うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

いわかん

2016年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム

毎年この時期は東京味わいフェスタというのをやっていて、屋台が並ぶ。屋台で食べることはあまりしないが、以前は行幸のところで花の鉢植えを売っていたので、何年か続けてそれを買ったりしていた。

金曜日の昼には屋台が始まっていたが、夜は少し遅くまで残っていて、オフィスを出るのが遅くなった。そのときはまだいくつかの屋台が営業していたが、銀行に寄って戻る頃には、みんな片づけをはじめていた。花の販売がされていたかどうかもわからない。

それにしても、金曜日はお天気がなんとかもったが、土曜日はまた大雨で、この種のイベントをやるには、今年はたいへんな年になったな。

 

オフィスを出るのが遅くなったのは、仕事もあるが、同僚が金曜日で退職した影響、ということもある。それも、直接本人との仕事がらみ、ということでもない。前日、木曜日には上司と、金曜日は別の同僚と、その退職した同僚やらなにやらを話題に長話をしてしまったのだ。

退職する同僚は典型的な体育会系の男で、また、自己認識と周りの評価にちょっとギャップのある人でもあった。そういうことが特に目立たない組織も多いと思うが、ここは完全な女性社会(それも、だんだんにそうなっていった)であり、本人も周りも随分と違和感を感じる場面が多かったと思う。

よくあることであり、それほど気に留めるようなことでもない。多少高飛車でも、ごまかす癖があっても、世間常識を逸脱していたわけではない。それに、この人と今後仕事をすることも、また会うことも多分ないだろう。気持ちよく挨拶して別れればいいだけの話だ。

ただ、木曜日に上司と話をしたときは、話は別の方に流れていった。あの時彼は何を言ったとか、どういう話に敏感になるか、どんなときに自分とは違う感覚の持ち主だと思ったか、どんな家族自慢、家の自慢をするか、みたいな話が延々と続いてしまった。上司も話したし、僕も話した。ずいぶんと長く話していたと思う。

しかし・・。このときの話は、時間がたつとどうも後味が良くなく思えるようになってきた。落ち着いて考えるまでもなく、欠点のない人間などいない。もし、欠点がなく、どんな人が接しても好感をもたれるような態度の人がいたら、それ自体が大きな欠点といえるはずだ。まず、裏になにかあると考えて間違いないだろう。

どこかの大統領候補(のいっぽう)だって、欠点だらけなように思えるが、却ってそれが親しみを感じさせる、と思う人もいるのだろう。逆に知識や経験、対応にもそつがない別の候補は、それがゆえに「鼻もちならない」などと思う人もいる。

翌日、別の同僚と話をした。本人も色々大変だったのだろう、みたいな事を話したが、話題としてはそう長続きはしなかった。まあ、そういうものかもしれない。

ただし、僕はこのとき、この組織がだんだんと、窮屈なものになっているね、ということも話した。人が少しずつ入れ替わっていき、だんだんと組織がひとつの色に染まってきて、異端(一般にはとてもそうはいえないレベルだが)のひとの影が薄くなってくる。というより、自分たちと少しでも違う色合いの人がいると、それを肴にあれこれいじりまくる。

別に、だれが悪いと言っているわけではない。それどころか、自分自身がそういった流れのなかの一員ですらある。その責めを逃れるつもりはない。

ひとつ思うのは、この風潮はいま目の前にある組織(吹けば飛ぶような小さな組織だが)だけではなく、社会全体がそうなりつつあるのかもしれない、ということだ。

毎週小田嶋氏のコラムを引き合いに出すのはいささか気が引けるが、今週は透析患者を批判したフリーアナウンサーの騒動に触れており、例によってたくさんのコメントが寄せられている(この騒動、僕は知らなかったし、騒動の張本人の方の名前も初めて知った)。今回触れたいのはコラムそのものではなく、寄せられた読者からのコメントのひとつだ。

コメント文をそっくり引用するのはどんなものかと思うので、要旨を書くが、この方は大学の教員で、学生たちを見ていると、将来への不安からか、自分より弱いものを容赦なく排除しようとする傾向が強まっているようだ、という。中流家庭に育ち、成績も中くらいの学生に多い。確実に勝てると思う弱者を貶める。それで安心するかというと、かえって不安が増し、負のスパイラルに陥る。故に現状維持姿勢が強い。根源には未来への悲観がある。。というもの。

この方は、ネットは暴言の嵐だ、とも書いている。暴言が暴言を呼び、やがてそれが普通のことになってしまう。たぶん、インターネットは人々の倫理観も少しずつ変えていくのだろう。

こういうことも考えたりする。 素晴らしい未来は期待薄だが、今が最悪なわけでもない。何かを変えると、むしろ今より悪くなってしまうかもしれないし、自分にも咎が及ぶこともあるだろう。だから、とりあえずほかに理由をつける。みんなが批判できる先として「共有」できる人をスケープゴートにする。

現実はそう単純ではない。僕も上司も、そのときはついそういう話をしてしまったが、もちろん、いつもそんなことを考えているわけではない(とおもう)。曲がりなりにも、現実を少しでも変えようとしているつもりだ。ただ、社会の傾向というのは、現場にいるとみずからそれを意識することは難しい。この現状で、なんとか器用にうまく立ち回っている人たちなどは、とくにそうだろう。

その意味では、僕がなんだか窮屈、と思うのは、現状のメインストリームをいささか外れているから、そう感じた、ということなのかもしれないな。。

 

 

コメント
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