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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

大学再生への道 2

2008年08月08日 | 日記
大学からカリキュラムを廃止するということは何を意味するでしょうか?


それは、一つには、学者という存在がどういう点で尊敬されるべきなのかを、私たちに思い出させることになるかもしれません。


学者が尊敬されるとしたら、それは学者以外の人より何かを多く知っているからではありません。


社会では、すべての人が自らの生活を通して、有形無形の知識を得ています。それが書物という形をとらなくても、誰もが何かに精通しています。


そういう状況で、学者が学者以外の人より何かを知っているなどと考える人は、これからますます少なくなっていくでしょう。


おそらく学者自身でもそう考える人は減っていくでしょう。


では、学者が人から尊敬されるとしたら、それは自らと自らの社会に関わる問題を解決していくという経験をしていることです。また問題を解決することができるという能力を備えているからです。


自ら興味をもつ事柄に取り組み、問題を解決していくという能力に、人は尊敬を抱きます。


学者がある問題に興味を持つからといって、学生にもその興味をもつよう強制することは意味のないことです。だから、カリキュラムなどというものは、存在価値がありません。


学生は、自分が何に興味をもつかは、自分で発見しなければなりません。


また、どうすれば自分が興味を持つ問題を解決できるかを、学者に教えてもらうこともできません。それも自分で解決すべきです。学者が講義して教わるようなことではありません。


しかし、自分が興味をもつ問題を解決しょうとしている存在が身近にいることは、学生にとってきっと心強いことでしょう。



私たちは、何かを多く知っているという理由で、他人を尊敬すべきではありません。


人は自分が興味を持つ事柄しか知ろうとはしないし、また知ることはできないのですから、他人と自分の知識量の差を気にすることは無意味なのです。


私たちが他人を尊敬すべきであるとしたら、その人が取り組んできた問題を解決してきたプロセスに対してです。またその解決能力に対してです。


そう考えると、「学者」と「素人」という二項対立が無意味であることが分かります。重要なのは、目的意識をもっているかいないかだという、当たり前のことがわかります。

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