矛盾という漢文がある。
あれはずっと笑い話だと思ってきた。とうてい解決不可能な話ということで。しかしである。これをタイトルのように言い換えたらどうだろうかと、ふと思ったのである。
なんでかというと巷では選挙で騒々しいからである。京都でも凄かった。選挙運動のクルマが。有名な代議士のお名前も愚生のミミに聞こえてきた。テレビでよく出てこられる文科省の大臣であった。ずっと前の。
このことについてはコメントしない。長年の習慣で、政治的中立を守ってきたからである。というより、自分を出さない習性がすっかり身についてしまったからである。なんと言われてもそうなってしまったのだ。公務員のナントカというもののせいで。最近、最高裁がおもしろい判断を出されたようであるが。
しかしである。盾と矛で、これを賢者と強者と言い換えてみたらどうだろう。すっきりくるのである。どっちが盾で、どっちが矛だということについては関心がない。どっちでもいいのだ。受動と能動と言い換えてもいい。
しかし、賢者と強者のどっちが国を治めたら、どうなるのかということには関心がある。あるいは国際情勢でもそれは言えるのではないかなぁと思うのである。
闘いについても、賢者は戦略を練るだろうし、強者はある意味狂信的なパワーでその存在を誇示すると思う。相対の闘いでも、一見ボディビルダーのような強者が優勢だと思われるからもしれないが、集団では賢者にかなわないはずである。
どっちでもいいという選択肢を持ってもいいのかもしれない。あるいは、どっち共それらの能力を持つという選択肢もある。これだとどうなるのか。賢者であって、強者。強者であって、賢者。天下無敵。
この矛盾という話は、そもそもAとBという対立するのか、調和するのかまったくわからない二つの要素を並べたということからくる不幸なのであると思う。つまり、永久に解決のつかない事とか物とか、概念とかを、二つ並べて比較しているわけである。
愚生もそれはよくやる。「AとB」である。笑ってしまうくらいによくやる。トヨタと日産、能楽と宗教、剣道と柔道、カネと名誉、男と女、千葉県と神奈川県、仏教と心理、キリスト教と仏教、西洋小説と日本小説・・・・・・・・・なんぼでもある。そして、何の気なしにそのAとBをやってしまう。
いいのかね?そんなんで。そもそも水と油であるものを比較していること自体どっか違っているのではないのかと、ふと思う時があるからである。
日本とアメリカという対立構図もよく出てくる。あるいは、日本と中国とか。。。。。。
されど、そもそもここにあげた二つの国は成り立ちからして違っている。アメリカは、計画的に成り立った国家であるし、中国は中華思想の国である。比較することでもって、わかったような気になっていると間違うような気がするのである。
ここに陥穽がある。否、大きな落とし穴と言ってもいいかもしれない。わかったような気になっているということの一点において。だからそもそも論というか、「そもそもそれは常識なのかね?」と、うるさく自問自答すべきなのである。
だからこれだけは守ってきたから、破綻することが無かったのだと今は思っている。勇ましく、AかBかとやっているほうが景気はいい。議論も深まったような気になる。違うのである。そんなのは現象面だけで華々しくやっているだけで、根底から崩れていることに気がついていないのであった。
愚生が一番懼れるのがそれである。論理的破綻というやつである。破綻していると自分で気がついたりしたら、ほんとうに顔が真っ赤になるのだ。むむむ・・・・またやっちまったというわけである。
卑近な例で言うと、深酒をやってしまった時である。(^0^)
またやっちまったの連続であったから。あれは論理的破綻もなにもない。どこで飲んだの!と家の者に詰問されたときに、「おしりから飲んだ」と答えていては、きみまろ様のぱくりである。それじゃぁ話にならん。そもそもそんなのは、論理になっていないのであるから。
飲みたいから飲んだというのでは、ワンコ以下である。ワンコですら、あまり飲んだら身体に悪いというように、いい案配で止めてしまう。アルコールではなくて、ただの水の話であるけど。もっとも、我が家のじ~さまワンコが、日本酒を飲んでべろべろになっていたらテレビが取材にきちまうですねぇ。
動物的感覚で生きていちゃならんのである。動物に盾と矛はないからである。意識すらしていないだろう。当たり前である。第一ワンコが道具を持って喧嘩したとはついぞ聞いたことがない。
現在、愚生がやっている趣味的学問(まさに、この言い方がぴったりだ)でも、このAとBを比較する分野がある。しかも、愚生は農民芸能と宗教(仏教)である。ここまで書いてきて、そもそもそこに疑いを持っているような書き方をしているが、実はそうではない。
実は、作品論、作家論にもっていきたくないからであって、手法的な問題なのである。そもそもである。愚生如きに、作品論、作家論は書けない。それはパーフェクトな頭脳の持ち主以外はできない。それほど遠大な問題だからである。全てを知らなくては、不可能な問題であって、それこそ神をも畏れぬ思い上がりであると思うからである。
愚生には時間がない。
いつ死ぬかわからない。もっとも、いつ死ぬかわかっていたらこんなにきついことはないが。だからである。だから、AとBをあえてやっているのだ。歴史的手法と言ってもいいけれども。
やや・・・・3000字を超えている。やめましょう。賢者はムリをしない。強者も勝てるときしか勝負しないそうだから。(だから強者なのだそうだ)
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