夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

眞の幸い、眞の救い

2015年12月17日 21時29分09秒 | 日記・エッセイ
眞の幸い、眞の救い

車窓に映る冬化粧の多良岳、標高は 九九六m。長崎県では火砕流が起きた雲仙の平成新山(一四八三m)、普賢岳(一三五九m)がよく知られています。
この街にも年に数回雪が降ります。
今から三七年前に珍しく二月に大雪が降り、その朝、次女が産気づき、新車に慣れないタイヤチエンを装着して病院に走りましたが、慌てて装着したので新車のタイヤ周りが傷だらけになった苦い経験があります。
市内に田んぼ広がる田園都市です。
戦前は飛行場(海軍航空隊)がありました。跡地に馬事公園があり、現在の県運動公園には競馬場がありました。
私が勤務している病院も前身は海軍病院の分院でした。
戦後マッカーサーの指令により現厚生省に移管されました。
長崎に原爆が投下された時には、長崎から列車で原爆の被災者が運び込まれ、その時には一時、長崎大学の付属病院なりました。
その時の時代の要請で街も勤務先も医療制度も変遷して来ました。
しかし変わらないのは人の心です。
病院も技術的な要望よりも人間関係を重視した御意見が多くあります。
安心、優しさ、心遣い、安全を求めて病院に来られます。
そこには色々な人間模様がかいま見られます。人々の求めは個性も異なり多種多様であります。
人間の奥底に横たわる幸福になりたい、今此処にある問題を解決して救われたい、愛したいのに、愛することが出来ない。表面の心は浮き草の如く止めども無く漂っています。




眞の幸福、眞の救いとは何でしょうか。
表面の心を整える事も大切ですが、モット深い願いは自分自身の奥底の魂の救いであり、喜びではないでしょうか。
愛されたい、救われたいと誰しも思いますが、
もう少し自分と他を冷静に客観的に捉え相手の側のことも自分と置き換えて考えてみると、
自分の見る世界、考える世界が広く広くなります。
そうすると他の人を喜ばせたい。他の人のお役に立ちたい。他の人の喜びを我が喜びとして喜びたい。他の人の苦しみを除いてあげたい。全ての人はわが同胞である。
と云う真実の思いが湧き上がって来ます。




眞の幸い
むしろ、幸いなのは神の言葉を聴き、それを守る人である

ルカ福音書十一―二十八

神の国が来る
自分の命(いのち)を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。

ルカ福音書十七―三十三

日本の武士道にも通じる言葉でもあります。




                                                                                                                                                                           

12月16日(水)のつぶやき

2015年12月17日 04時47分49秒 | コラム・人文

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