と~ま君の団塊世代独り言日記 

定年後を、いつまでも少年のような気持ちで過ごしています。九十九里浜で、年金+5つのバイトで気ままな暮らしを継続中。

大雁塔・・・弾丸ツアー思い出の記は終了

2017年10月05日 07時45分23秒 | 中国西安怪人紀行2017年9月

最後に大雁塔で中国弾丸ツアーを終わりにしましょう。

なにしろ短期決戦。

いまさらながら、中国が近いというのがよ~~~~くわかりましたよん。中国から来られる方々も多いというのもよくわかったですなぁ。

なにしろ、九十九里浜からお江戸に出るのと、羽田~上海間がほぼ同じ時間でありまするから。それだけボキは田舎に住んじょるのだけれども(@^▽^@)。

(^_^)ノ""""

 

 

 

 


ウキより↓

 

大雁塔がある大慈恩寺は玄奘三蔵ゆかりの寺

玄奘三蔵と大雁塔(西安の大慈恩寺)

大雁塔(だいがんとう)は唐の時代の高僧、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)がインドから持ち帰った仏教の経典や仏像などを保存するために、当時から大寺院であった長安(今の西安)の大慈恩寺に建てられた塔です。玄奘三蔵は大慈恩寺の高僧で、玄奘三蔵はこの大雁塔の設計にも携わっています。

 玄奘三蔵がインドから帰ってきたのが645年。唐は名君と言われた二代目の太宗が皇帝の時代で、太宗は玄奘三蔵が持ち帰った経典の翻訳を指示し、玄奘三蔵はこの翻訳を彼が没する664年の直前まで続けた。

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弘法大師修行の地である青龍寺にとうとう行ったのだ

2017年10月04日 08時23分46秒 | 中国西安怪人紀行2017年9月

とうとう来ることができた。

今回の旅の最大目標である青龍寺訪問である。

弘法大師空海の密教修行の寺院である。

そうなのだ、ボキは、空海の寺院に墓地を購入したからである。むろん九十九里浜である。居住地である。自分の意志でやったことだから、よけいに空海への思いがある。

素直に感動した。

やっと来ることができたのである。

 


 

ウキからの引用↓

青龍寺(せいりゅうじ,しょうりゅうじ)は、中国陝西省の古都、西安市南郊の雁塔区鉄炉廟村にある仏教寺院であり、弘法大師空海ゆかりの寺として知られている。その故地は、唐朝の都、長安城においては、左街の新昌坊に当たる場所であった。

歴史[編集]

創建は、隋の開皇2年(582年)であり、当初は霊感寺と呼ばれた。初唐の武徳4年(621年)に一度、廃寺となったが、龍朔2年(662年)に再建され、観音寺と改められた。 

青龍寺と改称されたのは、景雲2年(711年)のことである。 

唐中期には、恵果らの密教僧らが住持するようになり、入唐留学僧たちとの関係が生まれた。空海は恵果に学び、天台宗の円仁や円珍らも恵果の法系に連なる法全に就いて密教を学んだ。 

会昌5年(845年)、会昌の廃仏によって再び廃毀された。しかし、大中6年(852年)には、いったん復興を果たし、護国寺と改められている。ただ、唐末五代の動乱によって、都の長安は急速に寂びれてしまった。そのため、以後三たび姿を消すこととなった。

復興[編集]

1982年以来、西安人民政府が、青龍寺の遺址と伝承されてきた石仏寺周辺の発掘調査を行い、多数の唐代の遺物を発掘し、この地がいにしえの青龍寺であったことを確かめた。 

青龍寺は復興され、そこには、日本からの寄贈で、空海記念碑、恵果・空海記念堂が建つ。また、元四国霊場会会長蓮生善隆(善通寺法主)により四国八十八箇所の零番札所と名付けられた。

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西安城塔であった すばらしいの一語につきた

2017年10月04日 08時04分33秒 | 中国西安怪人紀行2017年9月

 

西安市内をぐるりと囲んでほぼ完全な形で現存する城壁。

明代初期に唐の長安城壁を基礎として構築された。

周囲13.7kmの長方形で、高さ12m、基礎部分の幅は15~18m、上部の幅は12~14mもあり、レンガで築かれている。城壁の外側には攻撃孔が5894も開いている。4つの方向にそれぞれひとつの城門があり、全体は外濠に囲まれている。

 

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西安博物院でのちょっとした写真

2017年10月04日 08時01分56秒 | 中国西安怪人紀行2017年9月

歴史的なものがたくさんあった。

楽しかったな。

これ有名な館内の説明の床。

これもまたよかったな。

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阿倍仲麻呂の記念碑 感動した

2017年10月04日 08時01分12秒 | 中国西安怪人紀行2017年9月

興慶宮(こうけいきゅう)は、中国陝西省の古都、長安(西安市)において、唐代に造られた宮殿。唐の玄宗の時代に政務が行われたことで知られる。

現在は、建築物はなくなっており、礎石が一部残るだけである。跡地に「興慶宮公園」ができており、阿倍仲麻呂の記念碑などがあった。

阿倍仲麻呂の記念碑には感動した。

李白などの交流をちょっと知っていたので。

こんな日本人がいたのである。

現地ガイドの陳さんも、熱を入れて説明してくれた。

なししろ科挙にも合格したほどの天才である。

あやかりたいと思ったよん。

マジに。



ウキからの引用↓

文武天皇2年(698年)阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。霊亀3年・養老元年(717年)多治比県守が率いる第9次[5]遣唐使に同行して唐の都・長安に留学する。同次の留学生には吉備真備や玄昉がいた。

唐の太学で学び科挙に合格し[4]、唐の玄宗に仕える。神亀2年(725年)洛陽の司経局校書として任官、神亀5年(728年)左拾遺、天平3年(731年)左補闕と官職を重ねた。仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していたらしく、『全唐詩』には彼に関する唐詩人の作品が現存している。

天平5年(733年)多治比広成が率いる第10次遣唐使が来唐したが、さらに唐での官途を追求するため帰国しなかった。翌年帰国の途に就いた遣唐使一行はかろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破した。この時帰国した真備と玄昉は第1船に乗っており助かっている。副使・中臣名代が乗船していた第2船は福建方面に漂着し、一行は長安に戻った。名代一行を何とか帰国させると今度は崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕らえられ、中国に脱出してきた遣唐使判官・平群広成一行4人が長安に戻ってきた。広成らは仲麻呂の奔走で渤海経由で日本に帰国することができた。天平5年(734年)には儀王友に昇進した。

天平勝宝4年(752年)衛尉少卿に昇進する。この年、藤原清河率いる第12次遣唐使一行が来唐する。すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は清河らとともに、翌年秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国を図った。この時王維は「秘書晁監(「秘書監の晁衡」の意)の日本国へ還るを送る」の別離の詩を詠んでいる。

しかし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流される。このとき李白は彼が落命したという誤報を伝え聞き、「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼んだ。実際には仲麻呂は死んでおらず船は以前平群広成らが流されたのとほぼ同じ漂流ルートをたどり、幸いにも唐の領内である安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着した。結局、仲麻呂一行は天平勝宝7年(755年)には長安に帰着している。この年、安禄山の乱が起こったことから、清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来するものの、唐朝は行路が危険である事を理由に清河らの帰国を認めなかった。

仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、天平宝字4年(760年)には左散騎常侍(従三品)から鎮南都護・安南節度使(正三品)として再びベトナムに赴き総督を務めた。天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)まで6年間もハノイの安南都護府に在任し、天平神護2年(766年)安南節度使を授けられた。最後は潞州大都督(従二品)を贈られている。結局、日本への帰国は叶えられることなく、宝亀元年(770年)1月に73歳の生涯を閉じた。

なお、『続日本紀』に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣[6]および朝衡の二人のみ」と賞されている[7]。また死去した後、彼の家族が貧しく葬儀を十分に行えなかったため日本国から遺族に絹と綿が贈られたという記述が残っている[8]。



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小雁塔へ・・・これがなかなかのものだった

2017年10月01日 08時01分01秒 | 中国西安怪人紀行2017年9月

ウキによると以下のとおりである。

小雁塔(しょうがんとう、簡体字小雁塔拼音Xiǎoyàn Tǎ)とは、中国唐代長安城内の大薦福寺境内に、景龍中(707年 - 710年)に建立された磚塔である。長安城の城坊では、中央部に近い、左街の安仁坊(旧・安民坊、太宗の名の「民」字を避諱。)の西北隅に当たる、薦福寺の子院(塔頭)である浮図院に建てられた。


西安博物館の中にあって、これもまた凄い文化財がたくさんあった。

ボキは、デジカメを撮りまくってしまった。中国は、写真を撮ってもいいところがたくさんあってありがたかった。これは美点である。ただし、フラッシュはダメだったけど。

西安博物館だけでも100枚は撮ったのである。もう二度と来れないだろうからである。さすがにシルクロードの片方である。

感動していた。一人で。

こんな機会でもないかぎり、中国に来ることもなかったであろうから。

アリガタヤ、アリガタヤである。

 

 

 

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兵馬俑で働いていた方々・・今でも研究中だというのがよくわかった

2017年09月30日 07時43分11秒 | 中国西安怪人紀行2017年9月

おそらくは発掘をしている研究者なのであろう。

こういうフトコロの深さが中国文化にはあるのだ。

たいしたものである。

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回転しゃぶしゃぶなるものを、初めて知ったのだよん

2017年09月30日 07時41分12秒 | 中国西安怪人紀行2017年9月

回転寿司もなかなか行かない。

行っても喰えない。喰ったら糖尿病になっちまう(^_^)。

それにおいしくない。回転寿司では。さらにある。もう年金暮らしでは、寿司なんか喰えないではないか。やっと生きているからである。

しかし、西安でいただいた「回転しゃぶしゃぶ」にはたまげた。まるっきり回転寿司のシステムをコピーしていたのである。乗っかっている材料が野菜であったり、肉だったり、麺であったり、ソーセージであったりした。肉はホントウに少ししかなかったけど。火鍋とかいうらしい。

それにしてもここまでコピーできれば、ホンモノである。

で、逆に考えた。

それは、日本でもこのシステムで「回転しゃぶしゃぶ」をやればいけるのではないかと。

材料は安価だから、儲かるだろう。

誰かヒマな金持ちが作ってくれないかなぁと思った。タレさえうまかったら、千客万来となるだろうからである。

わははははっはははっはははっははははは。

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秦始皇兵馬俑博物院

2017年09月29日 08時43分34秒 | 中国西安怪人紀行2017年9月

 

 

始皇帝も、政治屋も一緒だと感じるのだが。

 

 

秦の始皇帝というのにかなり興味があった。

まるでマキャベリズムの皇帝のような気がするからである。

歴史的にはまだまだ不明なところも多いのであろうが、これを現代に置き換えてみたらなかなか面白い人物であったのではなかろうかと思うからである。

時は、選挙モードになっているから余計そうである。民進党と小池知事のこともまるで始皇帝の時代のようだと感じているからである。

なぜか。

民衆のことが眼中にないからである。

始皇帝もまた、民衆に圧政を繰り返し、膨大な遺跡を作らせた。強制労働である。しかも兵馬俑もそうだが、万里の長城もなんも全部民衆の強制労働であったのだから、民衆はたまらない。遅刻してきても、死刑になったというのだから、これくらいたまらない話はない。

しかも自分の墓であるというではないか。こんなもんを民衆に作らせておいて、圧政を繰り返しているのだからたまったものではない。こんな時代に産まれ無くて良かったよん。

全部自分ら王侯貴族の都合が優先するのだ。

民衆に強制労働をさせて、時間も無制限で働かせていたら、電通ではないが死んじゃうではないか。

ま、世の中は、そういう仕組みになっているのかもしれない。

ボキのような三流大学出身で、しかも博士のなりっぱぐれの半グレジジイではとうの昔に処刑されていただろう。

電通の女子社員も東大卒だった。一流の大学卒を雇い、強制労働をさせて、命を縮めさせてしまう。

そもそも帝王や皇帝というのはそういうものであったのだろう。

だから、革命が起きるのである。

ただの歴史的建造物と思っていたら、この兵馬俑は間違った理解をしてしまう。

強制労働の跡であると思った方がよろしい。

悪政と圧迫、それに強制労働。

昔から、世の中の支配層というのは、民衆を苦しめてきたのである。

ホントウに、そう思ったのである。

マジに。

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ラーメン屋さんで見かけたけど、この字はなんと読むのじゃろう?

2017年09月28日 08時48分00秒 | 中国西安怪人紀行2017年9月

 

誰か教えてたもれませ。西安のラーメン屋さんで見かけたけど。

わははははっはははっははっははは。

で、ネットで調べたらわかりましたよん。




こちら中国の辞典にも載っておらず、もちろんコンピュータ等で変換することもできない超マニアックな漢字の一つとして知られる漢字の一つ。では何に使うか。


実は「ビィアン」と言うのは麺の種類のひとつで「ビャンビャン麺」と呼ばれる麺を漢字で書く場合に使われる。名古屋のきしめんのような形状をしているが、それより遥かに太い麺である。日本でも食べることが出来るという。

またこの漢字の起源は不明で、もしかしたら誰かが勝手に創作した漢字がいつの間にか一般化(普及しているとは言い難いが)されたものではないかと言う説がある。


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中国東方航空というのに初めて乗ったのだが・・・トホホ

2017年09月28日 08時18分34秒 | 中国西安怪人紀行2017年9月

羽田発

飛行機内の食事(ビールも飲んじまったですよん)

 

中国なら近い。

エコノミークラス症候群になってICUに入れられたボキでも、それこそエコノミー席で十分だろうと思った。それに格安弾丸ツアーである。49800円。3拍4日で。国内を旅しているよりずっと安い。年金暮らしにはぴったしである。

楽しみにしていた。

何故か。

それは憧れの中国だからである。

古典的な中国には憧れているからである。

なんと言っても、漢文学をちょっとかじったボキには憧れである。ただし、女房がなかなか承諾してくれなかった。中国が嫌いなのである(^_^)。

なにしろカネは女房の財布の中に全部あるのだから。

で、念願叶って空路上海から西安へ。

ところがである。

さすがに格安弾丸ツアーである。

中国東方航空というのに初めて乗った。機内食も美味しくないと言われていたから、まったく期待はしていなかった。その通りであったから、別にがっかりもなにもしなかった。一番良いのは、中国が近いということである。今まで直行便で片道10時間程度のゼータク旅行ばかりしてきたから、ホントウにアリガタイと思った。

しかし、上海での待ち合わせが、4時間である。乗り継ぎである。上海虹橋国際空港(シャンハイホンチャオこくさいくうこう、中国語上海虹桥国际机场、英語: Shanghai Hongqiao International Airport)であった。

笑ってしまった。

でも、モノは考えようである。乗り継ぎで上海の空港にいるということは、運動できるのである。これはエコノミークラス症候群になってしまった我が身としては、助けになる。少しでも足を動かすことができるのである。

それに中国語の実践練習にもなる。空港でさっそくデタラメ中国語を使ってみたのじゃ。けっこう通じたから、こっちの方が大笑いである。

中国語が出てこない時は、英語にしてみた。なかなか通用しない。英語の方がである。英語のできる人があまりいないと感じた。しかし、嬉しかったのはたとえカタコトであっても、中国語の会話が通じたというのは嬉しかった。

これだとツアーでなくても中国なら来れるかもと思った。

さ、これからアホなジジイの中国貧乏旅行顛末記である。

お笑いくださいませ。

 

わははっはははっははははっははっはははっははは。

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西安弾丸ツアー(^_^)の全体チャート

2017年09月28日 07時48分19秒 | 中国西安怪人紀行2017年9月

憧れの古都西安と弘法大師修行の修行された寺院に行って参りました。9月24日(日)スタート、9月27日(水)羽田に帰ってきました。

以下は、ウキからコピーして、Kindleに仕込んでいったボキのガイドブック(自作)です。いつもこんなものを作ってから出かけております。お笑いくださいませ。

 

 

 


西安市(せいあんし/シーアンし、簡体字: 西安市、拼音: Xī'ān、英語: Xi'an)は中華人民共和国陝西省の省都であり、古くは中国古代の諸王朝の都となった長安である。国家歴史文化名城に指定され、世界各国からの観光客も多い。経済的重要性から大幅な自主権をもつ副省級市にも指定されている。

 

略称:

旧称:長安

 

陝西省中の西安市の位置

中心座標 北緯34度16分 東経108度57分

簡体字

西安

繁体字

西安

拼音

Xī'ān

カタカナ転写

シーアン

国家

 中華人民共和国

陝西

行政級別

副省級市

成立

紀元前16世紀

市委書記

王永康

市長

上官吉慶

面積

総面積

10,990 km²

市区

1,166 km²

海抜

405 m

人口

戸籍人口(2016)

824.93 万人

市区人口(2016)

648.54 万人

経済

GDP(2016)

6,257.18 億元

一人あたりGDP

71,357元

電話番号

029

郵便番号

710000

ナンバープレート

陝A

行政区画代碼

6101

市樹

中国槐

市花

石榴

公式ウェブサイト http://www.xa.gov.cn/

 

 

歴史[編集]

「長安」も参照

西安の古称は長安であり、かつては西都、西京、大興、京兆、奉元等とも称された。古代より政治の中心地として西周から秦、漢から隋、唐の都城と十数の王朝の都として千年の歴史を有す古都である。

 

1369年(洪武2年)、明朝は元朝の奉元路を廃止し西安府を設置、これが西安の名称の初見である・明末の李自成の反乱に際しては、西安に入城した李自成は一時長安と改称したが、清朝により再び西安と改称され中華民国まで沿襲された。1928年、西安に初めて市制が施行され省轄市としての西安市が成立した。1948年には国民政府行政院轄市に改編、中華人民共和国成立後は陝甘寧辺区轄市、西北行政区轄市、中央直轄市、計画単列市と改編が続き、1954年に陝西省都、副省級市となり現在に至っている。

1900年の義和団の乱では西太后ら皇族が戦火の北京を逃れ西安に避難している。また1936年には国共合作による日本政府への対抗を目指す張学良が蒋介石を軟禁した西安事件の舞台となった都市でもある。 

2004年、西北大学が日本人遣唐留学生井真成の墓誌を市内から発見して話題となったこともある。

 西安市は1992年7月に開放都市に指定されて以来、ユーラシア大陸の連絡路として中国西部最大の都市となっている。

改革開放以前も西安は中国経済で重要な地位を占めてきたが、近年はその経済発展に翳りが見える。その原因としては西安の工業に占める重工業の割合が非常に高く、国防産業などの特殊工業に依拠しており、軽工業や技術開発力を軽視した工業政策の結果であり、近年は高新技術産業開発区、経済技術開発区、曲江新区、滻灞生態区、閻良国家航空高技術産業基地の「四区一基地」を設置し、先端技術の開発と産業転化を推進する経済政策が採用されている。

西安咸陽国際空港

市街地から北西へ40kmの距離の咸陽市域に民航総局が規定した七大ハブ空港の一つである西安咸陽国際空港が位置し、70の都市へ129路線(国際線は18都市25路線)が運行され中国国内において北京、広州、上海と共に四大空港に数えられている。現在第二期工事完成、95億9200万人民元を投資し、長さ3,800m、幅60mの第二滑走路と17万平米の新ターミナルビルが建設され完成,は年間利用者数2,600万人、ピーク時は1時間あたり9,616人、年間発着便数は24万9千便、ピーク時は1時間あたり72便、航空貨物は年間36万tの処理能力を計画している。

気候

西安市平原地域は温暖な温帯性の半湿性の季節風気候で、冷暖房が四季をはっきりとしている冬の寒さ、風が小さく、霧が立ち込め、雨が降る。春の暖かさ、乾燥、多風、気候の変化夏は暑さの雨,旱魃が目立つ,多くの雷雨で激しい雨が降る秋は涼しく,気温が急に下がると,秋ははっきりとしている年平均気温13 . 0℃~ 13 . 7℃、一番寒い1月平均気温- 1 . 2℃~ 0 . 0℃盛り、7月の平均気温が26 . 3℃~ 26 . 6℃、年極端な最低気温- 21.2℃(蓝田1991年12月28日)、年極端な最高気温43 . 4℃(長安1966年6月19日)。年間降水量522 . 4 ~ 719 . 5 mmは、北から南に増加する7月、9月は2つの顕著な雨のピーク月です年间の日照时の数1646 . 1 ~ 2114 . 9时间、年间の风の中心に违いがあり、西安市内は东北の风のために、周~戸県区は西风、高陵、临地风、长安は東南风、蓝田は西风となっています。気象灾害は、雨、雨、豪雨、洪水、水の中の水、水の中の水、雨の水、强い风、高温、雷、雾、スモッグ、スモッグ、寒さ、寒さ、寒さ、低温、低温です

 

☆ゴールデン フラワー ホテル (西安金花大酒店)のクチコミ

中国・西安の東端にあるこのホテル。

現在は「シャングリラ」名義は外れていますが、今も室内は広くきれいで、快適な空間。

中国のホテルですが外国人向けなので、トイレットペーパーはゴミ箱に捨てず、水洗でそのまま流してOK!

シャワーの水圧も問題なしです。

繁華街も近く、買い物にも不便しません。

 

 

兵馬俑(へいばよう)は、古代中国で死者を埋葬する際に副葬された俑のうち、兵士及び馬をかたどったもの。狭義には陝西省西安市臨潼区の秦始皇帝陵兵馬俑坑出土のものを指す。

 

兵馬俑坑発掘の経緯

始皇帝陵(驪山陵)の存在は『史記』や『漢書』[1]など、古代中国の歴史書に記されていた。1962年に陝西省文物管理委員会が始皇帝陵園の調査を行い、78の遺跡を確認したのが始皇帝陵の考古調査の嚆矢であるが、兵馬俑の存在は知られていなかった(地域の住人の間では、以前から水を枯らす化け物として兵馬俑の存在は薄々知られていたとの報告もある)。1974年3月29日、臨潼県西揚村の住民6人が村の南に井戸を掘ろうとして土を掘っていた際に、住民のひとり楊志発氏によって兵馬俑の最初の破片が発見された。彼へのインタビューによれば、最初、鍬で土を掘り返していたところ、何か硬いものに当たったという。きっとなにか壺でも有って、昔ここに竈でもあったのだろうと何気なく掘り返していると、人間大の人形が出てきたという。その人形は左足はかけていたが、胴体は無傷で、その人形の脇には青銅の矢が置いてあった、とのことである(TBSのテレビ番組「世界遺産」の兵馬俑の回のインタビューにて)。当初、住民たちにはこの発見の価値は理解されず、発見を知らされた臨潼県文化館も現場の保護と陶俑の修復を命じたのみで上級部門への報告を怠った。2カ月後、たまたま新華社通信の記者の藺安穏が県文化館に立ち寄り、陶俑が秦代の俑であることを見抜いた。藺安穏の記事が共産党の内部報である『状況匯編』に掲載され、指導部の目に止まった。そこで国務院副総理の李先念が国家文物局に遺跡の保護を命じた。同年7月、陝西省が袁仲一を隊長とする考古隊を編成して、現地発掘を開始させた。1年間の発掘で、東西200メートル以上南北60メートル以上におよぶ兵馬俑坑1号坑の全容が明らかとなった。発見された俑は6000体に及んだ。1975年7月21日、新華社通信が秦始皇帝陵兵馬俑坑の発見を報じると、世界的な大ニュースとなった。1976年4月、1号坑の東端北側に兵馬俑坑2号坑が発見された。同年5月、1号坑の西端北側に兵馬俑坑3号坑が発見された。

 

始皇帝陵兵馬俑

始皇帝陵兵馬俑坑では、現在までに約8000体の俑が確認されている。兵士の俑にはどれ一つとして同じ顔をしたものはない[2]。また、かつては兵士の俑のそれぞれに顔料で彩色がされていたこともその後の発掘調査で判明した[3]。指揮官・騎兵・歩兵と異なる階級や役割を反映させた造形は、始皇帝麾下の軍団を写したものである。兵馬俑の軍団は東方を向いており、旧六国を威圧したものとみなされている。21世紀に入った現在でも、兵馬俑の調査・研究は継続されており、近年の調査では、来世へと旅立った始皇帝の為に造設されたこの遺跡は、身を守る軍隊だけでなく宮殿のレプリカや、文官や芸人等の俑も発掘されている。そのため、生前の始皇帝の生活そのものを来世に持って行こうとしたものである可能性が高いと考えられている。

 

武士俑(兵士俑、歩兵俑)

一般的な兵士をかたどったものであり、平均身長は約1.8メートル。軍団の主体を構成しており、兵馬俑坑から出土した数は最も多い。戦袍を着た兵士(戦袍武士俑)と鎧を着た兵士(鎧甲武士俑)に二分される。

 

御手俑(御者俑)

兵馬俑坑1号坑では、随所に4頭立ての陶製馬の引く木製の指揮用戦車がみられた。戦車の後方には3体の俑が並べ置かれたが、そのうち中央か左側に立つのが御者俑である。丈の長い下衣の袍の外側に鎧を着け、頭には頭巾や長冠を被っている。手綱を持つ両手を前に突き出している形状が特徴的である。銅車馬とともに出土した御者の俑は、鶡冠と呼ばれる山鳥の尾をかたどった冠を載せており、高い身分であったことが知られる。

 

立射俑

兵馬俑坑2号坑の東部で出土し、武器として強弩を所持していた。後述する跪射俑とともに弓弩兵の四方戦陣を構成しており、陣の外側に配置されている。

 

跪射俑

前述の立射俑と同様に、2号坑の東部で出土し、武器として弓を所持していた。跪射俑は左膝を曲げて立て、右膝を地につけた形状が特徴的である。下衣に戦袍を着て、外側に鎧を着け、頭頂の左側に髷を結っている。立射俑とともに弓弩兵の四方戦陣を構成しており、陣の内側に配置されている。

 

騎兵俑

将軍俑

兵馬俑としても数が少なく、出土したものは10件に満たない。戦袍を着た将軍と鎧を着た将軍の2種類がみられ、いずれも頭の髷の上に鶡冠を載せている。

 

軍吏俑

文官俑

裾の長い上衣を着て、頭に冠をつけ、腰には小刀と砥石をぶらさげて携帯している。小刀は竹簡を削って誤字を修正するためのものである。

 

百戯俑(力士俑)

でっぷりと肥った腹部と逞しい筋肉をもつ男性の俑。力比べに用いられた青銅の鼎とともに出土している。

 

楽士俑

足を伸ばして座り、足の上の何かを操作する男性の俑。船を漕ぐ人という説もある。青銅製の水鳥とともに出土した。

 

秦始皇帝陵及び兵馬俑(しんしこうていりょうおよびへいばよう)は、中国陝西省西安北東30kmの驪山北側(臨潼区)にある、秦始皇帝の陵(墓)とその周辺にある兵馬俑坑のユネスコの世界遺産(文化遺産)としての総称である。

 

概要

秦の始皇帝は中国史初の皇帝であったが、その強大な力を利用し大きな陵墓を建てた(人形を作り埋葬したのは二代皇帝胡亥という説もある)。これが秦始皇帝陵である。1974年に地元の住民により発見された。また兵馬俑坑は、この陵を取り巻くように配置されており、その規模は2万m2余におよぶ、きわめて大きなもので、3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8000体ちかくあり、みな東を向いている。

この兵馬俑の発見は特に、中国史の研究上、当時の衣服や武器・馬具等の様相や構成、また、始皇帝の思想などを知る上できわめて貴重なものである。兵馬俑坑は、現在発掘調査がなされ公開されている箇所だけでなく、その周囲にも広大な未発掘箇所をともなうが、発掘と同時に兵馬俑の表面に塗られた色彩が消える可能性があることなどの理由から、調査がなされていない。

史記は始皇帝の遺体安置場所近くに「水銀の川や海が作られた」と述べる。この記述は長い間、誇張された伝説と考えられていたが、1981年に行われた調査によるとこの周囲から水銀の蒸発が確認され、真実である可能性が高くなった。

 

西安博物院

小雁塔のある敷地内に西安博物院があります。2007年にできた新しい博物館です。せっかくここまで来たことだし、50元のチケットはここの入場料も含まれているのですから、入ってみました。

 入ってすぐの大広間に古代西安の地図があります。1階にいては大きすぎて気づきにくい。2階に上がると、よくわかります。気づかず通り過ぎている人もいますし、立ち止まって詳しく観察している人もいます。

 西安博物院1階床面には、古代都城マップ。それを踏みつけていく参観者たち(左上)。

  

《白線・赤字の説明はハシムによる注》

  博物院の1階床一面が大きな古代都城のマップになっています。たまたま人通りが少ない隙を狙って2階から撮りました。

 現在に残る城壁は明代城壁です。(この後、明代城壁に上って歩きます。)

唐代の城内はそれよりももっと広いものだったのがわかります。

その他、現在の西安郊外には、周の都:鎬京(こうけい)、秦の都:咸陽(かんよう)、漢の都:長安の城壁跡などがあったのも確認できます。

 

 周(西周)(紀元前11世紀~紀元前770)の都・・・鎬京

 秦(紀元前221~紀元前206)の都・・・咸陽

 漢(前漢)(紀元前202~紀元後8)の都・・・長安

 隋(581~618)の都・・・大興城

 唐(618~907)の都・・・長安

 

 小雁塔(薦福寺)・・・義浄ゆかりの寺

 

入り口                      前の道路

【左】小雁塔の入り口です。左側の窓口で50元(約750円)で入場券を買います。小雁塔の入場券は敷地内にある西安博物院の入場券も兼ねています。小雁塔にだけ行くのでも西安博物院のチケットを買わなくてはならないようです。

チケットの値段が高いので文句を言っている欧米人がいました。その欧米人は「小雁塔にだけ行きたい、博物院には行かないので、チケットを買わずに中に入りたい」と言っていたようです。しかし、聞き入れてもらえませんでした。不機嫌な様子で帰っていきました。

 私はせっかくタクシーに乗ってまでここまでやって来たのだから、買って入場しました。

 

【右】小雁塔前の道路です。西安の道路は広いのですが、車も多いため、あまり広さを感じません。ここはそれでも少し裏通りなのか、車の少ない瞬間を狙って撮ってみました。

 

 

小雁塔

敷地内は広い公園になっています。池越しに小雁塔を眺めます。

小雁塔は薦福寺というお寺の境内にあります。薦福寺は684年に建てられています。海を渡ってインドに行った義浄に関係するお寺です。義浄はインドで25年間滞在し、695年、サンスクリット語の経典を長安に持ち帰りました。(玄奘帰国の50年後のことです。前ページ参照)そして、この薦福寺を翻訳の拠点として使ったのです。

 小雁塔は707~710年に建てられています。大雁塔の50年ほど後のことです。

 

大雁塔広場と大唐芙蓉園

大唐芙蓉園は古都、西安市の曲江新区に位置し、芙蓉園の西には大雁塔、北には海洋館、そして南には唐城壁があります。芙蓉園は昔から名高い皇室の庭園です。

 

興慶宮(こうけいきゅう)は、中国陝西省の古都、長安(西安市)において、唐代に造られた宮殿。唐の玄宗の時代に政務が行われたことで知られる。現在は、建築物はなくなっており、礎石が一部残るだけである。跡地に「興慶宮公園」ができており、阿倍仲麻呂の記念碑などがある。

  

大雁塔がある大慈恩寺は玄奘三蔵ゆかりの寺

玄奘三蔵と大雁塔(西安の大慈恩寺)

大雁塔(だいがんとう)は唐の時代の高僧、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)がインドから持ち帰った仏教の経典や仏像などを保存するために、当時から大寺院であった長安(今の西安)の大慈恩寺に建てられた塔です。玄奘三蔵は大慈恩寺の高僧で、玄奘三蔵はこの大雁塔の設計にも携わっています。

玄奘三蔵がインドから帰ってきたのが645年。唐は名君と言われた二代目の太宗が皇帝の時代で、太宗は玄奘三蔵が持ち帰った経典の翻訳を指示し、玄奘三蔵はこの翻訳を彼が没する664年の直前まで続けた。

写真は玄奘三蔵の像と大雁塔です。

 

 

 

 

青龍寺

青龍寺(せいりゅうじ,しょうりゅうじ)は、中国陝西省の古都、西安市南郊の雁塔区鉄炉廟村にある仏教寺院であり、弘法大師空海ゆかりの寺として知られている。

その故地は、唐朝の都、長安城においては、左街の新昌坊に当たる場所であった。

歴史

創建は、隋の開皇2年(582年)であり、当初は霊感寺と呼ばれた。初唐の武徳4年(621年)に一度、廃寺となったが、龍朔2年(662年)に再建され、観音寺と改められた。

青龍寺と改称されたのは、景雲2年(711年)のことである。

唐中期には、恵果らの密教僧らが住持するようになり、入唐留学僧たちとの関係が生まれた。空海は恵果に学び、天台宗の円仁や円珍らも恵果の法系に連なる法全に就いて密教を学んだ。

会昌5年(845年)、会昌の廃仏によって再び廃毀された。しかし、大中6年(852年)には、いったん復興を果たし、護国寺と改められている。ただ、唐末五代の動乱によって、都の長安は急速に寂びれてしまった。そのため、以後三たび姿を消すこととなった。

復興

1982年以来、西安人民政府が、青龍寺の遺址と伝承されてきた石仏寺周辺の発掘調査を行い、多数の唐代の遺物を発掘し、この地がいにしえの青龍寺であったことを確かめた。

青龍寺は復興され、そこには、日本からの寄贈で、空海記念碑、恵果・空海記念堂が建つ。また、元四国霊場会会長蓮生善隆(善通寺法主)により四国八十八箇所の零番札所と名付けられた。

 

西安の天気

西安[xi an]の月間平均天気・気候情報

月           1月        2月        3月        4月        5月        6月        7月        8月        9月        10月      11月      12月

平均最高気温(℃)

              5            8            14          21          26          32          32          31          25          19          12          6

平均最低気温(℃)

              -4           -1           4            9            14          19          22          21          16          10          3            -3

降水量(mm)

              7.3         10          25.8       44.8       58.3       57.9       100.6     76.9       95.4       62.4       26.1       6.7

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西安5日間ハイライト

2017年09月24日 04時05分20秒 | 中国西安怪人紀行2017年9月

西安5日間ハイライト

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中国縦断貧乏旅2016 Part3 西安 China trip⇒Madguy

2017年09月24日 03時46分36秒 | 中国西安怪人紀行2017年9月

こういう人もいるんですねぇ。楽しそうだなぁ。

 

中国縦断貧乏旅2016 Part3 西安 China trip⇒Madguy

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10 「西安 永遠の都」(2005年12月11日)

2017年09月24日 03時44分03秒 | 中国西安怪人紀行2017年9月

中国語字幕がついているのだが、日本語は理解できても中国語が・・・。

やはりボキは、昔の古典的中国が好きだよん。

行ってみたいなぁ。

ガイド付きでないと無理だけど。

 

 

10 「西安 永遠の都」(2005年12月11日)

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/