夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
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人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

国のいのち、人のいのち

2016年05月12日 15時06分37秒 | コラム・人文
国のいのち、人のいのち

唯物論で書かれた憲法は丁度ドミノ倒しのように一個のブロックが倒れるとすべてのブロックが次々と倒れるように、
一つの規定が壊れますと次々に全体の規定に不都合があらわれて来ます。
コンピーターも一個の部分が積み木のように積み重なり全体となっていますが、下端の積み木を一個外すと瓦礫のように全体が崩壊します。
末端のATMに不都合が生じると全体のネッワークのコンピーターにも影響がでるのと同じであります。
人間の指に針を刺し血が僅かに滲んだだけで全体の人間の機能が全て停止することと同じことであります。
しかし人間はそのような小さな部分の傷には大きな影響をうけずに、全体の身体は機能します。
人間は全体を優先した目に見えない叡智が創造した身体であります。 
このように全体を優先する唯心論と部分を優先する唯物論とは大きな違いがあります。
唯物論を優先させた国々は部分である末端の不都合が生じて革命等により体制の崩壊に広がる恐れがありますので、
常にその不都合を排除するために体制の監視、保持、人々の粛清を厳しくする必要があります。
唯心論を優先した国々は末端の不都合に、寛大な心があります。
反対に目には見えない感じることが出来ない国の『理念』なるものを大切にします。
五官では感じることが出来ない『国の理念』が崩壊すると国も滅びることになります。
国が滅んだ民族は数奇な運命をたどる事になります。
現憲法は敗戦後に敗戦国である自国の考えを主張出来ない時期に、勝利した国々を優先して出来た憲法であることには疑いの余地はありません。
またその当時は外国の管理下にあり、それに沿うように生きていかなければならない運命が科せられていました。
私が小学生当時住んでいた町も基地の街でした。
事件が起きると先に到着するのは県警のパトーカーではなく外国のMP(憲兵)のジープでした。
私達子供はそのジープを恐れました。
外国の将兵の緑の芝生に囲まれた自宅は治外法権がはたらいていて立ち入ることが出来ませんでした。
港には巨大な航空母艦が停泊していて、折り畳んだ翼の飛行機が満載されていました。
子供ながらもその優れた力、カッコ良さに憧れを持ちましたが、街には外国人に群がり、せびる子供たちもいて、
明らかに経済力等、全てにおいて力の相違を感じて、恐れてもいました。
外国の管理下にあるが故に、外国から援助を受け、自国の全ての力で国を保持する必要はありませんでした。
ある意味で外国に依存の状態でありました。
この依存の状況の中でわが国は高度成長してきました。
しかしその外国の力が衰退するに従って色々な問題が出てきました。





キリストの王国は何処にあるのか

このイエスのことば『吾が国はこの世の国に非ず』と。そしたらそのキリストの王国というものは一体何かと言うことになる訳であります。
『汝は王なるかと』とローマの総督は問う。
『汝が言えるが如し』とイエスは答える。
しかしイエスは『吾が国はこの世の国に非ず』といっているのである。
そこで『王』といったのはどんな意味か考えなければならない。
『王』というのはどんな意味で言ったかよいうと、王というものは何でも自由自在に命ずるところのものが、
実行されそれが現れて来る権威あるものが、『王』である。
言い換えると、コトバを発すれば何でも実現し得るところの完全なる自由を有する者が『王』である訳です。
そういう意味において『汝は王なるか』と問うと『汝が言えるが如し』とイエスは答えている訳であります。


続く・・・・・・

5月11日(水)のつぶやき

2016年05月12日 04時35分32秒 | 日記・エッセイ

米粒も同じものは一つもない。
あなたの存在もかけがえのない、
ただ一つの尊いものである。
神は見そなはし給う
あなたの真心を。