joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

感覚を感じる

2006年11月24日 | 絵画を観て・写真を撮って


昨日(も)「オルセー美術館展」に行き、全部の展示品を観ることができました(「オルセー美術館展」10・15)。

この展覧会は I 親密な時間、II 特別な場所、III はるか彼方へ、IV 芸術家の生活、V 幻想の世界へ という五部構成なのですが、昨日私が観たのは「III はるか彼方へ」の一部から最後まで。

私はふだん美術館には行かないのですが、展覧会というものに接した感想としては、絵と工芸品や彫刻とが同時に置かれていると、なかなか鑑賞モードのスイッチの切り替えが難しいと言うこと。

さっきまで絵を堪能してその世界に入っていて、いきなり工芸品を観ても、どう鑑賞すればいいのか戸惑ってしまうのです。

まぁ、でも絵や彫刻・工芸品が同時に置かれているのは美術館では普通だろうから、これはこちらの問題なんですけど。

僕は美術史について全然知らないのですが、たぶん印象派と言われている画風に自分の感覚は合うのだと思います。今回の展示会でも、I 親密な時間  II 特別な場所などのコーナーにはその印象派の作品が飾られていたんじゃないかと思います。

それは、現実を描きながら、かつ現実を見た自分の感情を描くというもの、かな。

それらの作品に比べれば、絵全体をきっちり計算して人為的に完璧な図を作り上げようとする意図が見える作品は苦手です。これは観る側の感性の問題ですね。

ただ、ゴッホという人の絵は、その人為的な完璧さへの追求が人並みはずれていて、その執着の強烈さに観る人はハッとさせられるのかな?

涼風

プリンタの後悔

2006年11月22日 | 絵画を観て・写真を撮って


私が今使っているプリンタはhp psc1315(「苦しみ」2005年6月21日)。これを買ったのは一年半近く前なのですが、その頃はデジカメなんて使ったことがなく、フォトプリンタなんて縁がないと思っていたので、とにかく安くてちゃんと文書を印刷できるものを探していました。

しかし。psc1315でももちろんデジカメプリントはできますが、A4などの場合は白いフチが付いてしまうのです。

うーん。今になってこんな後悔するとは思わなかった。少し高いものを買っておけばフチなし印刷ができただろうに。

まぁ、A4サイズほどの写真をちゃんと印刷しようと思ったら、二、三万ほどのもっと値の張るものを買わないと、ちゃんと印刷されないかもしれないけど。


涼風

午前中の光

2006年11月21日 | 絵画を観て・写真を撮って


朝、さっき机に座ったときは、微妙な陽射ししかなかったので、今日ははれ時々くもりかな?と思ったのですが、少し経つとちょっと晴れてきました。太陽の光で団地や家々の壁が白く映えています。空は青なので、白と青のコントラストです。きれいです。

こういう日は、カメラをもって朝から外に飛び出したくなりますね。

でも飛び出してどこに行くのか。

自分は家の近くできれいないい場所がどこにあるか知らないけど、行ってみて大したことがなければガクっとくるかもしれない。

それよりはたまたま通りかかったところでパチリとするほうがラクだ。でも、「たまたま通りかかる」という所のバリエーションはなかなか増えない。

同じ場所でも、日が違えば見える風景が違うこともあるのだけど。

旅行者のスナップショットもいいだろうけど、住んでいる人の視点と旅行者のそれとは違ってくると思う。

日を決めて、「この日は写真を撮るのだ」と心に決めて朝から出かけると、朝から写真のために外に出る勇気が出るのだろうか。

京都はもう紅葉が終わりに近づいているかな。でも、京都の紅葉の写真なんて無数にあるだろうし。行ってみたい気もするけど。

ファッション雑誌の戸外での撮影は午前中に行なわれるそうです。それは、午前中の太陽光が一番きれいだからとか。だからモデルの人はみんな朝は5時起きが珍しくないそうです。


涼風

写真についてのお願い

2006年11月14日 | 絵画を観て・写真を撮って


このブログではよく写真を掲載しています。写真はすべて私が自分で撮影したものです。私自身は写真歴はまだ9ヶ月ほどです。

写真撮影にもいろいろマナーがあるとよく聞きます。人の顔や、とりわけ子供の顔を撮ったりして、その写真をネットで公開したりなどすると、その人に迷惑がかかる場合もあるそうです。

私自身はいい写真をたくさん撮りたいのですが、かと言って(当たり前ですが)他の人に迷惑をかけたくもありません。

このブログを読んでくださっている方で、私が掲載している写真で、「これは載せないほうがいいのでは」と思われた場合は、コメント欄でも、あるいはメールでも、教えていただけると助かります。メールアドレスは、〈vergebung@mail.goo.ne.jp 〉です。

私自身は大丈夫だと思っていても、知らず知らずのうちにマナー違反をしている場合もあるかと思います。もしそういう時があったら、指摘していただければとても助かります。

できればよろしくお願いいたします。


涼風

澄んだ曇り

2006年11月11日 | 絵画を観て・写真を撮って


神戸方面は今日は朝から雨が降っています。でも雨音が聞こえるような降りではなくて、目を凝らしてじっと見ていると、しずくが空から落ちていると分かるような感じ。

きっと夜か早朝にはある程度降ったんだと思います。アスファルトが水に濡れて色が濃くなっている。

曇りではなくて、雨上がりの曇りというのは、普通の曇りとは違い、ひんやりして空気が澄んでいる。遠くのほうまで風景がくっきり見える感じ。

家の窓から見える紅葉も、晴れの人は違ったかたちできれいに見えます。今のほうが、世界というか土というか、大地になじんでいるように見える。

こういう日は午前中からでもカメラをもって外に出て写真を撮りたくなります。


涼風

写真のマナー

2006年11月10日 | 絵画を観て・写真を撮って


写真を撮っていると、どこまで撮っていいのだろう?と悩むことがあります。

人の顔を無断で撮っちゃいけないのは分かります。

あと、人の家の窓を撮っちゃいけないと言われたこともあります。

それは、窓はその家と人の何かを象徴しているからなのでしょうか。窓はその家の顔だから、その顔を無断で撮っちゃいけないということなのでしょうか。

また、風景を撮っていて人の家が写真に入ってしまう場合、それはどこまで許容されるのだろう。

人の家の庭を撮るのはよくないように思う。では、壁越しに見える木や花、道路に置かれている鉢は撮っていいのだろうか?それとも、それらもその家の人が魂込めて育てた家族なのだから、無断で撮るのはマナー違反になるのだろうか。

僕は一般常識というかコモンセンスに無頓着で、ずかずかと人の迷惑なことをしたり、極端に人の顔色を窺って萎縮したりと、両方に針が振ってしまう性格なのですが。

失敗から学べればいいけれど、失敗しないのが一番ですね。


涼風

むずかしい

2006年11月05日 | 絵画を観て・写真を撮って


ここ数日、神戸・明石ではいい天気の日が続いています。朝起きても、晴れやかな日が続きます。

海や公園や川や木々の中で陽が射すと、まるで魔法の空間の中にいるような気がします。そんなところにいると、「これでとってもいい写真が撮れる!」と思い、所構わずパシャパシャやります。

枚数もあっという間に300枚を超えます。

でも、家に帰ってパソコンで見ると、どれもヘンな退屈さです。

“陽が射す自然”という絶好な場面に出くわすと、感動します。そこには純粋な感動があります。

でもそれを写真に撮ろうとすると、きっと頭のどこかで、いつか見た既成の(プロが撮った)類型的な「いい写真」を思い浮かべていて、そのイメージに似せた写真を撮ろうとしているのかもしれない。

僕の(父の)コンパクトデジカメでそのようなプロが撮った感動写真を再現しようとすることには無理があります。

また同時に、そのような既成のイメージに似せた写真を撮ろうとする態度では、感動できる写真を撮ることができるのかな。何事も最初は模倣だと言うけれど。

512MのSDメモリーカードを買って、たくさん写真を撮れるようにはなりました。でも、それで気に入った写真を撮ることができるかというと、そういうわけでもないようです。


涼風

世界に感動して家で落ち込む

2006年10月28日 | 絵画を観て・写真を撮って


少し前に、用事があって阪急神戸線の岡本駅というところで降りて歩いたのですが、狭い坂道で静かな環境で、品のよさそうな住宅が並んでいる所で、歩いていてすこし気持ちよかったのが印象的でした。

阪急沿線で降りることはめったにないのですが、駅から眺めていてもこじんまりとした、しかし昔から住宅が密集している感じで、石畳の道などもあり、とても雰囲気がよそうです。

一度、そこに出かけて写真を撮りたいなぁとよく思います。

岡本駅というのは僕の家から遠いわけではなく、最寄の駅から40分ぐらいです。でも、今まで電車に乗って写真を撮るためにわざわざそこまで出かけたということがないので、腰がすくんでしまいます。

写真を撮るなら、午前中の光があるときがいいかなぁと思うのですが、朝起きていきなり外に出て写真を撮りに行くというのが、なんだか怖い感じがするんですね。なんだか、そんなことしていていいんだろうか、とか。そんな風に時間を使っていいんだろうか、とか。そう考えると怖くなります。

そうこうしているうちに、どんどん時間が過ぎていってしまうのですが。


写真を撮っていて落ち込むことも最近はあります。緑のきれいさなどに感動してパシャパシャ写真を撮りまくっても、後から見るとなんだか退屈な感じの写真になっていると、は~っと。

その世界や環境のきれいさに感動してパシャパシャ撮っているのだから、写真の出来がよくなくてもそれはそれでいいように思うのですが、なんだか「あんなにきれいだったのに」という想いがして、それに対して“結果”としての写真がそれほどいい感じがしないのもがっくりです。

写真は楽しかったりするけど、徒労感も味あわせてくれます。


涼風

あと、こんな写真にはかないませんよ~。

SDメモリーカード

2006年10月24日 | 絵画を観て・写真を撮って


これまでカメラのことをまったく知らなかったわたしは、デジカメのメモリーカードはてっきりメーカー指定のものしかダメだと思っていました。

でも、ネットで少し調べてみると、べつに他のメーカーのものでも大丈夫みたい。

私の父が購入したデジカメはCanon IXY DIGITAL 60です。だからてっきりCanonが提示するメモリーカードでないとダメだと思っていました。

でもそれだと、容量128MBで1万2千円、512MBに至っては3万5千円前後です。なのでわたしは諦めていました。

でもどうやら純正品でなくてもメモリーカードは使えるという基本的なことを知り、調べてみると、3千円ほどで512MBのカードがありました。ハギワラシスコム HPC-SD512TP 512MB です。

3千円で割安のようだけど、わたしには低くない金額。でも、少しどきどきしましたが、衝動買いしてしまいました。

レビューをみても、IXY DIGITALとの相性もいいみたいなので、大丈夫そうです。

これでもっと高画質の写真を撮ることができます。どれぐらいの違いがでるのだろうか。

これを機に、デジカメの説明書・応用編という分厚い説明書をじっくり読んで機能を把握してみたいです。


涼風

静かな町

2006年10月23日 | 絵画を観て・写真を撮って


昨日は、新聞を見ると神戸方面は晴れということなので、写真を撮りに少し出かけてみました。家から歩いていける範囲は回ってきたので、電車で近くの駅へ。半日がかりで撮影旅行に行くのではなく、午前中に出てお昼には帰ってこれるぐらいの距離という目安で出かけました。

近くだけど今まで降りたことのない板宿駅という場所に降りたのですが、商店街や車が多くて、その日に自分のイメージしていた静かな場所と違い、すぐにまた電車に乗って帰ってきました。お昼には帰るつもりだったので、それからさらにどこかに行くことはせず、「今日はついてないなぁ」と思って諦めることにしました。

最寄の学園都市駅に下りて、ふと思ってそこから少し歩いてみました。学園都市駅のまわりは、たしか20年ほど前に開発されたニュータウンで、“近代的”なマンションや、新しい家が並びます。とは言っても、もうだいぶ時間も経つのかな。でもニュータウンらしく家やマンションや学校が秩序だって並んでいます。

私はこの辺りを歩いたことはなかったのですが、少し歩いてみます。ちょっと歩くと、マンションや住宅街に囲まれた、ちょっとした大きさの公園と遊歩道があり、歩いていてほっとしてきました。

私は“ニュータウン”という場所には少し違和感をもっていました。自然を切り開いて無理やりきれいに区画された街を作り上げた感じで、人間味がなく、息苦しくなるように思えたのです。

でも、昨日歩いた遊歩道は、土曜のお昼で静寂に包まれていて、ちょっといい感じでした。

歩いていると少し陽も差し、まわりの草や木や葉が色づき、写真を撮り始めました。

その後1時半ごろに家に帰って、食事をしてから机に座るつもりでしたが、歩いた疲れからか眠ってしまいました。


涼風

技術と芸術

2006年10月18日 | 絵画を観て・写真を撮って


先日、三ノ宮(神戸の中心)の旧居留地街で写真を撮っていたのですが、やはりちょっと恥ずかしい。道を人が歩いていく中で、デジカメでじっと立って撮るというのは、「この人は一体何なんだ?」という感じかもしれない。

こういう時は、物欲と絡まって、「一眼レフがあればサマになるかなぁ」とか思います。プロ仕様のカメラとかをもつと、まわりの道行く人も「おっ」と思って尊敬のまなざしを向けながらよけてくれるかもしれない。

でも、私はデジカメの性能でまだまだ知らないことがあります。きのう、デジカメ入門書を読んでいると、「広角固定レンズ」とか「望遠」とか「補正」とか、よくわからない単語が出てきて、「画素数が500万では・・・」という話に至っては(・_・)…???という感じです。

しかしその本でまず印象に残ったことの一つは、

 ・デジカメを撮るときは、胸などに固定してブレを防ぎましょう。

でした。これは実践できます。

まずは、デジカメをフルに使いこなせるようになることが先決かな?説明書を読んだり機械の機能を覚えることは結構苦痛なんですけど。


デジカメでも、思いっきり使いこなそうとすると(という程大袈裟ではないけど)、バッテリーをもう一つ欲しくなります。写真を撮っているとわりと簡単に切れるんですよね。後、メモリーカードも大容量のものが欲しくなります。

でも、これだけでも揃えようとすると、充電池は一個4000円、メモリーカードは128Mで1万円以上もしますよ。デジカメと言えど、ちゃんと使おうとするとどんどん物入りになります。フォトプリンターのインクも切れたし印刷紙もなくなったし、と考えていくとあっという間に2万円近くになりそうです(・_・)・・・


涼風

「オルセー美術館展」10・15

2006年10月16日 | 絵画を観て・写真を撮って


昨日はとても天気がよく、神戸市立博物館「オルセー美術館展」を観に行きました。

博物館に着いたのは3時過ぎか半頃。開館は5時までですが、神戸の美術展ですから、ぼくはすぐに見終わる程の量だろうと思っていました。

僕は美術についての知識は何も無く、ただヨーロッパを旅行したときに、なかば義務のように感じながら当地の美術館をちらほら回ったことがある程度です。そのときも、たしかに絵に感動することはあるのですが、同時に旅疲れで足が痛くなり、「早くコーヒーが飲みたいなぁ」とかよく思っていました。


今回の美術展は19世紀末のフランスを中心とする絵画展です。

館に入ると人がとても多いのにびっくりしました。

最初の1階のコーナー、「親密な時間」では、人物画が飾られていました。人の多さに戸惑いながらも、なんとなく絵に惹きこまれて行きました。

お母さんがゆりかごのあかちゃんを見つめている絵では、絵全体からその場のやさしさが伝わってくるようです。赤ちゃんのまわりを囲む布の繊細さや、母親がゆりかごに書ける手の優しさが伝わってきます。とてもおだやかで(ベルト・モリゾ「ゆりかご」1872年)す。

女の子が猫を抱え座っている絵では、女の子のかわいらしさと衣装の綺麗さもさることながら、猫を抱きかかえる手と体が、猫に配慮して優しく包み込むようでした。猫のやわらかさとそれに対応した人間の体の柔らかさが伝わってくるようでした(ピエール=オーギュスト・ルノワール「ジュリー・マネ」1887年)。

凛とした成人女性を真正面から描く絵もありました。体の肉付きのよさが衣服のふくらみを通して伝わり、表情は悩んでいるのか怒っているのか真剣なのかよくわかりませんが、何か真面目です。

部屋の隅っこに女性を座らせている絵もありました。隅っこなので見ていてなんだか窮屈です。しかしそれでもじっと見ていると、その隅の背景にある板や壁の色のコントラストが一つの調和を生み出し、そこに女性が座っていることも、何か当たり前の構成のようでした。

こういうように見た絵の印象を全部書いてみたいですが、さすがにそれは大変そうなのでやめておきます。

次は「Ⅱ 特別な場所」です。

人物画も面白かったのですが、私はこのコーナーのほうにより惹かれました。場所が描かれている絵を見ていると、最初はその色や構図にはっとします。そしてじっとみていると、自分が画家たちのいたまさにその場にいるような錯覚を感じることができます。

だって本当に画家は目の前にあるその風景を見てその絵を描いたのです。その絵を見る私たちが、今いる場所を離れ、その絵を描いた場にいるように感じるのも、自然のことのように思います。

暗闇の港では、月明かりの綺麗さを感じながら、暗闇の中でも活動する船や人を感じ、建物の明かりに人の存在を感じます。

のどかな川のほとりでは、昨日のようなぽかぽかしたお日様があり、多少の退屈さと気持ちよさを感じながら人は歩いています。船が動く音も聞こえてきそうです。

フランスの田舎では、きれいな空と自然に囲まれ、ゆったりとした時間と、乏しい物資と、しかしそれを当然と感じる空気があります。自然と、田舎の古ぼけ建物と、広がる空と、いい天気。

絵を見ていると、絵を見るというより、その絵を描く人たちがいる場に身を置いて、その世界を感じるようです。

そういうようにじっと見ていると、全然全部の作品を観ないうちに閉館時間が来ました。まだまだこの美術展はやっているので、また来たいと思います。


涼風


相手の呼吸

2006年10月15日 | 絵画を観て・写真を撮って


昨日、本を返しに兵庫県立図書館・明石市立図書館に行き、ついでに明石公園の中で写真を撮っていました。

写真を撮りながら思ったのは、せっかく自然と触れ合うことができる時間なのに、ぜんぜん自然を感じていないこと。

気に入った被写体があるかどうかだけを考えて、木々の呼吸とかを全然感じていなくて、何枚か写真を撮った後に、すごくもったないないことをしているように感じました。

僕は写真家という職業のことを全然知りませんが、風景写真家などは、カメラをもたずに、風景の中を歩き、その風景の空気を存分に楽しむことができる感性をもっているんじゃないでしょうか。

カメラを持たなくても時間と世界を楽しむことができるほうが、自然と一体になれて感じがして、いいですね。

カメラをもっていても、世界を被写体としてだけでなく、対等な立場で相手の呼吸を感じながら歩くことができればいいですね。


涼風

写真に罪悪感をもっている

2006年10月09日 | 絵画を観て・写真を撮って

「写真だけ撮って帰る群れ」 仏紙に邦人旅行批判 観光関係者に怒りととまどい(西日本新聞) - goo ニュース


これは典型的な西欧の日本の人への偏見だと思う。僕がドイツに留学していたときにも、こういう偏見は聞いたことがあります。

でもねぇ。観光地ではドイツの人もホントにパシャパシャ写真を撮っているのよ。


日本の人は大阪の人間はみんな商売とお金にがめついと思っているかもしれない。でもそんな日本の人も、世界中から見ればエコノミック・アニマルと言われ続けてきました。でも冷静に見れば、現代はほとんど世界中の人間が資本主義の病でお金にとりつかれています。

自分の嫌いな部分を誰かに投影したくなるんですよね。その場合なぜ大阪人・日本人が狙われたかと言うと、ヘラヘラへつらって笑うというイメージがあるからでしょうか。


いろいろな世界

2006年10月01日 | 絵画を観て・写真を撮って


家の近くの周りを歩いて写真を撮り始めたときに気づいたのは、「世の中の人は自分の家でこんなにたくさんの植物を栽培していたんだ」、ということでした。

僕は自分で花を栽培するなんていうことは小学校の理科の時間以来したことがないし、園芸店に足を踏み入れたこともありません。

でも住宅街を歩くと、多くの人がとても多くの花を栽培していて、その家の前を通る人が見える場所に花を飾っているんですね。

家の母親がこんなに熱心に花を栽培していることも知りませんでした。

新聞やテレビやインターネットのニュースで、「最近の注目の花は?」という話題が取り上げられることはありません。

大学の教養科目で、「家庭の花学」というものが開講されているという話は聞いたことがないし(植物学ではない)、「花社会学」や「花経済学」という学問があるという話も聞いたことがありません。

こんな本ありました。『しあわせをよぶ園芸社会学』

これはまったくの僕の不勉強ですが、園芸学は多くの大学で開講されているし、フラワービジネスや写真論の本は無数にありますね。

しかし、家庭を営む人の頭の中の少なからざる部分を占めているのは、「今度はどういう花を栽培しようか?」ということなのではないでしょうか?


同様に、世の中にこんなに多くの人が写真を趣味としている人がいることも、僕は気づいていませんでした。

写真の場合は、大学時代の友人が写真部に入っていたし、カメラの宣伝はよく見かけるし、「写真家」という職業があることも知っていたし、写真集という本があることも一応知っていたけど、それでも写真に関心を寄せる人々の巨大な集団があることも、本当には意識していなかったと思う。

ブログでも趣味として写真作品を公開している人が多い多い。

僕は父の買ったデジカメで写真を撮って、その画像のきれいさにびっくりしました。

でも長年趣味で写真を撮っている人の写真のきれいさてなんなんでしょ。どうしてあんなにきれいな画像を撮れるのかしら?いいカメラを使っているのか?何かテクニックがあるのか?

先日、明石市立図書館と兵庫県立図書館が中にある明石城公園を歩いていると、きれいな花がたくさん植えてある場所がありました。僕は嬉しくなってパチパチと所構わず撮っていました。

そこに、一眼レフっぽい黒い大きなカメラを抱えたおじさん二人がやってきました。彼らは脚立やらバッグやらを側に置くと、僕と同じように花の中に入っていったのですが、僕のようにはパシャパシャとは撮りません。

どの花を撮るべきかじっくり選んでいるみたいで、撮るときも体を静止させて、ファインダーを覗き込んで、じっとしています。

そのうちの一人は「ここの花は開きすぎとる」とつぶやいていました。

うーん、花びらが開いた状態がきれいだと僕は思うのだけど、彼らにとっては花びらが開きすぎているのは美しくないということなのだろうか。

とても奥深そうな世界です。



この世界には知らないことが山ほどあります。


涼風