蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

肖像画頼朝、泉石、モナリザ 読み切り

2020年02月06日 | 小説
(2020年2月6日投稿)
京都神護寺に伝わる画、伝源頼朝像(国宝)は肖像画の傑作として名高い。
ネット百科を開くと作風について=髪の生え際などは細かく線を重ねる丁寧な墨描きで表現され、ごく淡い朱色の隈取りをほどこして立体感=とある。この解説あと>人物の外見のみならず内面を描こうとしている様子が<(Wikipedia、神護寺三像から)が加わる。
渡辺崋山の鷹見泉石像紹介においても>人物の内面まで感じさせる高い完成度を持つ<(ネット百科から)とある。

伝頼朝像画はネットから採取。

内面とは心であろう。心を描くとはどの様な技法を用いて可能になるのか。

泉石像について小筆は>異様を感じるとすれば漲る光であろうか。画の全様から光が発せられているとしたら、それが意思<と述べた。これは個人的心象でしかないから、読者には分かりにくいし、納得に行かないとおもう。よって、ここで取り上げている「内面」「意志」「光り」を掘り下げてみたい。

頼朝像(部分)幕府の開設者、武家の頭領の毅然とした決意が窺える面構えである。

人の体から熱は放射する。犬猫だってそれを放射するし、熱とは光と波長が違うから目は感じない。すると内面、意志を描くとは、身体から発する見えない何某、それを熱気あるいは光としてもよい、を描くに他ならない。しかしその何某を光束として可視化したら後光、オーラとなってしまうから政治プロパガンダか布教専用の宗教画になりはてる。

肖像画とは見えない意志を見えない光でキャンバス、絹本の上に表現する作品となる。いかにしてそんな芸当が可能となるのか。

基本は技法の習熟である。>線描を使った東洋の伝統的な画法、相貌は西洋の陰影法や彩色法を使うという対照的な技法を用いながら全く違和感なく融合させ<(泉石像の技法、ネット百科から)要するに上手い絵描きでなければならない。上手い絵描きが人物を克明に再現したら内面が描写できるのだろうか。きっとそれは可能だろう。
しかし、写実に徹し上手く再現できた人物像と写真との違いはどこにあるのだろうか。すこぶる立派な写実とは写真と変わらないだろう。

それでは肖像画の傑作とはどの様に描くのか。

メルロポンティにお出まし願う。
知覚の現象論から;状景とはmilieu(場)でありあらゆる信号が交雑するカオス状況になっている(「カオス混乱」は言い過ぎで、現象論の読み過ぎです。メルロポンティはそれを用いていないから小筆のチョー誤解なのだが、この言い回しは便利なので、時折これを、現象論で使う)。カオスのまっただ中から意義ある信号を選択する行為が芸術である。
セザンヌは色と影の信号を選りすぐって聖ビクトワール岳(南仏エクサンプロバンス近郊)を描いた、とメルロポンティが論じた。神が彩る聖ビクトワール岳とはかくある筈の信念がセザンヌあった。

崋山が泉石を描くとき、絹本に何を写すと心がけたのか。人物である、蘭学者にして藩家老の思想と行動である。藤原隆信が頼朝の似せ絵に取りかからんとして、何を絹に写すとしたか。人物である。鎌倉に幕府を開き皇朝に反旗を翻す武家の統領、その面構えから意志の力を描こうとした。

人の意志は目に宿り行動は口元に浮かぶ。見えない光が人物から横溢するとしたら、目と口元から発する不可視光線が、筆の加減で干渉し、重層し増幅に至る。見えなくても増幅しているからそれは画を見る者に伝わる。崋山の泉石像で感じた>漲る光<の源泉画この重複にあります。
頼朝像、泉石像、参考にモナリザ像を張る。最後の写真はピアニスト・アシュケナージです。この目つきに脅かされてCD全集を買ってしまった。


なお、本投稿は部族民通信ホームサイト(WWW.tribesman.asia)に同時投稿した。こちらには他2者の肖像画を並べて比較している)
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