夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

2015年04月03日 21時44分31秒 | 誌編
昨夜壮年層の皆さんと愛について語り合いました。

新しい生活

トントンと小さな足音が廊下に響く。

新しい希望への弾む初々しい息遣い。

あなたに寄せたあの満たされた想い。

突然に再会の足音に時めきの花咲く。

美しい愛の刹那さ、喜び、豊かさよ。








『病気、罪、貧乏などあらゆる種類の不幸は恩人である事がわかるときがくる』

2015年04月03日 19時00分22秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
『病気、罪、貧乏などあらゆる種類の不幸は恩人である事がわかるときがくる』とアメリカの偉大な哲学者であり神秘主義者のエマーソンは言っております。
その恩人である災難が突然と訪れました。
二月二十一日土曜日先祖供養祭の招霊の時に、
突然に足をすくわれ横転したのであります。
これはどうした事かと考え、思い返しますと、発端は毎年大晦日には『娘婿の実家が魚の仲買をやっておられ大きなブリと新鮮な魚を頂き、刺身に調理して大皿に盛り付けるのが、私の役割でありました。
今年も十キロ程のブリとアジ四十枚を刺身にして大皿に盛り付けましたが、今までは毎年、誰かがお父さん『どうぞ』と刺身を小皿に盛って持ってくるのですが、今年は不思議にも誰も持ってきませんでした。自分自身も今年は食べる事さえ忘れていました。翌日にも冷蔵庫の刺身に手をつける事はありませんでした。

このように自然にお魚が遠ざかりました。
正月が過ぎ、弘法大師空海二十四才の時の三教指帰(さんごうしいき)と五十七才の時の
秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)を読んでいますと。
国家の安泰と国民の安寧の為に『淳和(じゅうなん)天皇の詔命(みことのり)をうけて本書を著しました。人々が直ちに妄執(まよい)を乗り超えて、心の真実つかんでもらいたいと願っています。
心の霧を払って、明るい光の中で自分の本来、備わっている仏心(ほとけごころ)をはっきり
見直せば、そこには、無数の宝物がいっぱいつまっているのです。
それに気がつけば、私もあなたも、毎日が全く新しい生活となることでしょう。
人間はだれでも心の中に浄らかなる性質を持っています。人々が六趣に輪廻して迷っている時にも、その明るさは変わらず存在しています。
私たちのすべての心身には、曼荼羅で示されるように、あらゆる仏徳が本来、円満に具わっているのですから、私たちは修行や体験を通してこの事実を確認していきさえすれば、この生涯のうちに、秘密荘厳の仏をこの自身に体現することができるのです。(即身成仏)自分の本性として持っているほとけごころ(菩提心)がおのずから内心に育って行って、さらに仏の光が
外から照らして加護してくれれば、本能のままの心にも、突然に、節食してそのあまりの食料を他の人々に施したいという心が生じてくるのです。

一に父母の恩。
二に国王と国への恩。
三に生きとし生けるもの大自然の全てへの恩。
四に仏の三宝の恩。

このような弘法大師空海の初々しい純粋で優しい、尊い、お心に縁れ感銘を受けました。
読み終わりふと、そばにある『幸福と生活論』 を何気なく開いたページに不思議にも、
『 吾らは一切の肉食、鳥魚食等からなるべく遠離することが宗教的に必要なのである。
実相が顕現するに従がって、かかる食物から自然に
遠ざかる様になるものである。
しかし、自然に肉食が遠離されるようになるまで、
道を生きるのに勇猛な人々は決して待つ必要もないのである。』 と云う言葉に読み当たり、
これまで肉食は避けていましたが、
この力強いお言葉に導かれ、魚、貝なども遠ざける、精進料理を頂く事を決心しました。
この精進料理の習慣が潜在意識に印象付けられ、足が地に付き、身に付くまでにはリバウンドなどがあり
半年はかかるだろうと思っていました。
精進料理を始めてからしばらくするとリバウンドにより、体重が増えたのに関わらず、体がフアフアと軽く
感じられ、幽体が軽くなったように思われました。
その矢先に先祖供養祭で足をすくわれ横転しました。

さて帰宅すると足は浅黒くなり、靴も入らないほどに
腫れあがりました。

二日後の月曜日には大村で出講があり、此のままでは出講先のご先祖様の仏前で正座が出来ない。
どうしょうか思い不安と恐れが巡りました。
翌朝正座が出来ないので椅子で神想観をしていますと、痛めていた足に生命磁気が流れているように感じられ、誰かが足を癒やしている事にハットしました。
この時初めて私を癒やして頂いている存在を実感として感じました。誰かが、私を癒やして頂いている事に
有りがたく感じられました。
神想観が終わり続々甘露の法雨を読誦していますと、
『如何なる恐怖も生命の実相(そのまま)の中には存在せざるなり』の言葉に読みあたりまたまたハットしました。
明後日(あさって)出講先の仏前で正座してご供養が出来るだろうか、また欠席すると、相愛会に集まって下さる皆様や皆様方の御先祖様に対して申し訳が無いと思われ、不安と恐れを持っていましたが、この続々甘露の法雨の真理の言葉で恐怖することを止めました。
出講当日、誌友会、会場の仏壇の前で無事正座して、
甘露の法雨を読誦することが出来ました。
あり難いことでした。

ふり返って見ますと今回の先祖供養祭での横転により、体がフアフアと軽く感じられ、幽体が軽くなったようにように感じられた状態が無くなりました。
この体がフアフアと軽く感じられたのは、
自分の業が浮き出てきた事のように思われました。
先祖供養祭の招霊に参加して、横転する事により、
汚(けが)れた幽体を脱ぎ捨て去り、業を取り除いて、浄化して頂いた事を教えて頂きました。
『脚下照顧』という言葉がありますが、せっかく神様が精進への道へと導いて下さっておられるのに、その御心に気が付かないで、転倒妄想の心をおこし、神さまを忘れた為に、足元をすくわれ横転した事に気が付きました。また何気なく思った言葉は実現するということが身近に感じました。
それは精進料理を始めるときに思った、
『この習慣が潜在意識に印象付けられ、足が地に付き、身に付くまでにはリバウンドなどがあり半年はかかるだろうと思った事でした。
『身に付くまでには足が地に着かない』 という謙虚な心を忘れた、言葉の暗示でした
確りと暗示した言葉よりもふと何気なく思ったことは意識の門番を、するりとすり抜け潜在意識に
深く印象付けられ実現するということを学びました。
精進料理にひかれるきっかけは

若い頃、父より茶懐石料理の心を教わりました。
素朴な数奇屋造りの小さな部屋で崇高な大自然の
響きと、亭主と客とがひとつになり、一期一会に、心を通い合わせ、相手を思いやり、拝みあい、祓い清められた茶懐石料理の源は日本の美しい精神文化と禅の教えを基にした精進料理でありましたから、若い頃よりあこがれていました。家族の献立と私の精進の献立と
二通り買ってきますと奥様がお父さんの精進の献立通りに遣りますのでそのように買って下さいと申します。
このように私事の精進料理を始めようとしますと、家族の食事との違いもあり、家族との調和が難しくなりますが、
奥様の優しい心を有りがたく受け止め、
奥様の心のこもった精進料理を頂こうと思っています。
神様から賜りました、豊かな、美しい日本の季節感溢れる、自然の恵みを有りがたく享け、ご精進させて頂きたいと思います。

『空手にして郷に帰るときに、掌(てのひら)の上に
『無限』が載るのである。』 とのお言葉を胸に刻み
自分のああしたい、こうなりたいと云う
一切の思いをいっぺん捨てて、再び魂の郷(ふるさと)である神様の温かい御胸に抱かれ、善一元の
光明生活の実現へと前進したいと願っております