夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

人間の実相は如来である。

2015年04月11日 20時54分21秒 | 真理の言葉
人間の実相は如来である

華厳経の一節を講義してこの『心・佛・衆生・三無差別』の思想を批判して、『心が悟れば佛になり迷えば衆生となる』という句には一つの陷穽があるのであって、多くの佛教者はこの陷穽に引っかかるといって指摘したことがある。
即ち人間の実相は、『心が迷えば衆生となり、その衆生が悟れば佛となる』では、『衆生』が方が実相なのか『佛』の方が実相なのか、差別なくどちらが、実相なのであるか有耶無耶になってしまう。
つまり『心』というものは無自性の『空』なるものとなり、人間の本体が、『無自性』であるならば、如何に生きるのが正しいのであるか基準も理想も規範もなくなる。
これを白隠の如く水をもってたとえれば『水』を『心』の譬えとして、蒸気を『衆生』の譬えとし、氷を『佛』の譬えとした場合、衆生が実相であるか、佛が実相であるか不明となる。
『水』本来の姿のか『氷』が本来の姿なのか、蒸気という『ガス体が』が本来の姿なのか、この三者のうち主体はどれであるかわからなければ、人間は蒸気として生きるのが正しいか、氷となって生きるのが正しいかわからなくなる。
だから南方の仏教者は『実相・完全の姿』を生活し得ずして、『空』に捉われ、乞食のような貧しい生活をして、国家までも空じ去って、その国が滅びてしまっているのである。

人間の生命の実相は『佛』であり、『如来』であり『神の子』である。
たとい『心』が迷って『凡夫』となってあらわれていても、本当は『心を観ずるに心無し』であり、(『観普賢菩薩行法経』)
従がって、その本来無い『心』が悟って成る『佛』も“無し”であり況や『心』迷って生じる『凡夫』も“ない”のである。
ただ『満福現在』の実相のみが独在する。それ故に我らは、『実相独在・円満完全・満福現在』という聖句を常に誦行するのである。

                                             女性のための知恵より