と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

ジジイになってからというもの、かなり適当になってきたが・・・トホホ

2017年02月28日 07時34分50秒 | とーま君の流儀2017

今日は天気がいい。朝から、快適である。九十九里浜は冬でも温暖。ジジイには過ごしやすいところなり。あまり快適過ぎて、ぼーっとならないようにだけはしまひょ。ボケるから。

 

 

ジジイになってからというもの、かなり適当になってきた。否、昔からそうか(^_^)。

なんだか、本を読んでいても適当なのである。若かりし頃は、真剣にアンダーラインやサイドラインをひいたりした。さらにご丁寧に、情報カードにしてみたり、ノートもとっていた。マーカーも一度目と二度目は色を変えたりした。なんと、重要な書籍は三回目も色を変えて読んでいたことがある。

もうそんなしんどいことはやっていない。いないが、ある分野にかぎっては、再度ノートとりも始めた。ルーズリーフは嫌いだったのであるが、なんとそれをやり始めたのである。ルーズリーフは分厚くなるのでイヤだったのである。持ち運びに不便であったから。

で、気がついたことがある。それは、もうボキは「持ち運び」する必要がないということである。仕事がないのだから、勤務先に持っていって会議なんかで使う必要がないというわけである。それにようやく気がついたのである。

要は、記憶できればいいのであって、なにもノートをとること自体に目的があるわけではないのである。ノートや、カードを作ることが学ぶことであると思ってきたがそうではないのである。記憶できなければ、話にならないのである。ライセンス取得のためには必須である。

なんでそう思ったか。

それはスマホである。スマホに映像を入れてあるからである。スマホの映像で、大人の基礎英語とか、中国語の単語とか入れてあってそれを見てニヤニヤしているからである。映像から覚えようとしているから、ボキのようなジジイでもできるのじゃよん(^_^)。

楽しいしねぇ。

スマホには、中国語の歌も入れてある。まずは耳から慣れようとしているのだが、こっちはかなり難しい。知っている日本の流行歌を中国語で歌ってくださっている方がたくさんいるからありがたい。中には、ピーインまで書いてくださっている方もいる。

生涯学習ごっこでありますなぁ。

スマホは、使い方がよくわからなくて、電話に出るのも四苦八苦。電話に出られないんだったら、こんなもん捨ててしまおうかと思って、auの店まで行ったこともある。その都度、丁寧に教えていただいて、捨てることはなかったが。しょうもないジジイユーザーであると思われたことであろう。あれだけ、スマホはよしなさいと言われたのに言うことを聞かないジジイである。ガラケーのままお使いくださいと、auの社員から言われていたから。

わはははっははははっはははは。

スマホで記憶する。

ふうううううううううううううむ。

なかなかである。

楽しい。

昨日も、ショッピングセンターの駐車場で見ていた。スマホを。

相手はテレサテンである。綺麗な女性である。ウハウハである。声がである。否、声もである。こういう中国語を話せるようになるにはあと100年かかるだろうけど。それまで生きていなくちゃねぇ。

無理でしたな。

無理。

無理なことはしないこっちゃ。

今日は天気がいい。朝から、快適である。九十九里浜は実に冬でも温暖。ジジイには過ごしやすいところなり。

あまり快適過ぎて、ぼーっとならないようにだけはしまひょ。

ボケるから。

さ、walkingやって図書館行って・・・やることはいっぺぇある。一日楽しく過ごします。

 

(^^)/~~~

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2月27日(月)のつぶやき

2017年02月28日 04時58分08秒 | とーま君の流儀2017
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又吉直樹氏のことを扱ったNHKの番組を見て・・・

2017年02月27日 08時21分16秒 | とーま君の流儀2017

プロは違うなぁと思った

 

 

芥川賞作家であって、芸人の又吉直樹氏のNHK番組が昨日放送された。注目していたので、録画もとった。しかし、録画と同時進行で見てしまった。メモまで持って。

一言感想。

すばらしい番組だった。こういう才能があるんだと正直思った。いろいろな現実の出来事を、自分がどう受け止めたかということを非常に大事にされている同氏の姿勢に豊かな才能を見た。また、そういう才能を発見し育成していった編集者の存在も見事なものであった。文藝春秋社や新潮社の編集担当の方々(今回文藝春秋社の方は登場してこなかったけど)である。

なんだかロシア文学あたりに出てくる青年みたいで、好ましい映像がたくさん出てきた。

同氏は、三鷹台あたりに夜中タクシーを飛ばして行く。20代の頃にここに住んでいたとのことであった。そして歩く。夜中の三鷹台を。

そこから自分の意識の中に登場してくる暗闇を扱っていくのだそうな。

なるほどである。意識と想像。そういうものが執筆の時に登場してくるのをじっと待っているのだそうな。

さもありなん。

さらに参考になったのが、同氏の執筆ツール。SONYのVAIOを使っていたのであるが、ワープロの画面に原稿用紙スタイルが映し出されていた。

これがキーワードである。つまり、原稿用紙スタイルだと文章を打鍵する際に、かなりのパワーを要する。苦心していく。そりゃそうだろう。ボキのようなデタラメではないからである。さすがプロである。

芸人としてもプロなら、小説家としてもプロ。

プロは違いまんな。

スタイルも、思考方法も。

いい勉強になりましたよん。

 

以下はNHKのサイトから

http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20170226

>京都内の、とある場所にある、築30年の風呂なしアパート。6畳一間。この部屋を選んだのは、食うにも困った時代を自分に忘れさせないためだ。2015年に「火花」で芥川賞を受賞した、又吉直樹(36歳)の仕事場である。処女作「火花」は、250万部という驚異的なベストセラーとなった。本など読んだこともない若者達が、漫画を読むように手に取り、初めて小説の面白さに触れたという者も多い。しかし、純文学では、処女作が最大のヒットとなり、そのまま消えていく一発屋も少なくない。今、又吉直樹は、このストイックな部屋で第二作の執筆に挑んでいる。作家としての真価が問われる、大きな正念場である。

しかし、なかなか物語は立ち上がっていかない。売れっ子芸人でもあり、執筆の時間も限られている。最も苦悩しているのが、文学性と大衆性を両立させることである。文学などに関心のない若者たちに読んでもらえるものとはどんな作品なのか。睡眠時間を削り、魂を削りながら苦闘を続ける。 番組では、又吉直樹の第二作の執筆に密着する。私たちが普段見ることのできない、ひとつの作品が生まれるまでの創作の過程を、カメラは克明に記録する。

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2月26日(日)のつぶやき

2017年02月27日 04時56分12秒 | とーま君の流儀2017
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川原で脚を洗っている美女を天上から見て、落っこちた仙人様って・・大好きです

2017年02月26日 08時54分00秒 | とーま君の流儀2017

大きな欲望を持てば、自然に自分を根底から変えることができるのである。なんだか、近代的知識人というのは、その辺りを勘違いしている。ボキは知識人ではないから、堂々と言えるんだけど(^_^)

 

 

欲望をコントロールできるという御仁がいるらしい。悟った方である。あるいは、欲望を捨て切ってしまっている方。らしいというのは、そういう方にまだお目にかかったことがないからである。是非ともお会いしたいものであるが。

しかし、そんなことが可能なのだろうか。

ボキにはできない。当然できない。ボキのこれまでの人生は、欲望にまみれて過ごしてきただけであるからだ。

わははっはははっはははっははは。

なにも照れ隠しで言っているのではない。欲望を捨て去って、深山幽谷に生きるなんてぇことはできないからである。出家と言っても、完全に人間界から離反していったわけではないだろうに。ブッダだって出家したものの、完全に人間界から離反したわけではなかった。

一人ぽつねんと孤独のままに生きているなんてぇことはウソである。もしそれを仙人のように標榜するのならば、やってみればいい。仙人なんているわけないではないか。

せいぜい河原で足を洗っている美女の美しさに戸惑って、天上から落っこちた空飛ぶ仙人様のようになるだけである。

この話だって、人間界が関わっているではないか。

ちなみに、こういう話である。久米の仙人である。

「天平年間(729年~49年)のこと、厳しい修行の末に体得した空飛ぶ術を使って、一人の仙人が空を飛んでいた。すると眼下に流れる小川のほとりで、若い娘が洗濯をしていた。前の川面を見ると娘の白いすねが映え、仙人は思わず見とれてしまった。その瞬間、術は破れて、あっという間に娘の前の川中に墜落していた。術を失った仙人は、その後、娘を妻にして、平凡な人夫暮らしをしていた。ある日、仙人の前身を知った役人が、仙術で大量の材木を山から飛ばして運んで欲しい、と難題をもちかけた。これに発奮した仙人は、7日7晩の断食をして術を取りもどし、見事に巨木を運んでしまったという。この功績により天皇から賜った田地を、仙人は久米寺に寄進した。現在、久米仙人が墜落したと伝えられる久米寺近くの芋洗川には、芋洗地蔵がまつられている。」

笑ってしまうような珍妙な話である。

仙人と言えども、世間の価値観から逃れられないようである。

むしろボキはこういう仙人様に親しみを感じる。人間らしくていいではないか。

悟りすまして、自分は欲望を完全にコントロールしている。どんな美女を見ても、骸骨に肉切れが付着したものであるというご高説は言わない。言えるわけがない。

自分のやってきたことは、自分が知っているからである。どんなに悪業三昧をやってきたかという思いは、今でもあるからである。

ムシも平気で殺してきたし。昆虫採集とか自称して。マジに。

川魚の類いはもっと大量に釣りと称して殺傷してきたのである。おいしかったけど。

山奥で、野生の鳥をパチンコで殺傷したこともあった。さすがに、こっちは喰ったことはないが。

仕事人時代もそうだった。人を喰っていたのである。人を喰ってなんぼの世界であった。バカにされる、仕返すというような魑魅魍魎の世界であった。ま、こちらの世界については、これくらいにする。守秘義務があるので(^_^)。たいした世界ではなかったけど。

空海の「理趣経」には、「大欲得清浄」ということが書いてある。実はこれに大いに賛同するからである。

昨日、理趣経について調べていたらますますのめりこんでしまったよん。大欲を持てと言われるのじゃ、この経典は。ちょっと危険なお経だから、立川流とかの異端も生じたし。

しかし、言っていることは正しい。大欲を持てと言うのである。

欲は簡単には制御できないからである。人を好きになる、人に好かれたい、大金が欲しい、有名になりたい、楽な暮らしがしたい等々と思うことは完全否定することはできないではないか。あるいは、最近のボキが時々思っていること、すなわち「美しい生老病死」でありたいというのも大欲の一種である。美しく生きて、美しく老いて、美しく病気にもなり、美しく安らかに死んでいきたいと思っている。だから、またまたロクでもないと言われても、プチ修行を始めたのである。言わば終活の一種である。

欲望をコントロールできないからである、ボキは。

悟っていないしねぇ。だったら、欲望を完全に肯定してさらに肥大化していってもいいではないか。全人類を好きになり、全世界の平和を願ってもバチは当たらないであろうから。カネもあればあるだけ欲しい。

大欲は清浄を生み出す。

大きな欲望を持てば、自然に自分を根底から変えることができるのである。なんだか、近代的知識人というのは、その辺りを勘違いしているということである。

 

本日も快晴なり。

Gymにも行く。

実はある寺院にも行ってくる。終活のためである。ボチボチ、ボキの入る墓地を捜してくるからである。(掛詞である)

わはははっははっはははっはははっはは。

 

また夕方お会いしましょう。

(^^)/~~~

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2月25日(土)のつぶやき

2017年02月26日 04時54分03秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年
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生老病死をどう受け止めるかということになる。ボキの人生最大・最後のオツトメは。

2017年02月25日 09時12分11秒 | とーま君の流儀2017

生老病死も美しくありたいもんである。マジに。


 

「生老病死は苦である」とはかねてより聞いたことである。でも、ホントウにそうか。

生きることも、老いることも、病気も、死も全部苦か?と疑問に思っている。死だけは経験していないのでよくわからんが。

生きることもそんなに苦ではなかったように思う。楽しんで生きていれば、苦しみの対象ではなかった。青春時代みたいなもんである。もっとも、ボキの青春時代というのは、真っ暗闇であったけど。高校時代は、かなりなプレッシャーがあったから。ボキ以外のクラスメイトは秀才で、まったく出来の悪いボキは劣等生としての三年間を過ごしたから最悪であった。

でも、バカはバカなりに生きていたのである。応援団や柔道部でバカばかりやっていた。ある種のつっぱりみたいなものであった。あれはあれで懐かしいと思う。もう二度とできないだろうから。

大学学部時代もそうである。苦学したから、普通に見れば暗黒の時代であろう。事実、某一流女子大で教授をやっている親友は、新聞店に来てくれて涙を流してくれたっけ。ありがたいものである。

それでも、ボキはシアワセであったと思う。いろんな人が同情してくれたけど、「美しい青春だった」と今でも思っている。二度と経験できないからである。あんな、朝3時30分に起きて朝刊配達に行けるかと聞かれたら、今はできない。夕刊配達も4時から始めていたからこれまた傍目には大変であろう。さらに集金もある。ノルマであった。それはそれなりに、「美しい青春だった」と思っているからである。

受け止め方次第なのである。実際は。

二番目の「老い」。

とりわけ、老いることを忌み嫌う方々が多い。老いさらばえるという言い方があるように、汚いものにでもなるような表現をされてしまう。そんなに汚いのであろうか。

老いることは現在進行形なので、これからどうなるかわからん。みっともない老いを生きていくのかもしれない。それでもいいと思っている。

それでもいいけれども、基本には「美しい老い」を生きていくつもりである。生涯学習ごっこをやりながらである。要するに受け止め方次第である。美しい生き方をしようと思っていなければ、自覚と行動が伴わないのである。

だから、前職でなにをやっていようとこだわってはならないのである。肝心なのは今である。今、何を考え・行動しているかである。過去は関係ないのである。過去というのは、過ぎ去ってしまったものであって、取り戻すことはできないからである。

「美しい老い」と言っても顔のことを言っているのではない。表面のことではない。身体も顔もそりゃ衰える。シミもできる。皺もできる。そんなことを言っているのではない。

ま、言わずもがなである。

三番目の「病」である。

こちらはもう散々書いてきた。エコノミークラス症候群になってICUにいたことを書いてきた。それでもって博士になってみたいという大望を捨ててしまったからである。某大学大学院を中退してしまったからである。三年間お世話になったのであるが。

それも「美しい思い出」である。16日間も入院していて、あれはあれで懐かしい。

そして、人生の大回転をしてしまったのである。考え方やものの感じ方がまったく変わってしまった。病院のベッドでなにもすることがないから、毎日ノートをつけてこれからの人生を考えていたのである。それで、大学院を中退することにしたし、これまでの生き方を反省し、修正をしたのである。

「美しく生きていきたい」としみじみ思ったのである。マジにである。そう思ったら、ますます生涯学習ごっこにのめり込むしかないではないか。

人生は虚しいとか、はかないとか、空虚であると嘆いてばかりいても時間はドンドンたっていくのじゃ。ニヒリストはそのあたりを理解していない。

人生は美しく生きていっても、全然構わないのである。なにを考えても、どんなことで悩んでも時間だけはドンドンたっていくのだから。

だったら「美しく」生きていった方がいいではないか。

最後の「死」。

これだけは経験していないので、書けない。ブッダも孔子様も不知とされているし。書いちゃいけない。

それでも、ボキの死に顔は美しいだろうと思っているのじゃが。タブン。

わはははっはははっははははっはは。

 

(^^)/~~~

 

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2月24日(金)のつぶやき

2017年02月25日 05時01分21秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年
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新年度が近いけど、やることもあまり無いしねぇ~~~~

2017年02月24日 17時09分20秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

新年度が近い。

まだまだ先のような感覚でいたが、急ピッチである。アルバイトをさせていただいているから、メールでいろいろと打ち合わせがある。それでもって、さっきまで打鍵していた。なにしろ、正規の仕事をさせていただいているわけではないので、直接お目にかかってというわけにはいかない。メールだけだと、いろいろとミスをするから怖いのである。ホントウは、膝詰め談判というのが好きなんだが(^_^)。

塾もそうだ。週にフタコマしかやっていないから、誤解を生じる可能性がある。それに終わったらすぐ帰ってしまう。だからコミュニケーションができない。打ち合わせなんてもんもまったくないし。

所詮アルバイトである。だから、黙ってやっているに限る。

ま、極力慎重にやっているというだけである。ミスしたら、相手に迷惑がかかるからである。迷惑をおかけしたら申し訳ないではないか。そういう意味では、ボキは見た目と違うのである。けっこう真面目なんである。

わははっはははっはははっはははは。

さっき、ローソンに白洲正子女史の書かれた「かくれ里」という本を取りに行った。Amazonから来たので。楽しみにして読み始めた。そしたら、あっとなった。こんな面白い本を読んでいたら、ボキ、これから塾でアルバイトがあるっちゅうのに、行きたくなくなってしまうではないか。

ヤメタ。

17:05である。

さぁ、雨戸でも閉めながら、化粧でもしまひょ(^_^)。

鬚もあたっていくけど。たいして変わらんか。今日は女子中学生二人を担当するから、靴下くらい履き替えていくのじゃ。それでなくてもジジイはクサイからなぁ・・・・トホホ。

 

(^^)/~~~

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現代文授業の資料・・・かの有名なる林修先生はこうやっていたのか (^_^)

2017年02月24日 12時27分01秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

東大進学特進の該当生徒に公開授業




「今でしょ」のチョー有名なる台詞で林修先生のことを知ったのは、いつだったか覚えがない。そんなに前のことではないだろう。先生は、東大法学部のご出身だそうである。たいしたもんである。で、その先生が**ハイスクールで現代文専門で講師をなさっていると聞いていたから、いろいろと資料をあさっていたのじゃ。

実は予備校の授業風景というのをスマホに入れて、gymで歩いているときに見ながらやっているからである。授業見学のつもりである。だからあらゆる機会を使って、いろいろな予備校や塾の指導法をsearchしているのだ。楽しいからである。

そしたら偶然入手することができた。東大進学特進の該当生徒に公開授業をなさったという。その時に使われた資料だそうな。ガセネタかもしれないが。

驚いた。こうやってご指導なされているのだというその一点に限ってである。たいしたもんである。目から鱗である。詳細は省かせていただくけど。

資料というか問題文の扱い方が実に秀逸である。

それでもって、ボキも図書館で真似をしてみた。ボキの持参したあるライセンスの教本に林修先生流で書き込みをしてみたのである。

で、最初別の本も持っていったんでそちらのノートもとろうと思ったのだが、林修先生流の資料の読み方がおもしろくて片一方だけになってしまったのじゃ。

わはははっはははっははははっははっははははは。

無駄なことばかりやっていますなぁ~~~~~。

でも楽しかったですよん。

 

(^^)/~~~

 

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不動明王を見ていると(あまり見たくはないのだが)

2017年02月24日 08時57分18秒 | とーま君の流儀2017

もっとしっかりせぇ!って怒られているような気がしてしまう

 

 

不動明王の像を見ていると実に恐ろしい。誰だってあの像を見ていると安心できない。それにボキはいつもオノレのダメさを自覚して生きているから、余計にそう感じてしまう。

もっとしっかりせぇ!って怒られているような気がしてしまうから。

もっとも、元々しっかりしていないからそう思うのである。

ボキは、他人に自慢できるようなものはなにもねぇし、エラそうに忠告できるような内容も持ち合わせていない。だから、柔道が弱かったのである。自分に自信がないからである。しょうがねぇではないか。

でもねぇ、梅原猛先生の論文を昨日図書館で読んでちょっと考え込んでしまった。大欲を持ちなさいと空海は言ったという内容の論文である。書かれていたのは、「講座密教」というシリーズである。そのシリーズ本を合計5冊一気に借りて読んでいたのである。県立図書館三館のネットワークがあるから、あちこちから集めてくださったのだ。感謝しつつ、読んでいた。ノートもとりながら。しかし、借りている本だから書き込みができない。これが残念であるが。

と、思ってちょっとキーボードから離れて、たった今(8:37)Amazonを覗いてみたら売っていた。たった1円。宮坂 宥勝 『講座密教〈3〉空海の人生と思想 (1976年)』である。速攻で買った。ありがたい、ありがたい。家に来るのが楽しみである。宮坂宥勝先生は、義母の菩提寺の午前様も教わったらしい。真言宗智山派のトップであったから。借りた5冊は、全部宮坂宥勝先生のキーワードで捜したら図書館にあったから借りたのである。興味があるので。宮坂宥勝先生に。

わはっははははっはははっはは。

真言宗とか、浄土真宗とか宗派にはこだわってはいない。別に仏教でもキリスト教でもかまわない。たまたまご縁があったからである。義母が亡くなって真言宗に葬られているから、寺院に出入りするようになったからである。だから、ご縁があると思っているだけである。

自己を見つめてみたいと思っているだけである。ただそれだけである。終活である。どうやって死んでいくんだろうと、しみじみ思うからである。

某大学大学院博士後期課程に在籍していた二年前に死にかけてから、冗談ではなくなってしまったからである。何度も書くが、エコノミークラス症候群になってICUに入ってからだ。そんなことを考え始めたのは。

そんなわけで、来月は成田山新勝寺にも行ってくる。土曜日に、お経の講話がある。HPで知った。是非拝聴したいと思って昨日新勝寺に電話してみたらOKであった。配偶者と一緒に行ってくる。ちなみに無料であった。むろん義母の菩提寺とも関わりがある新勝寺である。だから行ってみるのだ。同じ宗派だし。

なんだかダンダン不動明王様と親しくなっちまうですなぁ。激励されていじけている場合ではなくなっていますなぁ。

 

さ、今日は天気がいい。図書館にも出かけてきましょう。

 

(^^)/~~~

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2月23日(木)のつぶやき

2017年02月24日 05時00分22秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年
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昨日で終わった、老人大学が。

2017年02月23日 07時36分17秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

4月からは終活を見据えて、プチ修行日記を書き始める・・・(^_^)

 

 

昨日で終わった。老人大学の授業が。来週は、古文書講座の方に出席するから、老人大学の方は欠席する。だから最終日であったのだ

老人大学には感謝している。卒業できたからではない。もっとも、卒業式は来月の7日である。まだであるが、卒業は確定しているから感謝しているのである。千葉市にある県文化会館で行われる卒業式には出ないけど。式の後にご学友様たちと飲み会があるからである。仕事人時代にいつも行っていた料理屋である。なぜか。行ったら呑み始めるからである(^_^)。

もうこりごりだからである。酒は見ただけでゲップが出るからである。他にもたくさんある。ゲップが出るのは。その筆頭がおバカなミニスカオネーチャンである。

わはははっはははっははははっははははは。

ま、冗談ばかり云っていた二年間であった。ホントウに、仕事以外の人間関係ができたし。だから感謝しているのである。

卒業後も、年に二回ゲートボールをやりに、白子というところで泊まりがけの旅行に行くことになったし。

これが一番である。そうなのである。こういう付き合いをしたかったのである。そういう意味では成果があったのである。だからありがたいと思っているのである。

なれ合いでもない。なれ合いということなら、仕事人時代の方がそれに当てはまる。いつまでも、現役時代の人間関係をひきずっている必要は無い。これから、実際に老いていくのだから(もう老いているけど)、いつもいつもチャレンジしていくことである。イノベーションである。

ものにならなくてもいいではないか。

成果は不要である。利潤追求の時代は終わったのである。地位や名誉なんか求めても無駄である。ボキはそんなの今でもないが。カネもねぇし、カミの毛もないではないか。無所物である。

しかし、来月からどうすんだ?というのがある。

とりあえず、この老人大学カテゴリーは閉じるほかない。だって、もう卒業という形で追い出されるのであるから。

これからは、「プチ修行日記」というカテゴリで記事を書いていこうと思っている。カテゴリー名は変わるかもしれないけど。

なぜなら、あちこちの寺院で講座を聞いてみたいと思っているからである。成田山にも行ってみたいし。仏教講座に。西本願寺にも行ってみたい。通信教育で。

そういう楽しい時間がボキを待っているのである。

つまり終活である。終わりを見据えて、次年度はやっていくつもりである。あくまでもプチ修業である。知識を得るためではない。そんなのを求めても、学業劣等で某大学大学院を中退した身である。なにをいまさらである。

 

今日からまた図書館に行く。二週間ほど蔵書点検で入館できなかったから楽しみである。歩いて行ってくる。雨が激しくならないかぎりは。

ルンルンと。

 

(^^)/~~~。

 

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2月22日(水)のつぶやき

2017年02月23日 05時02分21秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年
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最後の登校日 ううううう

2017年02月22日 08時09分44秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

今日で老人大学最後の登校日であるが、実にお世話になった。ありがたい限りである。

 

 

 

今日で老人大学最後になる。

来週は、古文書の会に行かなくちゃならない。したがって、老人大学の方は午前中欠席するからである。同時進行で来週は、授業がある。あるけど老人大学も午前中で終わりなのである。それで終了である。卒業式が千葉市であるが行かないので。

だから欠席するしかない。

お世話になった。実にためになる二年間であった。ありがたいこと限りなし。

友人をつくるという当初の目的も達成できた。しかも、職種の違う友人が欲しかった。二年間の経験は、これからのボキの老人生活に大いなる影響を与えてくださった。なにしろ経験値がミンナ違っている。だから楽しい。いろいろな話を聞きながら、あはは、おほほと笑いながらやってきた。これが一番ありがたかった。

閉じこもらないで良かったし。

もっとも、ボキはドンドン外に出ていくタイプである。

4月からもそうするつもりである。

(^_^)

 

さ、そろそろ登校時間である。

行ってきまぁーす。

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/