joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

「自分探し」

2005年05月11日 | reflexion
「自分探し」というものはよく批判されます。おそらく批判者たちからみれば「自分探し」は現実の外の世界を見ずに内にばかり目を向けているように思えるのでしょう。でも、彼らが批判する「自分探し」というものがどういうものかは、あまり説明されていません。おそらく、批判者の側も身近な例や憶測を拡大解釈して「自分探し」というレッテルを貼っているのではないかと思います。

「自分探し」をその人の「生きがい探し」と解釈してみます。その人の生まれてきた意味、その人が持っている才能などの意味です。あるいは、その人の「本来あるべき心のあり方」とも解釈してみます。人にやさしくすればよいのか、あるいは孤高になるべきなのか、他人と闘うべきか、など。

いずれにしても、それら「本来の自分」を探すのはとても難しいことが分かります。家庭の養育や学校の教育はそういうものを探すのを助けるのではなく、むしろ世の中の基準を押し付けることに必死だからです。

家庭や学校にはある程度そうせざるえない理由があります。規範意識をまったく持たない子供を育ててしまったら取り返しがつかないわけですから。

ただ、それら子供の頃から植えつけられる規範に対する抵抗として、「自分探し」があるように思います。

家庭や学校だって最高の養育・教育なんて分かりません。ただ「間違い」は犯したくないので、必死に規範を子供に押し付けます。

この「間違いたくない」というものに抵抗するために、「自分さがし」があると言えます。ある程度成長した時点で、家庭や学校・社会の「間違ってはいけない」という強迫観念を自分から取り除くために、かつての子供たちは「自分探し」を始めます。それは、ある程度周りの力で育てられた元子供が自分で人生をリセットさせようとする試みだと言えます。

「自分探し」とは「本来のあり方」をさぐるという意味だと思います。そのために、あるときは人に優しくし、あるときは孤独を選びます。いずれにしても、自分でもう一度人生の方向性を選択するわけです。そう考えると、「自分探し」とは多くの人にとって不可避だし、とくに「まじめに勉強し、まじめに働けばよい人生が送れる」という価値観が現実にそぐわない以上、「本来の自分」を探すのは多くの人にとって必要なことだと言えます。

誰も明確にこうだとは言えないし、言ったことについて責任を取れる人はいない時代だと思います。なのであれば、自分や他人の「自分探し」の過程をまず冷静に見ていくことが必要なのだと思います。


涼風