ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

國懸大神宮

2011-12-19 05:00:00 | 

今年も残すところ僅かに2週間、なんやかやと言いながら2011年になって350日余りを生きてきたんですね。先週の休みのうちに年賀状を作るなどと言っていたけど、パソコンが変わったので『筆ぐるめ』のソフトが無く、一応裏面は出来たものの印刷はまだしていません。古いパソコンを引っ張り出してきたのですがマウスが動かず、宛名の印刷をどうしようかと悩んでしまっています。

藤原定家の熊野御幸の際、この日前・國懸大神宮に奉幣使として遣わされていますが、こういう習わしは昔からあったようで、当の定家は先の例を知りません。日前・國懸の両社の中間にある岩に座らされ(今はそんな岩はありませんでした)、「遥拝は御幣をとりて拝舞するもの」と教えられ、舞のような動作を強要されます。いやはや宮仕えとはいうのも大変なものだったのですね。

日前の宮から國懸の宮までの参道、歩いて僅か3分足らず、目と鼻の先に見えているのですが、その容姿は図り知ることが出来ません。

             

着いてみると、殆んど同じ造りの社があるばかり、こちらの前庭の方が少しは広いような気がします。

この日前・國懸両社は同一神であり、伊勢神宮の内宮・外宮の関係と同一の状態であるそうな。

             

お供えの酒樽は和歌山の地のものですが、どうやら日前宮と國懸宮では若干メーカーが違うらしい。神さんにも酒の好みがあるのかと思ってしまいます。

             

こちらの鳥居も修理中、根の部分が腐ってきているので、一旦セメントのようなものを塗っていました。そしてこのように鉄板のようなものを巻いて固定しているのでしょう。乾けば外して、見た目に違和感のないように仕上げるのでしょう。

             

こちらの参道にも末社がずらりと並んでいます。

余談になりますが、この紀北一帯を支配していた紀氏は、記紀によると神武が畿内を平定したのち紀伊王に封じた天道根命の家系、この記録を信じるならば、これほどの素姓を脈々と伝えているのは天皇家より遥かに古くからだったのです。

             

夕方5時になると閉ざされるという門ですが、中ではライトアップをするのか、大きなライトが上を向けて置いてありました。

             

丁度幼稚園からの下校の親子連れが出てきて、大神宮に似合わない喧騒が広がりましたが、一段落、駐車場に停まっている車は、園児を迎えに来ている親のもののようです。

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