昨日、本を返しに兵庫県立図書館・明石市立図書館に行き、ついでに明石公園の中で写真を撮っていました。
写真を撮りながら思ったのは、せっかく自然と触れ合うことができる時間なのに、ぜんぜん自然を感じていないこと。
気に入った被写体があるかどうかだけを考えて、木々の呼吸とかを全然感じていなくて、何枚か写真を撮った後に、すごくもったないないことをしているように感じました。
僕は写真家という職業のことを全然知りませんが、風景写真家などは、カメラをもたずに、風景の中を歩き、その風景の空気を存分に楽しむことができる感性をもっているんじゃないでしょうか。
カメラを持たなくても時間と世界を楽しむことができるほうが、自然と一体になれて感じがして、いいですね。
カメラをもっていても、世界を被写体としてだけでなく、対等な立場で相手の呼吸を感じながら歩くことができればいいですね。
涼風
エディと申します。
私もデジカメで写真を撮るのが好きで、
3年近く思うままに楽しく写真を撮っていました。
しかしここ数ヶ月、どうしても風景を見た時に、風景の切り取り方を考えてしまい、
できあがった写真の面は気に入ってるのに、
以前ほどの「嬉しい感じ」が薄くなってしまったように感じていました。
自分は写真を撮る資格はあるのか?と落ち込みさえしました。
だから、この「相手の呼吸」という記事を、より興味深く読ませていただきました。
写真を撮るなら、空間と一体に、自分と景色を切り離さないで撮りたいですよね。
(きっと、写真家の方にとっては、空間と撮り手との距離感は一目瞭然なのでしょうね)
私は、一種の写真を撮る事への「慣れ」が、
面の効果への過信を生じさせてしまったのではないかと考えました。
それでは、この辺で。長々と失礼しました。
更新楽しみにしています。
私は写真を撮り始めてまだ半年ほどなのですが、エディさんのおっしゃる「面の効果への過信」というのは分かる気がします。
私は、写真を撮り始めて、とにかく写真に切り取られた風景を見て、ただ感動していました。
それは、カメラの機能と写真のもつ作用にただただ感嘆するという感じです。
でもこういう段階では、カメラという機械に感動しているのであって、本当には風景を感じていないんでしょうね。
あるいは最初は風景を「感じ」ていても、カメラの機能と写真の作用に引っ張られて、風景ではなくカメラ・写真に依存してしまう感じです。
それは、紙工作にセロハンテープをペタペタ貼って作品を作る感じに似ているかもしれません。出来上がりはきれいでも、道具に依存して作っているので、自分が作った感じがしないんですね。
「きれいな写真」を撮ることが自己目的化すると、世界に感動する感覚がなくなって、表面的な出来上がりだけを見るようになる気がします。
写真を撮ることの楽しみって、どういうことなんでしょうね。
撮り始めたときは、何を撮っても感動しました。
でもそのうち、「写真」が自己目的化して、対象をちゃんと見ていない時があることに気づきました。
世界に感動して、かつ写真撮影を楽しむ。そういう境地にいたいです。