60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

文圧縮つまり速聴

2006-09-20 22:45:36 | 歳をとれば

 図はR.L.ウェストの文圧縮テストの実験結果です。
 文圧縮というのは、日本で言う速聴のことで、ふつうに話された文章を圧縮して短い時間で聞かせることです。
 テープにとった朗読などを、倍のスピードで再生すれば、半分の時間になるので文の密度を2倍にしたことになります。
 ただテープのスピードを2倍にしたのでは高音化してしまうので、周波数を調整するプログラムを使って再生します。
 この実験は若年者と老齢者の理解度を比較しようとしたものですが、老齢者は平均的な老齢者と、教育歴の長い健康な老齢者に分けています。

 三群ともに文の圧縮率(再生スピード)が上がるにつれ、聞いた文内容から想起されるものの量が減ってきています。
 若者と教育歴の長い健康老人とでは、圧縮率が低い段階では成績が変わらないけれども、再生スピードが上がると差がかなり開いています。
 これは脳の活動の違いであって、教育歴の長い健康老人は補助的に脳のほかの部分を使ったり、経験によるテクニックで補っているのが、スピードが速くなると追いつかなくなるためだとしています。
 
 基本的には若年者のほうが聴力そのものが優れているので、単純に単語がが聞き分けられると同時に、記憶力も優れているので文内容の再生率が高いのでしょう。
 老齢者の場合は、聴力は衰えているので、文内容を理解することによって無意味記憶ではなく、文脈などから再生しようとするのが、スピードが速くなると内容理解が難しくなるのでしょう。
 そうすると、若者の場合は高齢者と同じように文内容の理解により、文脈からの再生を補助として使えば、さらに文内容の再生率は高まることになります。
 
 この例から予測されるのは、訓練をすればより速いスピードの音声を理解できるであろうということです。
 速いスピードで音声を聞くことに慣れると、単語が把握しやすくなり、単語が把握できれば内容が理解しやすくなり、そのことによってまた単語が把握しやすくなるといったことが考えられるからです。
 アメリカでも速聴の効果というのを認める場合があり、速聴が出来ると話を聞くとき、聞き取りに余裕が出来るのでメモを取りやすくなり、講義などを理解しやすくなるとしています。
 日本では、速聴によって神秘的な能力が得られるようになると主張する場合があるので不信感がありますが、聴くことによって集中力が鍛えられるので、速聴自体は有用な訓練だと思います。


脳を鍛えるために読むのか

2006-09-19 22:47:29 | 文字を読む

 図は川島竜太「脳を育て、夢をかなえる」からのものです。
 左は大学生が日本語の文章を黙読しているときの脳の活動状況を示しているものだそうです。
 どのような学生がどのような文章を読んだのかは不明ですが、文章を読むというのはいくつもの作業が組み合わさった複雑な作業なので脳の広範囲の領域が活性化していることが分かります。
 文字や単語を見て形を判断し、心の中で音声化して記憶と照合し、意味を想いだし、短期的に記憶し、次の単語に進み、単語の組み合わせから文章の意味を把握するといったことを繰り返すので脳が忙しく働くのです。
 文字を読むと脳が広い範囲で活性化するというのですが、文章を呼んで理解するには脳の多くの領域を使わなければならないということです。
 
 普通に考えると、読書能力というのは個人差が大きく、また日本語の文章というのも難易度は千差万別なので、脳の活動状況はかなり違うだろうと予想されます。
 黙読というのはどのように読んでいるかは外部からは分からないので、音読をしてもらえば個人差とか読み方による差が分かると考えられます。
 音読をした場合は声を出すだけでなく、その声を耳で聞くことになるので、黙読よりさらに広い範囲で脳が活性化するのですが、そうしたことはとりあえず差し置いて、読み方の差による変化がわかっています。
 この本では、音読のスピードが上がると脳、とくに前頭葉の活性化が顕著になるので、早く音読すれば前頭葉が鍛えられるとしています。

 岩田一樹「日本語音読時の脳活動」という研究では、老年者30名を対象に音読をしたときのスピードと前頭葉の活性化の関係を調べています。
 この結果では、音読スピードの速い人つまりスムーズに音読できる人のほうが脳血流の上昇が少ない、つまり活性化していなかったのです。
 つまり、音読をして前頭葉が顕著に活性化するのは読むことが不得意の人で、音読を実行するのに努力を要するほど前頭葉を活性化しなければならないということです。
 一般的には無理をして速く読むと意味が分からなくなりますから、音読スピードの速い人もスピードを挙げれば脳血流が上昇する、つまり脳が活性化するでしょう。
 そうなると、脳を鍛えるために速く音読するというのが妥当かどうか疑わしいところです。

 右の図は意味のない文章を読んだときの脳の状態で、普通にもくどくしているときと同じように脳は活性化しているとしています。
 普通に考えれば、無意味な文章を読んでも何の役にも立たないのですが、脳は活性化しているので脳の鍛錬にはなると主張されています。
 本当に鍛錬されているという証明はもちろんないのですが、脳血流が増加していることイコール価値があるという前提があるようです。
 ただ無意味文章はスピードを上げて読んでも前頭葉はさらに活性化するということはないそうですが、分からないものはスピードを上げて読んでもさらにわからなくなるといったことがないからかもしれません。
 
 


乳児の言語理解

2006-09-18 22:29:58 | 視角と判断

 図はイタリアでの実験で、生後5日以内の新生児に母国語を聞かせたときの脳の活動状況を、NIRSで画像化したものだそうです。
 母国語を聞かせたときは左側頭葉がくっきりと活性化しているのに対し、テープを逆回しにして聞かせた場合は弱い活動になっています。
 このことからこの調査では二つの可能性が考えられるとしています。
 第一は新生児が胎内で母国語のイントネーションとかリズムを聞いていて、言葉は分からなくても類似刺激の母国語に反応したのではないかというものです。
 第二は、新生児には人間の言語を受け入れる生得的なものが備わっていて、普通の会話には反応するが、テープの逆回しのように言語としての体をなしていない刺激にはあまり反応しないというものです。

 似たような実験は以前フランスでも行われて、この場合は最初にオランダ語のテープを聞かせ最初は興味を示すのに、なれてきて興味を示さなくなった後、日本語のテープを聞かせると再び興味を示して聞くようになったということです。
 そしてテープを逆向きに再生したときはこのような効果は示さなかったといいます。
 この場合は、母国語でなくても人間の言語には反応しているということなので、乳児は生得的に言語に反応する神経回路を持っていると結論したくなります。

 ところがマーク.ハウザーという生物学者の実験で、南米のタマリンという小型のサルは、人間の乳児と同じ反応をしたというのです。
 このサルは人間の乳児と同じようにオランダ語や日本語には耳を傾けたのにテープの逆回しには反応しなかったというのです。
 そうすると、サルには言語能力はないのですから、乳児の反応も言語に対する反応ではなく別の要因だったのではないかと思われます。

 牛の乳を搾るとき牛に話しかけると良いという話がありますが、音楽を聞かせても良いという話もあり、植物も話しかけたり、音楽を聞かせたら発育が良かったといった例もあります。
 言語というより、音楽も含めて音によるある種の空気の振動が動物や植物に何らかの影響を与えるということかもしれません。
 
 イタリアの実験は他の国の言語を使ったものがないので、母国語を聞いたときの反応は特別なのかどうかは分かりません。
 脳の活動状況を視覚化して示されて、解釈を示されるとそんなものカナと思いますが、サルを使った実験や、牛への話しかけなどの例を知れば、解釈は他にもあるんではないかと考えさせられます。
 テープの逆回しにしても、英語の逆回しはロシア語に似ていたり、日本語の逆回しが中国語に似た感じがしたりするので、その場合はどうなのでしょう。
 普通の朗読を聞かせる場合でも機械を使った音声(ロボット読み)にはどんな反応かといった実験をすれば、言語に反応しているのかどうかハッキリするかもしれません。


りんごの皮むきでも脳は活性化

2006-09-17 22:38:51 | 視角と判断

 図は食品総合研究所で行った「りんごの皮むきに伴う脳活動の計測結果」です。
 りんごの皮むきをしているときの大脳皮質の活性化パターンを近赤外分光分析法(NIRS)によって調べたものだそうです。
 刃物の動きに注意を向けながらりんごを微妙に動かすという複雑な作業で、左脳、右脳の前頭前野が広い範囲にわたって活性化していることが分かります。
 この研究はりんごの皮むきのような実際の食生活の行動で、脳がどのように活動しているかを調べたものです。
 したがって、この調査の結果によって「りんごの皮むきが脳機能の向上に役立つ」というふうな短絡的な解釈はすべきではないとしています。
 ある作業によって、脳の特定の部分が活性化されたといってもどのような機能がどのような因果関係によって活動しているかは分からない上に、活性化したからといって特定の機能が質的に向上したとはいえないからです。
 この調査はまともな研究なので、脳を鍛えるためにりんごの皮むきをすべきだなどと乱暴なことは言うべきでないとしているのです。

 簡単な計算や音読をしているとき、前頭前野が活性化しているということから、計算や音読をすれば脳が鍛えられると考えられるようになっています。
 ところが脳の活動状況を測る方法が普及するにつれ、いろんな作業について脳が活性化することが分かってきています。
 そうすると会話をするとか、旅行をするとか、料理をするとかいろんな生活行動が脳を活性化するということが分かりました。
 つまり計算や音読のときだけ脳が使われるわけではないのです。
 これは考えてみれば当然のことで、脳は何のためにあるかといえば人間が生きていく活動をするためにあるからです。
 脳を活性化するために音読をしたり料理をするというのはサカサマの考えです。

 英語を使っているとき、中学生と大学生の脳の活動状況を比べた場合、中学生のほうの脳が活性化しているというデータがあります。
 未熟なうちは脳をフルに使わなければ作業できないけれども、熟練してくれば自動的に出来る部分が増えるので、エネルギーをあまり使わずにすむということのようです。
 そろばん等でも熟達したひとがそろばんを使っているときは脳があまり活性化しないのに、ほとんどやったことのないひとが使うときは広い範囲で活性化するそうです。
 、しかし、熟達して楽にそろばんが出来るようになれば、その作業ばかり漫然としていれば脳は楽なことばかりしているので、怠け癖がついてしまいます。
 ボケ防止のためには何か新しいことをしたほうがよいのですが、それは外側から見た考えで、自ら考えるときは興味の持てることでないと意味がないでしょう。


脳の活性化と効率

2006-09-16 22:43:35 | 視角と判断

 図はNewsWeek9/20の「漢字の国の民族はなぜ計算が特異化」というレポートからのものです。
 今年の6月に大連理工大学で中国人学生と英米豪などの学生について、計算問題を解くときに活性化する脳の部分を測定したものだそうです。
 計算をするときに使われる脳の部分の違いは図のとおりですが、英語話者の方が広い範囲にわたって活性化していて、脳に対する負荷が大きいことが分かります。
 つまり同じことをするのに英語話者のほうがたくさん脳のエネルギーを使っているということになります。
 
 視覚的に計算を処理する中国人より、言語に置き換える英米人のほうが計算のスピードが遅く効率の悪い処理をしているようだといえます。
 人種によって脳の機能が違うということはないというのが定説なので、こうした違いの起きる原因は言葉の違いや、教育訓練の方法や量の違いによるものと考えられているようです。
 これまで知能検査などが行われた場合、英米人に比べ東洋人のほうが知能指数が高いというデータが多かったのですが、脳の使い方が違っているというのは初めてです。
 
 もし、言語が違うからというのが原因であれば、英語話者は将来もずっと計算能力が劣るということになります。
 教育方法が違うとか、訓練時間が違うというのであれば、英語圏でも教育方法を変え、訓練時間を増やせば良いということになります。
 
 この研究の結果からあらためて分かるのは、何かをやるときに脳が使われる部分というのは、誰でも同じとは限らないということです。
 そして、効率の悪い脳の使い方をしているときは脳が広範囲にわたって活性化するということで、能率よく使えば省エネになるということです。
 脳が活性化するというときの活性化という言葉は、なんとなくプラスのイメージがありますが、意味があいまいで実際どんな価値があるか分かりません。
 活性化しているかどうかは、脳の血流量が多いか少ないかで判断しているのですから、脳の働きに無駄が多いために活性化しているように見えると言う場合もあるのです。

 肉体作業でもなれない作業をするときはよけいな筋肉を使ったりするので、とても疲れて大汗をかいても能率はさっぱりということがあります。
 なれてコツがつかめればエネルギーをあまり使わず効果を挙げるようになります。
 脳であっても闇雲に活性化させればよいというものではなく、効率の良い使い方をしなければ疲労が多く脳の健康を損なうようになるはずです。
 「**をすると脳が活性化する」といわれるとどうしても気が動きますが、あまり意味のない作業を無理をしてやることは避けたほうが無難だと思います。
 


視覚と音声の親和性

2006-09-15 22:37:03 | 視角と判断

 図はV.S.ラマチャンドラン「脳の中の幽霊、ふたたび」からのものです。
 この図形が火星人の使うアルファベットだとして、ひとつは「キキ」、もう一つは「ブーバ」だとしたとき、どちらがキキか判定せよといった場合、実験では98%の人は右側のギザギザのほうを選んだそうです。
 ラマチャンドランの説では視覚と聴覚はまったく関係がないというのではなく、ある種の対応関係があるとしています。
 初めて人間が言葉を作り出したとき、ものの呼び方を決めようとしたとします。
 このとき、だれかがギザギザのものを指差して「ブーバ」とか「マルマ」とか言ったとしても、他の人間は「?」と感じて納得しないけれども、「キキ」と言ったなら他の人間も「!」と感じてそういうものを「キキ」と呼ぶようになったであろうと推測するのです。
 全部の言葉がこうして決まったと言うのではなく、最初に言葉が出来るときのきっかけとなったのだろうと言うのです。
 
 人類が言葉を持ったのは約5万年前といいますが、そのころ現在の人類の祖先は一箇所にいたのかそれともある程度散らばっていたのかは分かりません。
 ところで、文字のない人種、民族はあっても、言葉を持たない人種や民族はありません。
 もし言語が生まれる前に地球上に人類が散らばっていたとすれば、それぞれが独自にすべて言葉を持つようになったと言うことになりますが、それはちょっと考えられません。
 言葉をもてなかったグループは絶滅したとでも考えるしかありません。
 言葉を持たない人類はチンパンジーなどと比べれば肉体的能力が劣り、自然に対する適応力が劣るので絶滅していったとしても不思議はないからです。

 もし人類が言葉を持ったとき、人類は一箇所にいて、その後地球上に散らばっていったとするならば、言語の原型というものがあったということになります。
 現在の世界の言語は何千種類もあって、単語だけでなく文法構造がお互いにまったく異質に感じられるものがあるので、起源が一つの言語であるとは感じられません。
 現在のさまざまな言語の違いからは、とても共通の原型は想定しにくいのですが、ごく初期の言語は非常に簡単なもので、それからいくらでも変化は可能だったかも知れないとでもいうしかないでしょう。

 ラマチャンドランの実験は、説得力があるのですが、ハテナと思うところもあります。
 まず、このような平面図形は文明人のもので、言語発生期には似つかわしくありません。
 自然にあるもの、たとえば樹とか石とか動物などといったものであれば、形状と音声との親近性のようなものはあげにくいような感じがします。
 犬を「ワン」とか猫を「ニャー」とか名づけたと言うのであれば分かりやすいのですが視覚と音声を結びつけるのは難しいようです。
 もし図形的表現が音声と結びつきやすいのであれば、文字の起源は象形文字でなくてもよかったはずです。
 象形文字から表音文字が発生するのでなく、直接表音文字ができたはずで、文字の発生はもっと早くてよかったし、無文字社会というものは早い時期になくなっていたのではないかと思います。


影と輪郭

2006-09-14 22:30:04 | 視角と判断

 左上の図は何に見えるかと聞かれてもなかなか思いつかないのではないでしょうか。
 漠然と大小の島が点在しているところのように見えるといえば、そういえないこともないという程度です。
 細かい部分がそれぞれ何なのか分からないので、部分を組み立てて全体をイメージすることが出来ないだけでなく、全体を見て、全体的な印象から直観するのも難しいのではないでしょうか。
 
 実はこの図は下の図の黒い部分と白い部分の境界線を示した線画です。
 それでは下の図は何に見えるかといわれてもすぐには思いつかないかもしれません。
 黒い部分に注目したり、逆に白い部分に注目したのではなんだか要領を得ないのではないでしょうか。
 この図はキリストの顔の部分で、右側から光が当たって左側が影になっているということなのですが、そういわれればナルホドと思うのではないでしょうか。
 キリストの絵とか彫刻の写真などを見たことがない人はピンと来ないかもしれませんが口からあごにかけてヒゲが伸びた顔だといえば、そう見えるでしょう。
 
 顔に光が当たっている状態に見えるということは、図形が立体的に見えているということです。
 平面的な図柄としてみていたのでは、部分に注目しても全体的に見てもまとまったイメージがわいてこないのです。
 他のこまごました部分はなんだか分からなくとも、顔が立体的に見えるということで全体として理解が出来るので納得できるのです。

 右の図はルビンの盃といわれる図形で、白い部分に注目すると盃に見え、黒い部分に注目すると向き合った人の横顔に見えます。
 右下の図は、右上の図の黒い部分と白い部分の境界線を示した線画ですが、左の場合と違って、見てもなんだか分からないということはありません。
 やはり、盃に見えたり人の横顔に見えたり見え方が交替します。

 同じ境界線を示した線画でも右側は理解できるのに、左側の場合は理解できません。
 左の図は、キリストの顔だと答えを教えられて、そのつもりになって見ようとしてもそのようには見えません。
 線だけになってしまって、立体感が失われたので形がイメージできなくなってしまっているのです。
 右の図は境界は輪郭を現しているので、線だけになっても輪郭が示されるので対象の形が把握できます。
 左の場合、境界は対象の輪郭ではなくて、影の輪郭なので対象の形が分からなくなっています。
 人物画などの写真をトレースして線画を作ったとき、あまり似てないというのも、線画は輪郭を描くだけなので、立体感を表現できないためです。
 


積み上げ方式と全体的な見方

2006-09-13 22:45:20 | 視角と判断

 12個のマスに5個づつの文字が入っていますが、このうち二つのマスが同じ文字の組み合わせです。
 同じ文字の組み合わせとなっているのはどれかという問題ですが、どのようにして見つけたらよいでしょうか、
 もっとも素朴なやり方は1番と同じ組み合わせのものを2番目以降から探していき、見つからなかったら二番のますと同じものを探していく。
 さらに、見つからなかったら3番のますと同じものを4番目以降から探していくということを繰り返していきます。
 このやり方だと、運がよければ1番と2番が同じで1回の比較だけで答えが出ます。
 しかし運が悪ければ11番と12番が答えでこの場合は66回目の比較ですから大変骨が折れます。
 
 文字の組み合わせが分かっていて、同じものを12個のマスから探すというのであれば、最大でも12回の比較ですむのですが、この場合は分かっていないので単純な方法では比較回数が多くなりすぎ、手間がかかる上に間違えやすくなります。
 一つの確実な方法は、文字を降順に並べ替えて別紙に書いていく方法です。
 たとえば1番は(FHMVX)、2番は(BFMVX)、3番は(BHMVX)などとなりますから、全部このように書いていく途中で同じものがあることに気がつくかもしれません。
 降順に書いた場合は、組み合わせが同じというだけでなく、文字列が同じということになるので、同じかどうかの判定がしやすいからです。
 途中で気がつかなくとも、全部書き出せば同じ文字列があるのですから、そこでもう一度見渡せばたいていどれとどれが同じか分かると思います。
 それでも気がつかない場合は、書き出した文字列を降順に並べ替えれば、同じ組み合わせは隣り合うので分かります。

 筆記具を使わないで見たままで解決するには次のような方法があります。
 まず1番の文字のFに注目してみるとFを含まないマスは3,8,9ですがこの中には同じ組み合わせのものが二つはありません。
 ということは同じ組み合わせを持つマスはFを含むということです。
 つぎにHを含まないマスは2と5でこれらは同じ組み合わせではないので、答えはHを含むマスです。
 つぎにMを含まないマスは7と12でこれらは同じ組み合わせでないのでないので答えはMを含むマスです。
 つぎにXを含まないマスは4,5,11ですがこの時点で4と5が同じく見合わせであることが分かります。

 この方法は答えでないものを排除していくのですが、特定の文字が含まれていないマスが瞬間的に分かることが前提になっています。
 たとえばFという文字を含まないマスは、一つづつ見ていくのでなく、視野を広げて全体を見れば即座に分かります。
 最初の方法は一つ一つのマスについて文字の配列を降順にして、系統立ててから探すデジタル的な方法で、極端に言えば視野は必要ありません。
 どちらがよいというのではありませんが、後のほうが面白みはあります。
 
 

 


ドルードル

2006-09-12 23:03:55 | 視角と判断

 図はロジャー.プライス「ドルードル」にある絵です。
 ドルードルは絵解き遊びで、簡単な図形にひねりをきかした題をつけて楽しむものです。
 どれが正解ということはなく、各人の想像力に任せるのですが、ユーモアがあるとか、意外性があるとかひねりが聞いていた

りすれば説得力があるというものです。
 この絵に対して本の著者がつけたタイトルは「現金輸送車の中からガードマンが見たエッフェル塔」というものです。
 現金輸送車の窓はどんなものか分かりませんが、狭いのぞき窓というのが予想され、背の高いエッフェル塔を中から見れば

、いかにもこんなふうに見えるだろうと思わされます。
 エッフェル塔の鉄骨にしても、現金輸送車の窓にしても実際とは違うでしょうが、縦と横の組み合わせに着目してなるほどと

面白がらせています。
 
 これを、中にある長方形だけに注目して、「うろこ模様から描いた作りかけの鯉のぼり」とすれば、頭と尻尾が描き加えられ

ればそれらしく見えそうな気がします。
 このように部分に注目したタイトルはいろいろ考えられるでしょうが、ひねりというものはないので面白みというものはありま

せん。
 作者のタイトルは、現金輸送車と、エッフェル塔という二つの要素を絡ませているのでひねりが効いていると同時に、全体的

に見ています

 この図を90度回転したのが右の図ですが、こうなると現金輸送車とエッフェル塔というタイトルは思いつきにくく、そのような

タイトルであるといわれても、「はてな」と、納得がいかないでしょう。
 これが作りかけの鯉のぼりというのであれば、縦になろうが横になろうが変わらないので、面白くなくても説得力が急になくな

るということはありません。
 部分だけに注目してそれを抜き出した場合は、状況が変わってもそのものは変化しにくいのです。

 左の図での窓とエッフェル塔というタイトルは、横に細長い窓と縦に長いエッフェル塔とという対比関係に注目したもので、あ

る関係に注目するのでそこにストーリー性が生まれ、面白さが生まれたのです。
 しかし状況に応じて判断しようとすると、状況が変わればそのつど判断を変えねばならないので一貫性が保てず、場当たり

になりがちです。
 ところが部分に注目すると、周りとの関係が無視されるので、ストーリー性が生まれず、面白くはないのですが、状況が変わ

ってもタイトルを変えなくてすみます。
 部分にこだわれば一貫性が保て、普遍性が獲得できるという利点があるのです。
 何がなんでも全体的に見るのがよいということではないのです。


視野が広いほうが記憶に有利

2006-09-11 22:26:38 | 視角と判断

 Aの単語を一分間見て記憶します。
 単純に上から覚えようとして読んでいっては、全部覚えこむのは難しいと思います。
 無意味な単語を覚えることに抵抗があれば、半分も思い出すことが出来ないかもしれません。
 単純に記憶しようとするのであれば、単語の先頭文字を「イ、ヤ、サ、ブ、ホ、マ」「オ、レ、ホ、ロ、ス」と覚え、先頭文字を手がかりに想いだそうとすることである程度の成績を収めることも可能です。
 しかし先頭文字が10個あるので、先頭文字自体を完全に覚えること自体もやや難しいので、単語を思い出そうとするとき、先頭文字の一部を忘れたりします。
 
 もし単語のグループ全体を見て、単語がいくつかのグループに分けられるということに気がつけば、その分類ごとに覚えるという方法もあります。
 この場合は、国の名前が4つ、台所用品が3つ、スポーツが4つとなっているので、全部でなくても二つのグループを完全に覚えれば最低でも7つは記憶できます。
 グループごとに「イ、ブ、オ、ロ」、「ヤ、ホ、ス」、「サ、マ、ホ、ス」と先頭文字を覚えれば、単語がグルーピングされているので想いだせる数が増えます。
 単語がグループに分けられていることに気がつくためには、文字を順に読んでいくときに気がつくのですが、確認するときにはいくつかをまとめてみるだけの視野の広さが必要です。
 グループごとに先頭文字を覚えようとするときも、先頭文字を拾って次を見ながら繰り返し読むことで記憶できますから、視野の広さが要求されます。

 Bの場合は単語数が20になるので、単純に記憶するのはさらに難しく、先頭文字にしても20も覚えられるものではありません。
 この場合は単語のグループは、動物、国名、野菜、楽器の4種でそれぞれ5つづつの単語で構成されているので、全部は無理でも半分ぐらいは記憶できるかもしれません。
(もちろん分類はこの方法だけでなくたとえば、ひらがなが3個、漢字のものが5個、カタカナが12個という分類も出来ますが、一つの分類に多く入りすぎると覚えにくくなるので、4つに分類するほうが記憶しやすいです)。
 
 この場合のように単語の数が20個と多くなると、全体の構成をつかもうとするとき、上から順に一つづつ見ていったのでは先に進んだときに、全般を忘れてしまったりします。 視野が広ければ、同時にいくつもの単語が目に入るので、全体の構成に速く気がつくだけでなく、分類ごとの単語を覚えるときも同じグループの単語を二つ以上見ながらリハーサルできます。
 記憶課題でも視野が広いほうが有利なのです。