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母親サッカー熱望、子供悲劇。

2005年10月25日 16時05分30秒 | スポーツ
傑作(0)
2005/10/25(火) 午後 3:54 | 無題 | サッカー







日本の母親は犠牲的な精神が強い。それはまるで鮭が産卵して全てを使い果たして死ぬかのように。
 自分の残りの人生の全てを子供に注ぎ、夢を託す。その本命はどうやらサッカーのようだ。
 
 サッカーでスター選手は日本には50名もいないだろう。現在、サッカースターを目指す子供達は100万、いや300万人を超えるかも知れない。成功確率は3万分に一である。
 
 人間、成功だけが目的では情けない。参加する事に意義がある。挑戦する事に意味がある。

 しかし、子供の人生を親の願望で歪めていいものか。

 ここから先はレールはありませんと言う荒野へ子供乗せれば、レールがなくなると走れない。
 レールがないとは「才能がない」である。それは無謀な挑戦である。

 挫折は人間の肥やしだと言う人もいる。しかし無謀はある意味で死につながる。イラクで首を切られた青年がいた。これと似た現象が、今、日本全国で、特に母親の希望で行われているのではないか。

 元々サッカーは日本人に不向きな球技である。
 
 狩猟民族で、何時、背中から野獣に襲われるかの緊張感が充満した、民族が生み出した。

 農耕民族の我々は、前だけ向いて耕し、種を蒔き、収穫すればよい。昔は熊も背中から襲う事はまれで、ノンビリと実るのを待てばよかった。だから相撲、柔道、剣道などが生まれた。

 左右、背後に常に神経を使う習慣を、私は分散集中と言う。
 サッカーの生命はスタミナと分散集中にあると私は思う。
 この二つが日本人には大きく欠けているのだ。
 3万分の1のスター選手でも、分散集中は苦手である。

 自分の子供がヨーロッパのスター選手と同じ才能を持っと思うのか。それは1、000万分の1の確率かも知れない。その天文学的確率が自分の子供にあると思うのか。
 
 趣味として、健康としてサッカーを愛好することに私は反対ではない。

 これから時々続けて行くだろう。

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