joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

受容

2007年03月04日 | reflexion

             植物の向こうにある自転車


チノパンを買いにユニクロに行きました。ユニクロでチノパンを買うのはちょうど三年ぶりです。

それにしても今日は暑い。下着にシャツにカーディガンにジャケットを着てユニクロの中にいると汗が出てきた。

サイズをあわせるために色々と試着したり、どの色にするか考えるだけでめまいがしそうにくらくらしてきました。

店員さんにはかってもらったウェストは74。しかしこのときはいつの間にかお腹をひっこめていたので、73と76をもって試着室へ。しかしこれがどっちもきつきつでとても穿いていられない。次に79も試したけどこれもキツイ。

やっと買ったチノパンのサイズはウェスト82です。かえってから3年前にユニクロで買って今も穿いているチノパンのサイズを見ると79。うーん。

何事も受け入れていくことがさとりへの第一歩です。

はじ

2007年03月03日 | reflexion


今日は恥をかいた。

ある人にあることを教えてもらっているのだけど、僕は何をしていくべきかは相手の人がその都度言ってくれるものばかりと思い、のんびり構えていました。

が、しかし、世の中そんなに甘いものではなく、本当は自分でやらないとだめなのです。自分のことだから。

まぁ、僕の依存心というのは昨日今日のことではないし、こういうミスはいつものことと言えばいつものことです。

ミスをしないことよりも、ミスを反省して少しずつ改善していくほうが僕にはあっているかな。

なにごとも個人的に受け取らないこと

2007年02月16日 | reflexion

             枯木の並ぶ砂利道


以前、四つの約束という本をレビューしました。私のこれまでのレビューの中でもたくさんの人に読んでもらっています。

これは生きる上での指針みたいなものが書かれている本ですが、その中で著者のドン・ミゲル・ルイスは、「何事も個人的に受け取らない」と述べています。

自分でレビューしておきながら、この言葉をずっと忘れていたように思います。最近他人との関係で軽くマイっていた状態なのですが、相手の人の反応が自分を責めているように感じていました。

それは責められているだけでなく、それによって自分が取るに足らない・虫ケラみたいな人間のように感じていたのだと思います。

実際に相手の人が何を考えているかは分かりませんが、少なくとも自分で自分のことを虫ケラのように思うことだけはやめておきたいと思います。

相手の人が私に対してどう思うか、どう対応するかは、相手の人の問題です。それに対して私が改善できる点は改善したいと思いますが、少なくとも私が罪悪感をもつことは二人にとってよくないことなのでしょう。どれだけ相手の人が私にイライラしていても。

私はよく他人にイライラされる方で、まぁ私にも原因はあるのでしょうけど、そのことに罪悪感はもたないほうがいいし、第一罪悪感をもっていても自分を変えることはできないでしょう。

相手が怒るのは相手の問題、と開き直るのも正しい態度だとは思いません。でも、相手の人が怒ることの原因が私にあっても、私自身が私のことを罪深い人間だと思ったり、虫ケラのような人間だと思っても、問題は解決しないのだと思います。

その人と私との関係がうまくいくかどうかは分かりませんが、相手が私にどういう態度を取っても、私が自分を悪い人間だと思うことはやめたいと思います。

「何事も個人的に受け取らない」とは、そういうことのように思います。


すっきり

2007年02月09日 | reflexion

             北野


う~、昨日は研修医うさこを見逃してしまった。小西真奈美を見たかったのに。彼女かわいすぎ。


昨日は一日大変でした。表向きは大したことなくても、ものすごい癇癪で気分は荒れまくっていた。

他人に対する憎しみ・怒り・恨み・ひがみ・羨望やらで体中が燃えまくっていた。

あー、疲れた。

不思議なのは、今朝はぐったりしつつもどこかすっきりしていること。昨日の大荒れで膿が出たのだろうか。

こういうことの繰り返しなんですかね、生きていると。

“You've done enough.”

2007年02月03日 | reflexion

             「夕日のベンチ」


『ER8』の最後で、グリーン先生に診てもらうのが好きだったホームレスの人が出てきます。そのときグリーン先生は脳腫瘍の病気で死ぬ直前にあり、もう病院には出勤していませんでした。代わりにカーター先生が診察をします。

グリーン先生を好きだったそのホームレスの人も、グリーン先生と同じように、病気で死の間近にいました。彼は意識もハッキリせず、カーター先生をグリーン先生と間違えます。

病床にいる彼が涙を流しながら言います。

“Icould be a better person. I could have done more.”(「自分はもっといい人間になれたはずだ。自分はもっと多くのことを成し遂げられたはずだ」)

側にいたカーターは、

「あなたはもう十分生きました」

と涙をうっすら流しながら応えます。


そのホームレスの人が目の前にいれば、僕もカーターと同じように「あなたはもう十分生きました」と答えると思う。本当にそう思うから。

自己攻撃とは“嘘”であり、“罪”や“罰”などはこの世には本当は存在しないと思いたい。人は“罪”の意識で苦しむ必要ないし、謝ることは、もし必要でも一度で十分なのだと思いたい。

そのホームレスの人は、自分を攻撃し続けていたのだと思います。十分すぎるほど、心の中で自分にムチを撃ち続けていたのでしょう。罪の意識で苦しみ続けていたのだと思います。

そのように罪の意識に苛まれることは、できることなら避けたい。

でも、死の間際に涙を流しながら彼が「もっといい人間になれたはずだ」と言うとき、彼はすでにいい人間なのです。「いい人間になれたはず」とか「もっと多くのことを成し遂げられたはず」と言うとき、彼は十分自分の“過ち”に気づいていたのですから。

自分の“過ち”に気づいても、それを訂正できるとは限らない。多くの人は同じ“過ち”を繰り返すものだから。

でも少なくとも彼は、自分の“過ち”に気づいていたし、できることなら自分を変えたいと望んでいました。

もう彼は、一度謝っているのです。それで本当は十分なのだと思いたいです。

だから、カーターが言うように、その人は十分生きていたのだと思います。


一段高いところから

2007年01月11日 | reflexion

             “Plants in the residental area”


中谷彰宏さんがあるところで、「人生の不条理を受け入れると、一段高いところからものを見ることができる。そうすると、今までよりもより大きな、不条理をつつみこむ新しい理を身につけることができる」と言っています。

より大きな理かどうかはわからないけど、自分の心が傷ついたときというのは、自分と同じように傷ついている人を助けることができるということだと思う。

だから、たくさん傷ついている人は、それだけたくさん人を助けることができる。

たぶんこのことは、たくさん傷ついている人が他の人よりエラいということを意味しているんじゃないと思う。

ただ、たくさん傷ついた人には、それだけより多くの人を助けるチャンスを与えられていますよ、ということなのでしょう。

イエスやブッダは、彼らができることをしただけなのかもしれない。だからと言って他の人がイエスやブッダより劣っているわけではないけど、ただ自分に与えられたチャンスを生かしきったという意味で、イエスやブッダという人たちは素晴らしい人だったのだと思います。

傷つくということは、それだけ自分がどういう点で他の人を助けることができるか、はっきりすることかもしれない。

どれだけ傷ついても、自分を傷つけた敵や権威へ復讐することはできないし、できたとしても、それで傷が癒されることはない。

ただ、その敵や権威がどれだけ大きいように思えても、自分と同じように傷つけられている人を助けることは、できるのかもしれない。

権威や“敵”に歯向かっていても、それを追い払うことはできない。でも、同じように傷つけられた人を助けることができるのなら、それは“権威”や“敵”という幻想を剥がし、癒しにつながるように思います。


涼風

Geben ist Aufnehmen.

2007年01月09日 | reflexion

             “White flower”


今日は見事に白く晴れている。団地も家も自動車もみんな白く見える。

ある人が、何かが欲しくて苦しいときは、それを他人に与えると楽になれます、と教えてくれたことがある。

そのときは「そういうことを言われてもなぁ」と実感が湧かなかったけど、今朝はなんとなく分かる気もする。恥ずかしくもなるけど、もっと分かる気になりたいなぁ。


涼風

ぼくはおじさん

2006年12月20日 | reflexion
             “White Flower in the Fallen Leaves”

最近購入した靴を買うとき、自分の無意識のうちに、「もうデザインなんてどうでもいいやぁ。とにかく履きやすく・歩きやすい靴が欲しい」と思いました。

でも、それは自分の本意ではなかったと思う。

ぼくも、本当ならカッコいい靴を履いて、かっこよくなりたいのだ。

しかし、やはり靴のように毎日のように使う生活必需品を買うときは、使いやすく・丈夫なものを買わなければいけないという思い込みが買ってしまうようです。

結局、店員さんに「これはあれよりも長持ちします」と言われた靴を買いました。

でも、その新しい靴を履いていても、いい気分がしない。なんだか履いていておっさんぽい。


でも、年齢を考えれば、ぼくはおじさんなのだ。

いや、年齢を考えなくても、ぼくは元々おじさんだったのではないかと思う。子供の頃からおじさんだったように思う。

なんというか、感覚がおじんっぽいのだ。

人には、生まれつき爽やかな少年として生れてくる人や、可憐な少女として生れてくる人や、色気のある女として生れてくる人や、おっちゃん・おばちゃんとして生れてくる人がいるのではないだろうか。

ぼくはおじさんとして生れてきたのかもしれない。

年齢がやっと僕に追いついてきたのだ。


(ところで、爽やかな少年や色気のある女がおっちゃん・おばちゃんへと変貌していく例は多々あるだろうけど、子供の頃はおっちゃん・おばちゃんくさかったのに、爽やかなハンサムボーイや色気のある女へと変貌していく例というのはあるのだろうか?)


涼風

What's love?

2006年11月12日 | reflexion


ブルブルッと今日の朝は寒い。電気ストーブを点けてしまう。


先日あるお話をある50代くらいの男の人から聴きました。

恋愛というのは、最初はポーっとしている状態。相手のすべてがいいように見えてしまう状態。これは一種の病気の状態だそうです。絶対現実とは違う。

それが、恋愛が続いたり結婚したりすると、絶対に相手のすべてが嫌いになる時がやってくるそうです。「こういう人とだけは結婚したくなかった」という感じですね。想像だけど。

で、“愛”というのは、その状態のときに初めて始まる状態なんだそうです。

“恋”というのは浮かれている状態。「ロマンス」でウキウキ・ハッピーな状態ですね。恋愛の最初の一ヶ月くらいの状態だとよく言いますね。

それに対して、“愛”というのは「ロマンス」の段階が終って、「相手のすべてが嫌い」と思い始めたときに、初めて出せるものなんだそうです。

つまり、「相手のすべてが嫌い」だけど、それでも相手を大切にするぞ、という態度ですね。

そう言えば遠藤周作も同じようなことを言っていたなぁ。遠藤によれば、結婚というのは、相手に対して恋愛感情も持たず、相手のことを好きでもなんでもなくなったとき、それでも相手のことを大切にしようと思うことだ、だそうです。


こういう話を聞いて僕がなんとなく思ったのは、親子関係というのも、こういうものかもしれない。

たしかに多くの親は子育てが下手で、知らず知らずのうちに子供をたくさん傷つけているのかもしれない。親自身も、子供に対して配慮するだけの注意力が散漫になりがちで、自分勝手な態度を子供にとっているのかもしれなし、子供に嫌悪感を感じているのかもしれない。

それでも多くの親は、子供のことを嫌いになりながらも、家に置き、食事を与え、大人になるまで一緒に暮らし、育てようとしている。たしかに理想の状態からすれば100%完璧なマザー・テレサのような愛情(と言っても僕はマザー・テレサのことをよく知らないけど)を多くの親は与えていないかもしれない。それでも、子供に嫌悪感を感じていても、「それでも」子供と一緒に暮らし、食事を与え、多くのことをしようとしている。

そのとき、親は赤ちゃんに対するような嬉しい感情はもう子供に対して持っていないかもしれない。自分の思うような人間に育たない子供にイライラしているかもしれない(子供は、親の望むような人間にではなく、親のような人間になる)。しかしどれだけイライラしても、一緒に暮らして育てようとする忍耐力を多くの親はもっている。

どれだけ嫌っても一緒にいようという“コミット”を、多くの親はしているのだ。それは、「相手のすべてのことが嫌い」でも結婚を続けようとするときに生じる“愛”と同じようなものかもしれない。


では、育てることすら放棄する親に対して子供はどう考えればいいだろう?

たとえ育てることはできなくとも、出産という難事業にはすべての親が耐えています。


涼風

冷たい秋

2006年11月08日 | reflexion


今朝も寒い。朝起きて、ご飯を食べ、部屋の掃除をしました。机や本棚の裏にたまった埃を掃除機で吸い取ります。その際には、机を動かします。一人で動かすので、机の下に入って、背中で机を持ち上げて移動します。

掃除をした後は、絨毯を敷きます。これを敷く際にも、机の下まで絨毯を伸ばすため、頭と背中で机を持ち上げ、そのすきに絨毯をささっとしのばせます。

そうやって体を動かしていると、体が温まりました。


昨日の夕方に外を歩いていると、風が吹きすさび、木の葉が舞い(という気がした)、顔に冷たい風があたって、胸がきゅぅ~っとなるような寂しさを味わいました。

空はあっという間に暗くなるし、暗くなる前から世界が薄暗くなっているし、夕日の光も冷たく突き刺すように体に当たってきます。

駅のホームに立つと高校生の群れがいたりして、余計に嫌な感情になりました。中学生や高校生の頃を思い出したのかな。暗い秋の夕暮れというのは、中学校の三者面談や、嫌な部活動を思い出すのかな。


夜に人と会っていろいろと面白い話を聞きました。

その中でぐさっときた言葉の一つは、あることに嫉妬していたり、他人がそれを得たことを喜んでいなかったりすると、自分はそれを手にいれらないよ、ということ。

これは本当にそうかも。自分の中で強く欲しい欲しいと思っているものほど、他人がそれを得ると嫉妬したり、心の中で陰口を言ったりしている。

そういうことをしているから自分の中にそれが入ってこないとも言えるし、そうやって他人に嫉妬するようなことはそもそも自分には必要ないともいえるのだろうか。

こういう話を聞いたから、明日から自分は欲しいものを手に入れられるようになるのかどうかは分かりません。でも、なぜ自分が欲しいものが自分には手に入らないのかが腑に落ちて、少しすっきりしました。


涼風


今のほうがラク

2006年10月06日 | reflexion



最近は、明方4時、5時ごろによく目が覚めます。お腹が減っていることが多く、水と一緒にテーブルにある菓子パンなどをむしゃむしゃ食べたりしています。

私はよく夢を見ることが多いのですが、今日は父親と母親についての夢を、立て続けに見ました。子供の頃に感じていたような両親への不満が夢の中でものすごい感情として私の中から吹き出たような夢で、日中起きているときよりも体力と神経を使ったように疲れました。

自分は両親のことが好きで、あまり両親との葛藤を最近は感じていなかったのですが、自分の心の深層にはいろいろな感情があるんだなと思わされました。


涼風

ひとつ謎がとける

2006年10月03日 | reflexion



今日はとても寝覚めのいい朝でした。すっきり、という感じです。

神田橋條治さんによると、いい睡眠をとったかどうかを測る目安は、夢を見たかどうか、どんな夢を見たかではなく、一番重要なのは寝覚めのときの気持ちよさなんだそうです(『精神科養生のコツ』)。


朝食を食べ、食器を洗い、また自動食器洗い機に食器を入れ、仏壇のお水を替えます。

机に座り、3年ほど前に友人に言われた言葉を考え、どうしてその言葉がいつまでも気になり、ときにはその友人に腹が立つのかを考えてみました。

その言葉の内容は恥ずかしくて言えないですが、ようするに自分はその人に私自身や私自身の人生を“正しい”と言って欲しかったのですが、彼からはそういった承認をえられなかったので失望していたようです。

もちろん彼はべつに私のことをどうこう言うつもりなどなかったのですが、私自身が神経過敏になって、必死になって他人に自分のことを認めてもらいたかったんですね。だからこそ、ちょっとした人の言動が私自身を卑下しているように感じたみたいです。

そもそも、他の人が私の“人生”のことをどうこう考えて、私の気持ちを配慮してくれるなんていうことは、彼はカウンセラーでもないのに、普通では考えられないことです。

ひとつ謎が解けたような感じでした。


涼風

気分

2006年09月04日 | reflexion


幸せな気分を得ようとすると、不幸になると言われます。

幸せな気分とは、たとえば急に眼前で青い空が晴れ渡るような感じ。穏やかで希望に満ち、この世界がわくわくしたものに感じられる感じ。

そのようないい気分を必死にわたし(たち)は追い求めます。

でも、そういう“いい気分”は続かないことを、わたし(たち)はどこかで知っているように思う。

“いい気分”を維持しようとしているうちに、今度は“わるい気分”にはまり込みます。

“いい気分”も“わるい気分”も、気分は気分でしかないのですが。


涼風

時間

2006年08月12日 | reflexion



恐怖は、ほとんどの場合、見えない将来についてのものですね。

将来どうなるかわからないことへの恐怖。

よく言われるように、“今、ここ”にいると恐怖はありません。

将来への恐怖というのは、時間が進むことの恐怖とも言えるかもしれません。

将来何が自分の人生にやってくるかわからない。もし時間をストップさせることができれば、安全な“今”にい続けることができるけれど、もちろんそんなことはできない。

動くエスカレーターのように、時間は進んでいきますね。それを止めることはできません。

将来がどうなるかは分からないけど、“時間”というもの、“時間が進むこと”、とりあえずそれは変えようがないのだし、変えられないなら、それと上手く付き合って生きたいし、好きになれればいいですね。


涼風

behind envy

2006年08月01日 | reflexion

僕は人一倍他人の成功を妬む性格なのだけど、この傾向はどこから来ているのだろう?

他人の成功の朗報は、聞く人にショックを与えることがある。聞く人は、自分が欲しいと思っていたものを他人が得ることで、“それ”が永遠に自分の手には届かないところに行ったように感じる。また彼は、“それ”を得ているかどうかで、人生はまったく違うと考えている。

なぜこのような極端な思い込みを僕や人はもつのか?

他人が“それ”をもつと、自分には“それ”がないことが意識され、自分には何もないように思えてくる。自分は無色透明か、それよりも小さいものだと思えてくる。さらに、“それ”を得られなかったことが自分の人生最大の失敗に感じられる。

あれかこれかで自分の人生を考えている。

妬み・羨望をもつ人物というのは、尊敬すべき人のイメージからはもっとも遠い。誰もそういう人間にはおそらくなりたくない。しかし多くの人はおそらくその感情をもっている。

いずれにしても妬み・羨望は、自分の中にまちがった思い込みがあることを示している。間違っていると頭では分かっても、私たちはそれからなかなか逃れられない。

「ねたみに伴う痛みは、体の痛みのようなもので、人の活動を止め、異常を知らせる役目をします。この場合の異常とは、近くのものがよく見えなくなっていることをいいます。
 ねたみとは『心の遠視』なのです。一番近い所が見えない。自分の人生に必要なものや価値あるものが、目に入らないのです」(トマス・ムーア『失われた心 生かされる心』126頁)。

トマス・ムーアは、ねたみは、それ自体はたしかに心に痛みをもたらすが、じつは妬みのような神経症は、「運命の根本的な現実を知ったときのさらに大きな痛みから、『心』を守るためのもの」と指摘しています。

例えば、過去に惨めな境遇に接していたとき、その惨めさに直面する勇気をもてなかった人は、自分の惨めさ・虚無感を直視する代わりに、有形無形の“モノ”を得ることに希望を見出し、それらを実際に得ている人への羨望・敵視の視点をもつようになります。

「時として願望は『心』を圧迫し、つらい虚無感から逃れようと、非現実的で浅はかな可能性へと目を向けさせます」。その際に羨望の念を持つ人に欠けているのは、例えば「自分のみじめさと空しさを感じる能力」だとムーアは言います。


僕が他人に羨望の念をもつとき、僕は何から目をそらそうとしているのだろう?


涼風