と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

マニアックといふこと

2012年12月12日 23時08分49秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

考えてみると、と書くとまるで普段から思考作業ばかりやっているようだけど、けっしてそんなことはない。正真正銘、自分で保証します。

なんだか、こんなブログばかり書いているから、この間も言われてしまった。相当蔵書を持ってるんでしょ?ってな具合に詰問される。なんかの本を見ながらそれを写しているだけなんでしょ?って。(この言い方はバカにしているのかな?=あははははは)

そんなことはない。本は本当に少ない。貯まってきたらどしどし古本屋に持っていってしまうし。退職したときにはさすがに呆れてしまった。段ボール箱で40個捨てたのだった。リーダーシップ論とか、なんだか知らない自己啓発書を、それこそお馬鹿さんみたいに買って読んでいたから。あれがなければ、もっとまともな人間になっていたと思っている。さらに、たったこれっぽっちでよくまぁ国語教師なんかできたねと言われたこともあったから。古典系が少ないんだもの。だからこそ再教育をしていただくつもりで、憧れの院生にさせていただいたので・・・。

よくいるのが、愛書家っていう方。一か月に100万円は本を買う方。あるいは貴重本を全国どこに行ってでも買う人である。まことに尊敬してしまう。本のマンションとか持っているヒトもおられる。作家の佐藤優先生とか、アタシの高校の同級生で大学教授やっているのとか。うらやましいけど、到底できまへんな。

今のアタシャ一か月に数千円本代にかけると、たちまちのうちに干上がってしまう。年金生活シャだからである。生活費の方が優先するからである。当たり前である。

だから図書館で借りてくるんだ。

それに、難しそうな専門書をアタマから、ノートをとって、うんうん唸りながらメモをして、構想を練って駄文を書いているのでもない。ノートだって驚くほど少ない。全部で40冊くらいしかない。読書カードは、いっぱいあるが。ノートも、いろいろあるけど、1頁に1項目という驚くべき無駄使いをしている。どんどんどんどんメモはするけど、間に合わないのだ。捨ててるノートもたくさんある。

時間がない。いつ死ぬかわからないし、悠長に構えているわけにはいかない。さらに、先行研究をいつもチェックしていないとならないから、けっこう厳しい。新しい研究を常時チェックすることを、師匠から言われているから。さっきまで本学の先生の論文をインターネットで探して、それをPDFで保存して喜んでいた。明後日学校に行ったら、印刷してファイルするつもりだから。明日は、別の大学に行くので。

駄文を書きながら、そうして集めた資料をぼろ机の回りにパラパラと置いて、ちょっと付箋をつけたのを参考にしながら、駄文を書いていくだけである。アタマの中のイメージどおりに。

つまり文章書きが最優先するのである。あくまで、書籍は参考程度。

インプットよりも、アウトプットをどんどん進めないと、ほんとうにこの世からいなくなっちまう。

そもそも、劣等生で、インプットは弱かったなぁと思う。卒業した高校でも出来が悪くて往生した。太宰の小説に出てくる成績の悪い柔道部主将が、太宰に言われてゴミ箱にアタマを突っ込んでいる場面とか、妙に同感していたっけ。これって今ではいじめじゃないのかね。もっとも、進学校なんてそんなもんだろう。旧制帝大に入るやつだけ一人前って雰囲気。それが仙台と札幌に入っていったのだけで現役が40人もいたんだから、成績順のいじめがあっても不思議ではなかった。そういう学校だったんだ。そういうこと。別に不幸でもなんでもなかったしね。劣等生としての青春を謳歌してしまったし。バカみたいなことばかりして。

有名な作家で、資料読みに時間がかかるから、書いているヒマがないという方がおられたが、そういう方はどうやって生活費を稼いでいたのかねぇと思ってしまう。優先順位が違っているような気がするんだが。

およそ、マニアックに凝り固まるということがない。凝ることはあっても、固まるということがない。固まってしまっては、おしめぇだと思っている。

クルマだってそうだ。メーカーに全くこだわっていない。よくいるではないですか。生涯トヨタ党とかなんとかとか。別に他意はないですよ。トヨタさんには。乗っていた時期もあったし。

コンピュータもそう。壊れたら捨てる。修理する仕方がわからないし、それに時間の無駄。そのくせ衝動買いは好きで、ポメラだって何台買ったか。今は買うことができないのが残念。

クルマの買い方もそう。今のクルマも、ちょっと見にいって、試乗したら気にいってしまったから買っただけ。燃費とか、値引きとかナンニモ聞かないので、ホントにいいのですかと哀れな顔をして売ってくださった。クルマのことはなんにも知らないから、そんなもんなのである。色もそう。店に置いてあるのが、一番自信があるからでしょ?と聞いて、それはそうだとお店の営業マンが言うから、「それでいいです、それで」・・・・それで今のクルマは我が家に来たんである。乗り出してから気にいることが多いけどね。だから、逃げ出す可能性もあるわけで、営業マンはここのところ新車が出ているメーカーだから、よく家に来る。もう買えないからとは言っていないが、そうなる可能性は高いですなぁ。

すべてがシンプルなんだ。車雑誌を買って研究するというようなこともない。およそ、自分の興味関心のあることだけをやっている。それだけ。


現在非常に凝っているのが、読書と駄文書き。読書しながら、アタマに入れるようにしているし。そして、それをイメージ化していかないと、長文の駄文が書けなくなる。それを一番畏れている。

そのことだけは、マニアックなのかもしれない。



(^-^)/

 

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考え方をマスターしたい

2012年12月12日 12時28分25秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

要するに、このブログでつまらないことを題材に、いろいろ書いているのは、考え方をマスターしたいということである。まだ、こんなことを言っているんだから、お話にならない。完成というのが、無い。情けないけど、そうなのだ。

ベースには、考え方を変えれば、事態は好転するというのがあるからである。これはよくわからないが、カウンセラーのコツだそうである。国分康隆先生からお聞きもしたし、全著作から学んだことでもあった。

特に「ゲシュタルトの祈り」というものを教えていただいた時に、教師として脱皮できたと感じている。もう過去のものであるが。

仕方の無い時は、仕方が無いのである。

そういうことである。

そういう断念の仕方が、人生には幾たびも訪れる。期待されても、応援されてもできないときはできない。しかし、失敗が永久に続く訳ではない。学校で悩んでいる生徒に、あるいは国分康隆先生のように東京都の教育相談所で職場に適応できていない教職員の相談活動を行ってきた先生なりの、生き残るための大いなるコツが語られている。

ノートもとって、印象に残る言葉はカードに書いて常時携帯して持ち歩き、眺めたりしていた。 

もしかしたら、愚生が人間関係に淡泊なのは、このゲシュタルト療法が影響しているのかもしれない。

これまで、劣等生で過ごしてきたし、周囲から期待されることもなかった。(今も、そうだケド)

さらに、愚生はよそ者であって、この居住地でのしがらみもない。ナイナイづくしである。差別も受けた。そりゃそうだろう。どこのもんだかわからないのだから。そんなことをいう輩のことは、せせら笑っていたのだけれど。身分制なんて言っても、言うほどの血脈があるのかということである。相手に。

オレはもっとないけど(^0^)

学歴もない。実力も無い。あらゆる親分・子分関係もない。こっちからごまをすって、スリスリと接近を図っていこうとはつゆほども思わなかった。だいいち、よそ者だから相手にされていないということは、よ~くわかっていたからである。

このゲシュタルトの祈りを教えていただいてから、生きていくのが楽しくなった。そして、学校現場での仕事も快適にできるようになった。

二律背反的な、こっちが善で、相手が悪者であるというような二者択一的思考の呪縛から卒業できた。だから上司の悪口ばかり言って、定年まで生きるというような、そういう他罰的な人生を捨てたのだ。なんでもかんでも他者が悪い、おめーの責任だという思考方法をとらなくなった。

こうなると逆に強い。

そんなタイプはあまりいないからである。独自性を発揮できるようになる。あるいは、組織をまとめることができるようになる。円滑にである。

そのあたりは、実は専門家と呼ばれる方々ほど苦手である。つまり自称学校秀才である。他称でもいい。誰しも認めるようなエリート校を出て、誰しもあれは将来出世するだろうと思い、思われている方々。

先鋭化しているから、周囲が見えない。それで自滅してしまう方もいる。自称他称エリートなのにである。才能がもったいないと愚生などは思うのだ。もったいない。ほんとうにもったいない。

学会などに出席させていただいていると、先鋭化しているから、まことに殺伐としている雰囲気のある学会がある。4つほど参加させていただいているが、これじゃぁ血圧がしんぺぇだろうなぁと思う時があるのだ。

スペシャリスト芸の域を出ていないと思うこともある。それでどこが悪い、って言われそうだけど。悪いと言っているのではなくて、専門家というのは、そういうものであると思っているのである。手工業の職人さんなのである。

8日、京都から千葉に帰ってくるときに、快速に乗って千葉まで来た。そのときに、三人掛けの椅子で、隣のお二人がどうも或大学の教授のようであった。同僚の論文の書き方について、いろいろなことを二人で熱く語っておられた。愚生は、ふむふむと聞こえてくるから、そのまま聞いていた。外国語文献の翻訳をしてそのまま講義に導入するのは中身がないとか言われていた。

そりゃそうだ。愚生だってそんなことはしない。もっとも、翻訳なんてできまへんが。(^0^)

これがいい例である。周囲が見えないのだ。誰が聞いているかわからんではないか。大学名はおっしゃっていなかったが、内容からして目星はついた。おそらく間違いはないだろう。異分野なので、名刺を差し上げようとも思わなかったが。

そういうものなのである。

そうやって大人になっていくのである。

 

なつかしいゲシュタルトの祈りのことを思い出して、以上のようなことを書かせていただいた。

 

 

 

               GESTALT GEBET

ゲシュタルトの祈り

Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.
私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。

Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen -
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。

und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。

ICH BIN ich und DU BIST du -
私は私。あなたはあなた。

und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schön,
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。

wenn nicht, dann ist auch das gut so.
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。

Frederick Perls
フレデリック・パールズ


フレデリック・S・パールズ(1893~1970)。ドイツの精神医学者にして、ローラ夫人と共にゲシュタルト療法の創始者。

 

 

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12月11日(火)のつぶやき

2012年12月12日 04時18分55秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

@yoshihisahirano 様 この記事は、学校にも当てはまるように思いましたので。(^-^)/・・・他意はございませんが。


@yoshihisahirano わはははでございます。。(^-^)/


異端分子は常に必要です。てなことを今日は書かせていただきました。ある意味、組織はそうでないといけないと思うからです。トップの勘違いをどうやって訂正するのかということを、我々は考えるべきでしょうから。


今日も学校で、八木書店から出ている影印本を、部分コピーして楽しんでいたのですが、高いなぁ。一冊3万円。されど、コピーをとらないとまさか図書館の本に書き込みもできないしねぇ。(*_*) マイッタ


新たな視点で、鬼来迎の石屋についてポメラで書いておりました。あっという間に、3000字。後はこれを見直して、本体の駄文に貼り付けて、どんどん作業をしていかないと間にあわないです。


ヒトを小馬鹿にしたような輩が多い中で、真摯に生きているかたとお会いするのは実に癒されます。


利他ということがわかっているのかねぇと思うからです。自分の利益ばっかり考えていると破滅しますぜ。(^-^)/


帰りの電車で、良い風景を見ました。愚生より先輩で、老夫婦が、お互いをいたわりあいながら乗車されていた。利他です。その姿こそ利他。


夫婦であっても、自分が二人いるわけでは無い。所詮他人ですから。だから利他が大事であります。そう思います。


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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/