2月10日 渡来部須万男(部族民通信の開設者)の投稿を続けます。
レヴィストロースの公開講座は
>全く理解は出来ない<惨め状況にはまり込んだ、で前回を終えた。ハナのパリその中央のラテン区は学びのミヤコ、そのド真ん中に位置するフランス学院(College de France)の舞台が階段教室。紛れ込んだは若者一人、当代きっての学識、レヴィストロースの講義を聞いてチンプンカンプン。
華麗なる悲惨(徳永恂の著書名)をまさに実行してしまったのだ。
講座はその後も続くし、私(渡来部)も欠かさず出席するのだが、理解に至らない。その原因は第一に頭脳回転能の欠損、次にフランス語理解の未達が挙げられるが、これらと決めつけて正しいだろうか。別の何かが、頭巡りの位相差を、決定的に阻害しているのではなかろうか。
そんな疑問が浮かんだ訳はというと、頭の良し悪しは千差があるにせよ聴衆が100人として、下位かも知れないが、私が最下ではないだろう。フランス語にして能力差があるとしても、講義での言葉は別系なので書を読み、専門の語彙を学べば追いつける。では彼らはあれほどの「ラテン語」みたいな「口演」に追随し理解しているか。全員がそうした特殊能を持つかに疑問を抱き、100人中数人しか追随できないと(負け惜しみ気味に)推定した。
他人はどうでも良いのだ、己の悲惨の真の原因は何か;
講演に対する意識、彼我の差である。
講座としていたが、その語感は「教育」「単位」との繋がりが強い。公開講座は単位を与えない、演者の思想を伝えるだけ。故に講演の語感に馴染む。そして彼の地で講演とは伝えの様が「一方通行」に徹する。演者は語る、述べる。しかし教えない。学部生となって講座とゼミ(travaux diriges)に出席して、理解不能に陥った経験は覚えなかった。それらには「教える」目的が厳としてあるから。
講演での言葉の伝わりは一方通行であるも、中には、演者は聴衆の反応を掴みつつ論を進める。核心に入って、そこ辺りの理解が容易ではないと自ら知るから、繰り返したり筋道の絡繰りを明かしたりする。この一工夫で理解できる。演者にも聴衆にもよけいな経費(口演と頭の空回り)を予防できるから経済的だ。こうした演者は有り難い。
しかしレヴィストロースは過激だ。口演の原理主義者であるから教えず伝えず、考え込ませるだけだ。
写真:レヴィストロースの教授(Chaire)の部屋(CollegedeFrance)説明と拡大は下に
聞き取り不能の学術用語を容赦なく用いながら、ひたすら語る。言葉の句切りは浪々と、息の繋ぎの乱れも聞こえず、喋りの速度は常に一定。己が頭に組み立てている他人に見えない文脈を、言葉と言葉の脈絡で、一語と一語を踏みしめながら、しかと前に進み、後ろに聴衆を置き去りにする。
その例;
<Bien que les connaissances sur les systems numeriques des indiennes laissent beaucoup a desirer, on sait que les systems decimaux reganaient en Amerique du Nord. En revanche, ... le nombre ordinal et le nombre cardinal, la somme arithmetique assure une sorte de mediation,...puisqu’elle permet toute a la fois aux nombres de parraitre l’un apres l’autre , et d’etre presents en meme temps>(講演できっと語ったはずの食事作法の起源から引用)
論を理解するには、これら言葉の繋がり息継ぎのなかで、核心となる語は何かを自身で探し出さねばならない。一方通行、走馬燈でも眺めるかに流れて消えゆく言葉を後ろ影から、一句を引き抜いて、これが理解の手口と当たりを付けて、前節、前々節で疑問に残った言い回しを噛みしめ、解釈をそれなりと工夫しながら、さらに耳は同時性に専念しレヴィストロースの講演を追いかける。
上記引用での核心はまず「decimaux」十進法があって、「nombre ordinal」は序列数詞、「nombre cardinal」は基本数詞、この概念を理解するところから始まる。そしてla sommeがmediation仲介者となる。これを知らないことには全体がぼやけるだけです。しかしフツーの人がフツーの時にこれら語の概念を理解してはいない。
(なお、部族民通信ホームサイト(WWW.tribesman.asia)で序列、基本数詞、la somme がmediationとなる辺りの解説し、PDFを作製している。「食事作法...の続き2」2019年10月15日投稿。ヒマのある方はご訪問を。蕃神注)
写真はL'homme2010年193号からデジカメ、この机にレヴィストロースはもはや座らない。彼の死後(2009年)に撮影されたから。
「ちょいと聞きに行くか」
好奇心で臨むのでは理解はできない。何を主題とするのか、どんな用語が用いられるかを前もって調べ、その書に接しない限り無理と知った。その覚悟をレヴィストロースは聴衆に求めている筈だ。演壇と列席を挟んでの刃撃、散るは火花、智の真剣勝負と言えます。口舌で相手を納得させるローマ時代以来の雄弁、そのパトスが階段教室に危険なほど充満していた。骨の髄から日本人の私(渡来部)は呑気でそれを知らなかった。
彼我の差は匕首を懐に呑む哲人に対して呑気坊ーヤの行き当たりばったりに収斂される。
後日談;さっそくサンミシェルの書店に出向いて本書を購入した。少しずつ読み進めるのだが、理解に至らない。2週に1回の公開講座は楽しみだが、幾度も「華麗なる悲惨」を実行するのみだった。
さて、レヴィストロースとの対話はあったのか?これが;
無かった!一の学部生が稀代の哲人に近づける機会はない。読者には、長いこと引き続けたが講演では真剣勝負で戦われるを知った「対話」があったのだと赦してくれ。それに彼の右腕のプイヨン先生とは幾度か対話もしたんだから。了
終わりに;学生留学の制度を設け、私(渡来部)を選考し派遣してくれた財団法人「サンケイスカラシップ」様に深謝を表します。また「ソルボンヌ学部に登録するにはaccueil(選別する事務所)で口頭試験があるから、目的をしっかり説明しないと落とされるわよ、そうなったら文明講座にまわされるのよ」有り難い助言を頂いた島田明子様(サンケイスカラシップ事務局)には多々感謝のみです。風の噂で山岳遭難してしまった、若くして他界なさった彼女へ謝意と、生前に伝えられなかった熱い好意が届くよう願いつつご冥福を祈ります。
レヴィストロースの公開講座は
>全く理解は出来ない<惨め状況にはまり込んだ、で前回を終えた。ハナのパリその中央のラテン区は学びのミヤコ、そのド真ん中に位置するフランス学院(College de France)の舞台が階段教室。紛れ込んだは若者一人、当代きっての学識、レヴィストロースの講義を聞いてチンプンカンプン。
華麗なる悲惨(徳永恂の著書名)をまさに実行してしまったのだ。
講座はその後も続くし、私(渡来部)も欠かさず出席するのだが、理解に至らない。その原因は第一に頭脳回転能の欠損、次にフランス語理解の未達が挙げられるが、これらと決めつけて正しいだろうか。別の何かが、頭巡りの位相差を、決定的に阻害しているのではなかろうか。
そんな疑問が浮かんだ訳はというと、頭の良し悪しは千差があるにせよ聴衆が100人として、下位かも知れないが、私が最下ではないだろう。フランス語にして能力差があるとしても、講義での言葉は別系なので書を読み、専門の語彙を学べば追いつける。では彼らはあれほどの「ラテン語」みたいな「口演」に追随し理解しているか。全員がそうした特殊能を持つかに疑問を抱き、100人中数人しか追随できないと(負け惜しみ気味に)推定した。
他人はどうでも良いのだ、己の悲惨の真の原因は何か;
講演に対する意識、彼我の差である。
講座としていたが、その語感は「教育」「単位」との繋がりが強い。公開講座は単位を与えない、演者の思想を伝えるだけ。故に講演の語感に馴染む。そして彼の地で講演とは伝えの様が「一方通行」に徹する。演者は語る、述べる。しかし教えない。学部生となって講座とゼミ(travaux diriges)に出席して、理解不能に陥った経験は覚えなかった。それらには「教える」目的が厳としてあるから。
講演での言葉の伝わりは一方通行であるも、中には、演者は聴衆の反応を掴みつつ論を進める。核心に入って、そこ辺りの理解が容易ではないと自ら知るから、繰り返したり筋道の絡繰りを明かしたりする。この一工夫で理解できる。演者にも聴衆にもよけいな経費(口演と頭の空回り)を予防できるから経済的だ。こうした演者は有り難い。
しかしレヴィストロースは過激だ。口演の原理主義者であるから教えず伝えず、考え込ませるだけだ。
写真:レヴィストロースの教授(Chaire)の部屋(CollegedeFrance)説明と拡大は下に
聞き取り不能の学術用語を容赦なく用いながら、ひたすら語る。言葉の句切りは浪々と、息の繋ぎの乱れも聞こえず、喋りの速度は常に一定。己が頭に組み立てている他人に見えない文脈を、言葉と言葉の脈絡で、一語と一語を踏みしめながら、しかと前に進み、後ろに聴衆を置き去りにする。
その例;
<Bien que les connaissances sur les systems numeriques des indiennes laissent beaucoup a desirer, on sait que les systems decimaux reganaient en Amerique du Nord. En revanche, ... le nombre ordinal et le nombre cardinal, la somme arithmetique assure une sorte de mediation,...puisqu’elle permet toute a la fois aux nombres de parraitre l’un apres l’autre , et d’etre presents en meme temps>(講演できっと語ったはずの食事作法の起源から引用)
論を理解するには、これら言葉の繋がり息継ぎのなかで、核心となる語は何かを自身で探し出さねばならない。一方通行、走馬燈でも眺めるかに流れて消えゆく言葉を後ろ影から、一句を引き抜いて、これが理解の手口と当たりを付けて、前節、前々節で疑問に残った言い回しを噛みしめ、解釈をそれなりと工夫しながら、さらに耳は同時性に専念しレヴィストロースの講演を追いかける。
上記引用での核心はまず「decimaux」十進法があって、「nombre ordinal」は序列数詞、「nombre cardinal」は基本数詞、この概念を理解するところから始まる。そしてla sommeがmediation仲介者となる。これを知らないことには全体がぼやけるだけです。しかしフツーの人がフツーの時にこれら語の概念を理解してはいない。
(なお、部族民通信ホームサイト(WWW.tribesman.asia)で序列、基本数詞、la somme がmediationとなる辺りの解説し、PDFを作製している。「食事作法...の続き2」2019年10月15日投稿。ヒマのある方はご訪問を。蕃神注)
写真はL'homme2010年193号からデジカメ、この机にレヴィストロースはもはや座らない。彼の死後(2009年)に撮影されたから。
「ちょいと聞きに行くか」
好奇心で臨むのでは理解はできない。何を主題とするのか、どんな用語が用いられるかを前もって調べ、その書に接しない限り無理と知った。その覚悟をレヴィストロースは聴衆に求めている筈だ。演壇と列席を挟んでの刃撃、散るは火花、智の真剣勝負と言えます。口舌で相手を納得させるローマ時代以来の雄弁、そのパトスが階段教室に危険なほど充満していた。骨の髄から日本人の私(渡来部)は呑気でそれを知らなかった。
彼我の差は匕首を懐に呑む哲人に対して呑気坊ーヤの行き当たりばったりに収斂される。
後日談;さっそくサンミシェルの書店に出向いて本書を購入した。少しずつ読み進めるのだが、理解に至らない。2週に1回の公開講座は楽しみだが、幾度も「華麗なる悲惨」を実行するのみだった。
さて、レヴィストロースとの対話はあったのか?これが;
無かった!一の学部生が稀代の哲人に近づける機会はない。読者には、長いこと引き続けたが講演では真剣勝負で戦われるを知った「対話」があったのだと赦してくれ。それに彼の右腕のプイヨン先生とは幾度か対話もしたんだから。了
終わりに;学生留学の制度を設け、私(渡来部)を選考し派遣してくれた財団法人「サンケイスカラシップ」様に深謝を表します。また「ソルボンヌ学部に登録するにはaccueil(選別する事務所)で口頭試験があるから、目的をしっかり説明しないと落とされるわよ、そうなったら文明講座にまわされるのよ」有り難い助言を頂いた島田明子様(サンケイスカラシップ事務局)には多々感謝のみです。風の噂で山岳遭難してしまった、若くして他界なさった彼女へ謝意と、生前に伝えられなかった熱い好意が届くよう願いつつご冥福を祈ります。