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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『モダニティと自己アイデンティティ』アンソニー・ギデンズ(著)

2006年09月03日 | Book


イギリスの社会学者
アンソニー・ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ』を読みました。原著はもう15年も前の本です。それでもこの本が問題としている論点は今でも通用するでしょう(もし答えは合っていなくても)。

「リスク社会」

ざっと読んで印象的なのは、ギデンズの言いたいことの一つは、彼にとって「後期近代」は社会全体の領域が人間化されていること。すべての領域が人間の思考・行為の影響の下に成り立っていることです。

ただこのことは、すべての領域を人間がコントロールできることを意味するのではありません。たしかにすべての領域は人間の思考・行為のフィールドになっているのですが、それはあらゆる立場の人間が互いに自分の影響を及ぼし合っているので、つねに他人の行動に影響される可能性があるということです。

前近代社会であれば、人間は生活全体にわたって、人智では把握できないものの存在を認めていました。それは天変地異もそうだし、出産・病気・死もそうだし、人間の成長もそうでした。

狩猟採集も農耕も、自然との闘いの側面はありますが、一部では自然への服従という側面もありました。男女の区別は「自然」なものととらえられ、また人は出産での胎児の死をやむなく受け入れていました。この世には人間にはコントロールしえないものがあることを当然視していました。

ギデンズにとって「後期近代」とは、この人間の外から人間の社会に影響を及ぼすものが限りなく狭められている社会を意味します。遺伝子工学の発展など、「自然」と思われていたあらゆる領域が人間の影響下にあります。

しかしこのことは、上で述べたように、すべての領域を人間がコントロールできるようになったことを意味しません。むしろ技術発展や経済構造の変化が激しくなることで、世界はつねに緊張に曝されるようになりました。

今でも社会学者がこの言葉を好んでいるのか知りませんが、ギデンズはこの事態を、ウルリッヒ・ベックの議論を借りて、「リスク社会」と呼んでいます。

「リスク社会」とは、もちろん前近代と比較して社会が危険に満ちていることを意味しません。生命の危険と言う点では、むしろ以前の社会のほうが大きく、例えば国内でも旅行をすることは、盗賊の襲撃など、欧米でも命懸けの事業だったそうです。

そのような危険は現代ではぐっと減りました。しかし、現代は、すべてを人間がコントロール化に置こうとした結果、最初の意図では予測できなかった結果をつねに招来する社会となりました。一体何がどの影響で起きるか分からない、しかしそれは人間の思考・行為の意図せざる結果として起きてしまう、そのような危険につねにさらされているという点で、現代社会は「リスク社会」となりました。

すべてが人間のコントロール下に置かれている点で、私たちはつねに自分の人生上のリスクを計算する義務を負わされます。例えば組織社会である以上、「リスク」を考量して、学校でいい成績を修め、いい組織に入るという計算をたてることができます。

しかし、技術の変化が激しくなれば、既存の組織が維持される経済的保証は危うくなるかもしれません。また家族計画も人間のコントロール下にあるので、少子化のために国家財政が傾き、公務員の給与が保証されなくなるかもしれません。すべてが人為に曝されるため、「リスク」を計算する条件がつねに変化してしまうのです。

私たちは現時点で予測できる条件に基づいて「リスク」を計算できますが、その条件は人間の思考・行為の影響でつねに変化することを強いられています。そのため、この「リスク」から逃れることのできる人は世界中からいなくなってしまいました。インターネット・少子化・国際通貨取引・核開発・・・すべては世界中で影響を及ぼしあい、遠い国の出来事が私たちの生活に影響します。


罪と羞恥

この「後期近代」の中でギデンズが指摘することの一つが、人間の心理メカニズムのにおいて、罪よりも羞恥という作用が中心的になっていること。

これは、上記したように、「自然」的なもの(男女両性の区別など)が存在しなくなったり、前の世代のライフコースが次の世代では通用しなくなることが当たり前となったり(これほどまで国家官僚がバッシングを受ける時代は珍しいのではないか?)、自明のものとされた価値観がつねに崩れていく状況の中で、一人ひとりが自分のライフスタイルを「選択」することを強いられていることと関係しています。

このように、すべてを自分で選択するように強いられることは、かつてのように宗教に依拠した道徳がもはや「自然」のものとはされず、狂信的な原理主義による以外には人々には受け入れらない状況を招きます。

道徳の侵犯によって人生・生活を秩序化していた状態から、人は自らの「ライフ」をプランニングし、自分でコースを敷きます。そこでは、すべてが自分の選択にもとづくため、その検証は宗教的道徳以上に、他者の視線と自己の再検討にもとづくようになります。

ここで、罪よりも羞恥という心理的働きが後期近代では人間心理で中心となると言う著者の主張が出てきます。

「罪は、伝統によって定められたサンクションを受ける規範も含む、旧来の道徳的規範によって社会的行動が制御されているようなタイプの社会に、最も顕著に見られるかたちの不安である。羞恥は、罪よりもいっそう直接的に、より広範囲に基本的信頼に関わっている。というのも、罪は、自己そのものの統合感を脅かすというよりも、むしろ特定のかたちの行為や認知に関わっているからだ。罪とは違い、羞恥は自己と社会環境の双方における安全感を直接に侵食する。自己アイデンティティが内的に準拠するようになればなるほど、羞恥は成人の人格において基本的な役割を果たすようになる。個人はもはや主に外的な道徳的規範ではなく、自己の再組織化によって生きる」(173頁)。

この罪と羞恥の区別、また羞恥が現代の人間の心理メカニズムで中心となる主張、これが個人的には「本当にそうなのかな?」と私が疑問に思った点でした。

ギデンズは、このように罪に代わる羞恥という概念を導入することで、なぜフロイトとヴェーバーが生きた近代とは異なり現代では道徳的な寛容性が見られるようになったかを説明できると見なします。

すなわち、フロイトやヴェーバーのように、強い超自我が良心と文明を作ったという見方を続ければ、現代は超自我によるプレッシャーが過大になり過ぎ、罪が膨張しすぎて、あらゆる規範が崩壊して道徳が喪失した時代だということになります。

しかしギデンズは、このような道徳の崩壊という言い方を信じず、むしろ道徳は外的な超自我によって与えられるものとはならず、自己が自分で選択して再秩序化するものとなったと考えます。

道徳からライフスタイル・職業・友情・恋愛まで、すべてを自分で選び取る時代には、もはや前近代のような宗教的道徳観と超自我には依拠せず、個人は自分自身に依拠した選択を行ないます。

この自己選択の時代で頼りになるのが、幼児の時代に(主に)母親との関わりで個人が獲得する基本的信頼という感覚です(ギデンズはウィニコットの議論を援用していますが私は未読。ただ、以前紹介したジョン・ボウルヴィィと同様の議論だと思います)。私たちは、無力な幼児の段階で、大人の支えを基盤にして、未知の領域に一歩一歩足を踏み出して生きます。自分は安心であるという感覚を持つときに初めて幼児は、知りえないものに自分の行為を及ぼす挑戦を行ないます。

この感覚が、後期近代では、宗教などの外的規範が以前のような絶対的な威力をもたないため(だからこそ、宗教を信じるには「狂信」という事態が生じる)、人間の行動の基盤になります。

ギデンズはこの自己選択を行なう働きは、罪よりも羞恥という働きと関係しているとみなします。しかしこの羞恥という心理を、彼が肯定的に見ているのか否定的に見ているのか、その中間で見ているのか、どうにもよくわかりません。

例えばギデンズは、自己の外見のあり方(減量、アンチエイジングetc...)に没頭する現代人のナルシシズムを批判する社会学者の議論を批判的に検討します。

現代では、自分の身体およびライフスタイルすべてがその人のパーソナリティを表すものと受け取られ、それゆえ人は職業のみならず衣服の選択から居住地・顔・身体すべてに強迫的に神経を行き渡らせます。多くの社会学者がこの現象を、個人の社会性の喪失と自分への引きこもりとして見なします。

しかしギデンズは、このように身体からライフスタイルまですべて個人が選択する事態は、自己の見てくれへの神経症的な配慮・自己崇拝の肥大としてのみ考えられるべきではなく、生活のすべてを自己決定せざるをえない後期近代の状況において、個々人が積極的に自己のストーリーを構築しているものと捉えるべきと考えます。つまり、つまり一見自分自身への没頭のように見えるナルシシズムのような現象も、見方を変えれば、個人が自分の規範を自身で再構築している過程であり、これは社会全体に共通する動きの一部だということです。

ギデンズからみれば、ナルシシズムとは、このように自己選択を強いられた状況において、個人がうまくその状況に適応できなかった事態を表します。彼は次のように述べます。

「臨床用語としてのナルシシズムは、部分的には近代社会生活が原因となっている他のいくつかの身体病理のうちの一つとみなされるべきである。人格の歪みとしてのナルシシズムは、基本的信頼の達成が失敗することに起因する。このことは幼児が自分の主な養育者の自立を十分に認識することができず、自分自身の心的境界を明確に分離できないような場合においては特に当てはまる。このようなケースでは、自己価値の万能感は容易にその反対物、空虚感および絶望感と交互に表れることが多い。このような性格特性は、成人期に持ち越された場合、特に自尊心の維持のために他社に神経症的に依存しがちになり、そのくせ他者と効果的にコミュニケートするには十分な自律しか有していないようなたぐいの人物を生み出してしまう。このような人物はモダニティの生活環境が内包するリスクへの配慮とうまく折り合いをつけていくことができない。こうして彼らは、人生の偶然をコントロールするための手段として、身体的魅力、そしておそらく人格的魅力の開拓にいそしむことになる。ナルシシズムの核にある力学は、以上の議論を追っていくと、罪ではなく羞恥として理解することができる。ナルシシストが対処しなくてはならない、尊大さと無価値感とが交互にやってくる感情は、本質的に羞恥によって圧倒されやすい脆弱な自己アイデンティティへの反応なのである」(201頁)。

この記述は、ナルシシズムを、変化する状況に適応できない個人の自閉空間への引きこもりとして解釈しています。しかし、このことは同時に、「モダニティの生活環境が内包するリスクへの配慮とうまく折り合いをつけていくことができ」る人間とは、尊大さと無価値感から解放された、十分な基本的信頼を達成した人物であること意味します。

羞恥とは、この記述から、尊大さと無価値感を揺れ動く、他者との比較に依拠した心理です。宗教的威力を失った状況においては、個人は基本的信頼感に基づいた自己決定を要請されるのですが、その信頼感をもたない場合、人は十分な精神的自律を達成できず、他者と自身との比較にもとづいて選択を行なうようになります。ギデンズはここに羞恥が中心となる現代人の心理を見ます。

ただ読んでいて不思議になるのは、この「羞恥」は、「罪」あるいは「罪悪感」というものと、彼が言う程区別されうるのか?ということ。

人が「羞恥」感をもつとき、すなわち尊大と無価値感の間で揺れ動くとき、それはつねに他者からの注目によって自分の内面を支えようとしています。このような心の癖を人が身につけるのは、まさに大人(親)の心理的保護が幼児のときに十分に与えられなかったためです。自分がまさに自分のままでよいという許可を与えられず、自分以外のものでなくては大人(親)からの愛を得られないと子供が認識したとき、その子供は、自分は価値のない存在であり、同時に“自分ではない何か”にならなければならないという命令を内面化します。この“自分ではない何か”になろうとするとき、他の子供との比較を意識するようになります。その“自分ではない何か”とは、(精神的にか物質的にか)社会的な序列において上位を占めることを意味する場合が多いのですが、それは他者との比較によって価値を帯びるものだからです。

これは子供にとっては絶対的な命令を意味しますし、その“自分ではない何か”になれないことは、親からの愛情を得られないことを意味します。この「羞恥」という言葉でギデンズがどのような感情を意図しているかによりますが、「脆弱な自己アイデンティティ」と言う場合、例えば失業に直面した成人を想像すると、それは失敗感・挫折というものに囚われますが、それも元を辿れば、社会・他者が想定する人生のレールから外れたという観念にもとづいています。この「外れた」ことによって失敗感に囚われるのは、まさに大人(親)によって受けた命令を達成できなかったという幼児の時代の経験が元となっていますし、それは命令を達成できなかったという点で、その人にとっては罪悪感として経験されます。

つまり、道徳的な規範力が弱まった時代においても、親の影響下において子供が大人に対して罪悪感を感じながら規範を内面化するという事態は変わらないのであり、羞恥というものが罪というものとそれほど区別されうるのだろうか?という疑問をもちました。

もっともこの点は、「罪」と「羞恥」という言葉でギデンズがどういうものを想定していたかによりますね。

ただギデンズは、「罪」が「羞恥」に取って代わられる事態は、同時に個々人が生活を自己決定できるようになったことを意味すると捉えています。たとえ社会下層で物質的な資源へのアクセスが限定されていようと、すべての選択肢は可能性として現代社会では存在するし、個々人は外部から受ける影響をすべて自分の仕方で処理し、自分自身の決定によって秩序を再構築しているとみなします。

そこでは、例えばセラピーによって基本的信頼感を取り戻した個人が「羞恥」から開放され、より自立的な選択を行ないうる人物へと変わって行きます。

このようなイメージから、メディアの氾濫・消費文化の新党・セラピー・身体と人格の開発への没頭といった、多くの社会科学者が批判的にみる現象を、ギデンズは、個々人が自分の人生と社会の秩序を自己決定していく過程として肯定的に見ていきます。つまり、消費文化がどれほど産業によって提供されたものであろうと、基本的信頼感を持つ個人ならば、それを摂取する過程でも自律性を失わず、自己と社会のストーリーを自分なりの仕方で再構築するための材料にするのだということです。

ここにギデンズは、近代の希望を見出しています。



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