AとBの二点対立的視点というのを昨日書いて、もう一つ思い出したことがあった。それは、教育においても、二点の対立した要素が無いと、なかなかうまくいかないということを書きそびれた。
つまりこういうことである。
大変厳しい父親がいて、子どもを厳しく男らしく育てようとした時に、妻の方の男兄弟が父と反対の役割を演じるというものである。またこの逆の場合もある。甘い父親だったら、妻の方の男兄弟(兄弟でなくてもいいが)がそれこそ補完的に厳しく教育をするのである。
なんの本に書いてあったか、ど忘れしたが、確かレヴィ・ストロースだったと思うが、これから調べて、間違っていたら夜にでも書き直します。
これは非常にいい教育についての材料である。今、アフリカ文化史という分厚い本を読んでいるが、これもまた子育て論を形成するのに良い本である。まだ読了していないから、またの機会に読書感想文でも書きたい。
話を戻す。
たった一つの価値だけを押しつけて、子どもを教育してはならないという見本でもある。たとえば、知的欲求のみを子どもに押しつける。進学進学とか連呼して(まるで選挙のように)それで、教育は事たれりとしてはならないと思うのである。
あるいは、柔道ができるからといって、柔道精神ばかり押しつけてはならないのである。そのことを厳しく自己に制限をかけなくはならないと思うのである。
子ども達は、総合化された大人達を見て、育つのである。あるいは考えるのであって、それでなくては、生きる力はつかない。たった一つの大人の価値や、親の要求を丸呑みして育ったのでは、親のコピーでしか無い。そんなのはあまり感心しない。感心どころか、大いに心配である。
駄目親父になってはならない。愚生のように。(^0^)
だから書いているのである。
ロールモデルというのが必要なのである。子どもには。ああいう大人になりたいという役割を持った大人が。そういう大人を周囲に持っていない子どもはさみしい。モデルがいないからである。
どうやったらあんな風にかっこうよく柔道の技が決まるのかとか、なんでも知ったかぶりしてへらへらしゃべっているとか、じじぃになってもどっかの大学に行ってわけぇ~しゅうと一緒に勉強して活き活きしているとか。(うっううう、と~ま君のように?=爆笑)
しかも、そのロールモデルは単一であってはならない。複数必要である。子どもに考えさせる時間を与えなくちゃならんと思うのである。離婚して、旦那がいないっていう場合には親族に依頼する。あるいは、近所の親切そうな老人に依頼する。それでいいのである。
大事なことは、親が引きこもって(父親でも、母親でもどっちでもいいが)、あらゆる人間関係を断って教育しちゃならんのである。仙人を育てているのではないからである。簡単なことである。相談すればいいのである。公的な機関もある。どうか活用していただきたい。孤独はいけない。どんなに能力があろうとも、子育てだけは、才能とか、天才秀才とかは関係がない。あくまで人間としての総合力である。
学校が一直線に、一つの目標に向かって邁進するというのもいいだろう。個性的な先生方と、管理職が一丸となって突き進む。それはそれでけっこう。おおいにやりなさいと応援したくなる。
しかしである。
生徒の側には醒めた目で見ているのもいるかもしれないのである。このことを忘れてはならないと思う。いいのだ、そういう生徒もいて。そして、多数の生徒がいろいろな価値観を持った人間関係から学んでいくのである。それが大人になっていくという証なのである。
組織の伸張というのも、反対分子がいてはじめて効果的な戦略ができる。そして、実行に移すことができる。全員が賛成では、逆に問題があるのだと思った方がよろしい。いろいろこの面では心配な国際情勢があるけど。
書きそびれたついでに、またまた雑談をしてしまった。
「と~ま君のようなおじーさんにならないように」というロールモデルには、愚生はなりそうではある。
あはははである。
(^_-)-☆
※教育についての駄文も書き始めました。恥ずかしながら。