身近なバイトの賃金から始まると、一般企業も無視できない様になる。




この考え方を発展させると、労働契約を結んでいること自体に給料が出るという発想にも繋がる。
この発想は、お金を支払う方にもメリットがある。いわゆる勤務時間外の不祥事や緊急連絡など、
仕事時間中の出来事ではないが、労働契約を結んでいるから従わなければならない事項についても
ある程度の拘束力を持たせることができるからだ



もちろんその金額は、休んだから支払われないなんて事は無い。契約しているから発生する給料だからだ。





また、成果として支払われる部分が明確になれば、頑張って成果を出せば貰えるお金がどれだけ変わるかがわかるし、
お金を支払う側は明示しなければいけないから成果を出した人にはきちんと払わなければなら無い。
支払うお金に差をつける事に正々堂々とした理由ができる。



能力に対して支払われるお金は、お金を支払う側が、その都度決めるものと半ば固定的に払うものに分ける。
例えば商業簿記二級とか英検一級ならそれを必要とする会社はそれに固定的にお金を払う。

女子社員が何らかのパーティに上司と同行しなければならない場合、女性であると言う能力にその際のお金を払う。

イケメンや美人が接客したり、腕のいい職人にお金を払いたいがあからさまにできない事だってあるだろう。
字が綺麗、声がいいと言う理由でお金を支払っていいはず。ブ男だから払わないのではなく、イケメンと言う能力が
仕事に(直接的成果がなくても)有効に働くから払う。



こんな感じで始めた方がよほど現実的だろう。



この方が同一価値労働とかわけのわからん定義にお金を支払う側が振り回されない方法だと思うがどうだろう?




種々の法整備も必要かもしれないが、このようなアイディアは働いて貰えるお金に対する透明度が上がる事は間違いないだろう。




この件とは別だが、そもそもなぜパートやアルバイト、期間工と言った雇用の際の賃金がいわゆる正社員より安いのだろう。
労働を欲する側のわがままに応えている働き方なのだから支払われる賃金は正社員より割高であるべきだと思うがどうだろう。
この発想も、安く都合よく使われる現状を壊す第一歩ではないかと思うし、非正規が正規社員から下に見られるというのも少しは
解消されるかもしれない。







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