夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

『わが父の家を商売の家とするな』

2016年05月06日 21時51分32秒 | 真理の言葉
『わが父の家を商売の家とするな』

あらゆる物が溢れ、あらゆる思想が溢れ、あらゆる考え方が溢れ、ありとあらゆるシステム、規則、法律はウナギ登りに多様化しています。
どれを選択したら良いのであろうかと迷う時代であります。
ある国の代表を決める候補者の中に、これ等の概念を打ち砕く人が現れているようです。
正に先祖返りのようであります。
進化した民主主義のなかで、一見、人間の泥臭い希望をさらけ出して、其の儘に感じたフーリングを相手に投げかけて、
反応を見てそれに的確に、或いは直感的に判断する。
人間の原始的な素朴な思想、感情を武器にして、民衆に訴えて躍進しているように思えます。
このような事を・・・・・主義と言っている人もいるようです。



すべての人類は神の御心の恩徳を授かり、神の祝福を受けて現世に生まれ出でたのですから、
すべての人類は平等であり、互いに平等の権利を有しているのであります。
例えば物を売る人と買う人は互いに売る権利と買う権利が平等にあります。
ある利益を提供する人と受ける人も互いに平等であり権利も平等であります。
反対に義務も同じように作用します。
眞の利益は物事を二次元の世界の横軸を横に転ばして配置転換して差益を得るものではなく、
天よりの縦軸の神の恩徳より給わるものであります。
この縦軸と横軸の交差した、十字架のクロスした処が眞の平等の世界であります。
しかし現代はあまりも複雑な合理的なシステムの影響で、物事が見えにくい為に不合理な権利と民衆の権利が衝突して差益が出来て、
不平等が広がっているように思えます。
例えば、何が何か解らない『どさくさ』に紛れて不合理の権利者は漁夫の玉を拾い利益を得る。
原始的な方法ですと物々交換するときでも、互いに必要なもの提供し合い、取引をします。
例えば一億円相当の宝石と生活に必要な一月の米三十キロと交換する時の価値観の違いにも互いに利益があるならば取引が完結します。
お金は余るほど蓄えているが、食べるものが何も無いときには、相対的価値を投げ打って、お米を買う事を選びます。
しかし現代では合理的な智慧が普及していますからこの様な取引は行なわれることは少なくなりました。
貨幣の無い時代は、自分が創造したものと他が創造したものを持ち寄り互いに産霊(むすぶ)合い、
利益を分かち合ったのです。
そして喜びをも分かちあったのです。


イエス、エルサレムに上り給う。宮の内に牛、羊、鳩を売る者、両替する者の座するを見て、
縄を鞭につくり、羊をも牛をもみな宮より追い出し、両替する者の金を散らし、その台を倒し、鳩を売る者に言い給う
『これらの物此処より取り去れ、わが父の家を商売の家とするな』

                                         ヨハネによる福音書 2―13~16























                     


5月5日(木)のつぶやき

2016年05月06日 04時41分26秒 | 日記・エッセイ

人間の本性は超時空で無限である(幸福は今此処に、今の心の中に存在するのです) goo.gl/76sTSu


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