ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

藤原定家の熊野御幸

2011-12-15 05:00:00 | 読書

幾つの時か忘れましたが、若い頃購読していた新聞の懸賞欄にあった『元禄御畳奉行の日記』という前進座の公演に応募し、当選したので観に行った記憶があります。あんまり意味の分からない話だったような思いがあり、たぶん同タイトルの本も買って読んだという風に覚えています。その本はおそらく文庫本ではなく、新書版だったとうろ覚えなのですが、本自体が家の本棚に残っているのかどうか・・・その時がこの本の作者・神坂次郎氏を知った初めでした。

若い頃は今のように時代小説には関心は無く、和歌山の地についてもそう興味はありませんでしたが、歳をとって日本の歴史に興味を持ち、近々和歌山南端の地に住むようになるだろうという思いを抱いているうちに、本を物色しているとこの『藤原定家の熊野御幸』という本を見つけたのでした。当に歴史ものであり、和歌山についての本であります。

私のような和歌や俳句に全く興味も縁も無い者でも、藤原定家が新古今和歌集の撰者であることはよく知っています。その定家が18歳の時から74歳まで書き続けた日記『明月記』の中の特に1201年の後鳥羽上皇の熊野行幸随行時に記した部分『後鳥羽院熊野御幸記』を基にしてこの本は書かれています。

中世の人々にとって熊野という地はどんな風に思われていたのだろう。熊野詣などを始めたのは宇多天皇の時世からと言われていますが、皇族・貴族の間で盛んに行われるようになったのは平安末期から鎌倉時代、貴族の世から武士の世へと変遷していく中で、政から遠のきつつある身分ある人たちは人生に疲れ、絶望した心が熊野の地に救いを求めたのでしょうか。でももっと苦しかったはずの民衆は、果たして熊野の地への憧れなどあったのかどうか。


             

この頃定家は44歳、歌人として高名なこの人は『明月記』の中で自身が嘆いているように、官人としては出世が遅く、若い連中が自分を追い越して官位を上げていくのを指をくわえて見ているだけだったようです。

この度の熊野御幸の供の沙汰を受け、面目過分なりと喜びますが、自身の足腰の弱さを案じ嘆息しました。定家の役目は御幸の先駆けをして、行く先々での儀式や食事や宿舎の段取りや設営を行うこと、道中のんびりと歌を詠うことなどは及びませんでした。定家のような二流の貴族が泊まる宿は急拵えの冷たい隙間風が吹きつけるような家、板敷でない宿もあったそうで、毎日の仕事の煩雑さ、精も根も尽き果てて休んでいる身にも上皇からは容赦なく、御歌会の講師として召されることも一度や二度ではありません。

現在の和歌山市まで来た定家は、奉幣使として日前(ひのくま)・國懸(くにかかす)大神宮に派遣されます。伊勢神宮と同格のこの宮に赴くにあたり、紀ノ川の清流で水垢離をして身を浄め、おごそかに遥拝したのですが、出迎えた神職たちの軽々しい装束に腹を立てています。

和歌山市に伊勢神宮に並ぶという宮があるというのは、初耳でした。これが私の探究心を刺激したのでした。

阪和道の海南インターの近くに藤白神社があります。熊野街道のこの地には藤白王子という街道随一の大きさを誇る社がありましたが、藤白神社はその王子跡。この藤白の他に切目・滝尻・稲葉根・発心門が格別の五体王子と呼ばれていました。これも私の探究心を刺激します。

都を発って12日目、一行はやっとの思いで熊野の聖地を目の当たりにし、感動の声をあげています。しかしそこからもまた難行、熊野川を舟で下り新宮へ、そして補陀落山寺を経て那智山、そして妙法山・阿弥陀時から大雲取超えで再び本宮へと四日の日程で戻っていくのです。

そして帰路は六日間という短日で京の都まで帰っていくのです。

帰り着いた定家は、今回の随行の褒賞に昇進を期待するのですが・・・

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