「ぼくは二十歳だった。それがいちばん美しい歳だとは誰にも言わせない」。
この言葉を初めて知ったのは、やはり二十歳の頃だったろうか。今ではそれも、記憶の彼方へと押しやってしまっている。
それでも当時は、この言葉、結構胸に響いたものだった。
ポール・ニザンの小説、「アデン・アラビア」の出だしのフレーズだと知ったのは、それからずっと後のことだ。
でも、あの頃は、「そうだ、うん、確かにそうだ」と頷き、そこにあった若さゆえの絶望だとか、猛烈な自意識だとか、持て余し気味の肉体だとか、将来への漠然たる不安だとか、そんなものが凄まじい回転で渦巻いていて、二十歳を過ぎたら人生なんて降りたも同然だなんて、友人とうそぶいていたのである。
そんな僕も、もうこんなに遠くまで来てしまった・・・。
あの頃、いい加減で適当で、どうしようもない若造だったけれど、未来への不安とおんなじくらい大きな、確信のない自信に満ち溢れていたように思う。
自信過剰で、「必ず世に出てやる」、「サラリーマンなんかには絶対にならねえぞ」と、組織の中で生きている人間たちを心底軽蔑し、いつか映画を撮り、小説を書き、有名になってやると生意気にも意気込んでいたのである。
馬鹿につける薬はないというのは本当らしい。
僕は今、しがないサラリーマンで、しかも、世にも出られずに萎(しな)びている。
そして僕はこうして部屋に独り籠り、ジェイク・バグのセカンド・アルバム「Shangri La」を聴いている。
外は静かな冬の夜。
今年もまた終わろうとしている。
十九歳。
ジェイク・バグは、まだ十九歳なのだ。
それが、こんなアルバムを世に送り出せる才能と力を持っている。凄いと思う。
僕はジェイク・バグのセカンド・アルバム「Shangri La」を聴きながら、二十歳になった辺りの事をふと想い出している。
別に何かの事件に遭遇したとか、特別な何かがその辺りで起こったとか、そういう事じゃない。
どうでもいいような、平凡な一日の下らない出来事の断片だ。
友人が住んでいた高円寺のアパートで一緒に酒を飲み、そこから近くの居酒屋へと繰り出し、べろんべろんに酔っぱらい、中央線のガード下の道路をふざけ合いながら走ったという、そんな馬鹿げた、薄っぺらな記憶なのだ。
笑い転げて互いの服を引っ張りあい、「俺たち、もう二十歳になるんだ! もう、人生なんて何もないんだ! もうオヤジなんだ、十代の青春は終わっちまったんだぁ!」と大声で叫んだことを、ジェイク・バグの「Shangri La」を聴いていたら何故か鮮明に想い出してしまったのだ。
あの頃、毎日のように映画館に通い詰め、毎日のように音楽を聴き狂い、毎日のようにガールフレンドと遊び廻っていた。
東京の街は限りなく優しくて、それと同じくらいに残酷で、毎日は耐えられないほど日曜日だった。
ジェイク・バグの歌声は、ハリがあって、そして瑞々しさに満ち溢れている。
イギリスからアメリカに渡り、新たにジャック・ルービンがプロデュースを担ったセカンド・アルバム「Shangri La」に、若さゆえの過剰とか先鋭さはない。
しかし、そこにあるのは恐ろしいほどの円熟度と完成度だ。
「ロッキング・オン」で、音楽評論家の粉川しの氏(編集長)は「10代最後の、そして永遠の傑作」と大絶賛していたけれど、それは少し過剰反応かもしれない・・・。
僕はもう、あの高円寺時代へとは戻れない。
二十歳なんだ、もう人生なんて何もないんだと叫び、もうオヤジなんだ、十代の青春は終わっちまったんだぁと大声で喚(わめ)いた僕は、何故かまだこうしてここにいる。
確かに人生なんて何もなく、青春なんて跡形もなく吹き飛んでしまった。
ジェイク・バグが羨ましい。まだまだ彼にはタップリと時間が残っている。まだまだ彼の未来は輝いている。
でもなあ。
たぶん、まだまだいっぱい残ってる未来の時間のことなんて、ジェイク・バグでさえ、ちゃん と気づいていないんだろうなあ。無自覚なんだろうなあ。
それはそれで仕方がない。
あとになって初めて気づくのだから。
だって、それが若さなんだもん。
この言葉を初めて知ったのは、やはり二十歳の頃だったろうか。今ではそれも、記憶の彼方へと押しやってしまっている。
それでも当時は、この言葉、結構胸に響いたものだった。
ポール・ニザンの小説、「アデン・アラビア」の出だしのフレーズだと知ったのは、それからずっと後のことだ。
でも、あの頃は、「そうだ、うん、確かにそうだ」と頷き、そこにあった若さゆえの絶望だとか、猛烈な自意識だとか、持て余し気味の肉体だとか、将来への漠然たる不安だとか、そんなものが凄まじい回転で渦巻いていて、二十歳を過ぎたら人生なんて降りたも同然だなんて、友人とうそぶいていたのである。
そんな僕も、もうこんなに遠くまで来てしまった・・・。
あの頃、いい加減で適当で、どうしようもない若造だったけれど、未来への不安とおんなじくらい大きな、確信のない自信に満ち溢れていたように思う。
自信過剰で、「必ず世に出てやる」、「サラリーマンなんかには絶対にならねえぞ」と、組織の中で生きている人間たちを心底軽蔑し、いつか映画を撮り、小説を書き、有名になってやると生意気にも意気込んでいたのである。
馬鹿につける薬はないというのは本当らしい。
僕は今、しがないサラリーマンで、しかも、世にも出られずに萎(しな)びている。
そして僕はこうして部屋に独り籠り、ジェイク・バグのセカンド・アルバム「Shangri La」を聴いている。
外は静かな冬の夜。
今年もまた終わろうとしている。
十九歳。
ジェイク・バグは、まだ十九歳なのだ。
それが、こんなアルバムを世に送り出せる才能と力を持っている。凄いと思う。
僕はジェイク・バグのセカンド・アルバム「Shangri La」を聴きながら、二十歳になった辺りの事をふと想い出している。
別に何かの事件に遭遇したとか、特別な何かがその辺りで起こったとか、そういう事じゃない。
どうでもいいような、平凡な一日の下らない出来事の断片だ。
友人が住んでいた高円寺のアパートで一緒に酒を飲み、そこから近くの居酒屋へと繰り出し、べろんべろんに酔っぱらい、中央線のガード下の道路をふざけ合いながら走ったという、そんな馬鹿げた、薄っぺらな記憶なのだ。
笑い転げて互いの服を引っ張りあい、「俺たち、もう二十歳になるんだ! もう、人生なんて何もないんだ! もうオヤジなんだ、十代の青春は終わっちまったんだぁ!」と大声で叫んだことを、ジェイク・バグの「Shangri La」を聴いていたら何故か鮮明に想い出してしまったのだ。
あの頃、毎日のように映画館に通い詰め、毎日のように音楽を聴き狂い、毎日のようにガールフレンドと遊び廻っていた。
東京の街は限りなく優しくて、それと同じくらいに残酷で、毎日は耐えられないほど日曜日だった。
ジェイク・バグの歌声は、ハリがあって、そして瑞々しさに満ち溢れている。
イギリスからアメリカに渡り、新たにジャック・ルービンがプロデュースを担ったセカンド・アルバム「Shangri La」に、若さゆえの過剰とか先鋭さはない。
しかし、そこにあるのは恐ろしいほどの円熟度と完成度だ。
「ロッキング・オン」で、音楽評論家の粉川しの氏(編集長)は「10代最後の、そして永遠の傑作」と大絶賛していたけれど、それは少し過剰反応かもしれない・・・。
僕はもう、あの高円寺時代へとは戻れない。
二十歳なんだ、もう人生なんて何もないんだと叫び、もうオヤジなんだ、十代の青春は終わっちまったんだぁと大声で喚(わめ)いた僕は、何故かまだこうしてここにいる。
確かに人生なんて何もなく、青春なんて跡形もなく吹き飛んでしまった。
ジェイク・バグが羨ましい。まだまだ彼にはタップリと時間が残っている。まだまだ彼の未来は輝いている。
でもなあ。
たぶん、まだまだいっぱい残ってる未来の時間のことなんて、ジェイク・バグでさえ、ちゃん と気づいていないんだろうなあ。無自覚なんだろうなあ。
それはそれで仕方がない。
あとになって初めて気づくのだから。
だって、それが若さなんだもん。