夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

教育とは、子供の生命に火を点けることである

2015年04月19日 12時23分26秒 | 真理の言葉
教育とは、子供の生命に火を点けることである。
いかなる人でも、必ず神の子の力が賦与されているのであります。
この実相を知らすのが光明思想の教育であります。
教育の根本目的は才能を仕込むことではありません。
教育とは子供の内部の神性に火を点ずることでなければならないのであります。

この世に必要でない人は、一人もいないのであります。
吾々が地上に生を享けて来たのは、吾々が地上に存在理由があるからである。
換言すれば、必要あって神は地上に吾々を生み出したのである。
従がって吾々のうち誰も皆、神にとってこの世にとっても必要でない人はひとりもないのである。この点大いに自身を持って好いのである。

内部から才能が出ようとしている時に、出すようにようにするのが子供の教育の極意になるのです。
子供がこの世に生まれて触覚、聴覚、視覚などの発達にあわせて、初めて体験して、楽しんでいる、興味をもってしているその新しい経験を積んでいる刹那刹那に名前を与えて教えてゆくというのが、生長の家の教育法であります。
興味をもって生命が内部から動き出ているその刹那刹那に事物に名前を与えて
その存在を確固たらしめことにいたしますと、これは引き出す教育になります。

霊感は受けるけれども、表現に努力がなければ天才になることができない。
自分からその花の美しさと同じものを出したいとという衝動が起こるというのは、なぜかという、花の生命と人間の生命は本来自他一体だという一つの宗教的根本原理からくるのであります。
子供は親を模倣するのであります。ですから子供をよくしたいと思う人は、必ず自分自身がよくならなければならないのであります。
親がよくならないでいて、子供にばかり口小言を言って、その小言によってよくしょうと思っても、かえってあまり口小言を言われると反抗心が起こるばかりであります。
言葉で小言を言わないで形で示す、生活で示すということにいたしましたならば、人間は模倣性の強いものでありますから、自然と真似するようになって良き生活を送るようになってくるのであります。
子供をわからず屋だと思わないで子供の神性は必ず善を理解しうると信じて、優しく道理を説いて聞かすのが一番よいのであります。

このように子供がいかなる状態にあっても、小言、叱る教育から優しい言葉の力を使って笑顔で子供を讃嘆し、ほめる教育をし、詰め込み式の教育から無限の才能を引き出す教育へ、たとえば非常に上手にできた、ここをもう少しこうしたら、いっそうできばえがよくなるだろう。きっとまだまだ上手になる。この子は善くない所はすぐ改める善い子だから、どれだけでも上手になる子だ。わたしはお前を楽しみしている。と言葉を使って歓びを見出すように導いたらよいのです。