夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

山川草木国土悉皆成仏と対称性と非対称性の考察

2015年04月12日 20時35分48秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
山川草木国土悉皆成仏と対称性と非対称性の考察

十円硬貨を平面上に置いて上から見ると丸く見えます。これは二次元の世界を見ている事であり、同じ直径の丸いボールを見ることは縦と横の厚みのある三次元の世界を認識しているのであります。このボールと硬貨は非対称性であります。
同じ直径の丸いボールを平面上に於いてから上から見ると十円硬貨と同じ直径の円に見えます。これは対称性であります。
例えば先祖と父と母と子と孫は私たちが生きている現象世界の三次元の世界では非対称性的でありますが、次元を超えた心の奥にある超越的無意識では愛によって一つに結ばれた生命の連続であります。即ち対称性であります。
たとえば静止画のパラパラ漫画を連続的にめくると動く画像に変わるように、
二つの項目(非対称性)を操作して動きを与えると、次元の変わる世界(対称性)が顕われます。
最初に二つの項目を分けて等しくに扱いこれを無限に操作して集合すると無限集合となり、部分と全体は同じ濃度で等しいと考えます。
このように違う次元で物事を観ると非対称性のなかにも対称性を観ることができます。
非対称の憎しみの相手に善なる愛を見出すならば対称性となります。
無意識は、非対称的な関係を対称と認識することを精神分析のフロイド派のマツテ・ブランコは対称性の原理と云っており。
無意識では例えば憎しみの感情が無限に膨張すると憎しみが心に充満して全体と等しくなることを対称性的論理である理論づけられます.
精神分析は心の奥底を探り、現実の現在意識の心を客観的に無意識の心に同一化・対称性を見出して患者の沈滞した心に開放と平安を与える方法であります。
それには限界があります。
それは治療者と患者が直感的に超潜在意識に存在する仏の世界である宗教性・神秘性を認識することが必要であるからです。
愛と憎しみが融合され混然一対となり悪と善が等しく混在した転倒妄想の世界では、混乱が生じるだけで、秩序性が欠けていると思われます。
地球が秩序整然と動いているように、秩序性は神の御心であります。
善と悪は人間にどちらを選ぶかは自由であります。

釈尊がすべてのものは仏の顕われとお悟りになられた山川草木国土悉皆成仏の世界(真実の世界)には人間が悪心を起こしても、奥底には常に真実の輝く仏の慈しみの世界が実在しており、やがて経験を通して真実の『慈悲喜捨』の癒やされた世界が花ひらく時がきます。
真実の心は肉体人間が脳細胞で感じる心ではありません。
真実の心は肉体人間が感じる心である現在意識・無意識を一切捨て去った時に顕われる霊的実在の『永遠を生き貫き通した心』であります。
ユングの心理学では『神なる』観念も、そんな観念が、たった一人の個人の心理のなかに現れているだけだったらそれは単なる心理的主観的なものだけれど、『このような観念が、ほとんど至る処で、あらゆる時代に、一定数以上の共有になった場合にはそれは客観的なものである』とユングは説いています。

一遍上人は『我が體を捨て、南無阿弥陀と獨一なるを一心不乱というなり。されば念々稱名は念佛が念佛を申すなり』と説かれている。
即ち佛性が大信心を起こすのであり、その佛性とは自己に宿るに如来である。
如来が念佛して如来の実相があらわれるのである。
吾らの内に存在する超越的無意識、または宇宙意識に『既にある神一元、如来の実相』である素晴らしい神の愛が、真心を現わす縁を通して、直感的この現象世界にあらわれます。

このように部分が集合して全体があるのではなく既に全体があり部分があるのである。既に全体を現わす宇宙に満ち満ちた『如来』があり、部分を現わす吾々の一切の『自我』を捨て去り南無阿弥陀仏と唱える縁により部分である吾々の『真我』と全体である『如来』と『この身』、『此のまま』で、一体となることが出来るのであります。部分である『現象世界』が先ではなく全体である妙妙なる『仏の世界』が既にあり潜在意識、無意識を通して吾々に『如来』のすがたとして顕われるのです。
このような神秘的な意味で『部分』である吾々と『全体』である妙妙なる如来は一つに結ばれるのであります。