蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

死の聖母子像、アニエス・ソレル 1

2020年02月18日 | 小説
(2月18日投稿)
前のブログ投稿「肖像画頼朝、泉石、モナリザ 読み切り2月6日」の準備で肖像画をいろいろと見比べていた。取り上げたのは頼朝像、泉石像、モナリザに落ち着いたが、とある一幅の西洋肖像画に引っかかりを感じた。それだけを取り上げてみんとし、本投稿にはいる。なお本文は小筆の勘違い、妄想の塊と笑って読んでくれたらありがたい。
ムーランの聖母子と呼ばれる絵画はフランス王シャルル7世(1403~1461年)の愛妾アニエス・ソレル(Agnes Sorel,1422~1450年)の肖像とされる。しかしこの画が「生きる人の」肖像であること、さらに聖母子像と呼ばれている言い伝えに幾つかの疑問を抱いてしまう;

ムーランの聖母子、アニエス・ソレルを描いたと伝わる

1 画像全体に広がる陰気さ、後背はキリストの誕生を祝福する天使達ながら、そこにいささかの喜び、うれしさの雰囲気が感じられない。他の聖母子像では天使が取り囲み、時には神が上方に出現して「乙女なるお前が身ごもり産んだ子は救世主なるぞ」と教えるのだが、この画の天使は誰もが押し黙ったまま、不機嫌な視線を空に向ける。
2 聖母なるアニエスの風情が異様である。肌は白さを越して青く、皺の一筋も見せていない。むき出しの片の乳房ははち切れんばかりに膨らむ。他の母子像でもこうした構図は見られるが、それは母が子に授乳している状景に限られる。そして彼女がこれ見よがしに乳を露出している。
3 胴回りは異常に細い、これでは内臓の諸器官を収容できない。眼差しは下に向くが、我が子に視線を落としているとは見えない。眼を閉じていると感じる。
4 母子に一体感が見えない。母が眼を閉ざし、子は母を見上げずになにやら前方に、しっかと視線を投げる。幼い子が持つ無垢の眼差しとはほど遠い。さらに彼は直の背筋で座るけれど、その姿勢は幼子らしからぬ。座す上は母の膝ではない、何やらを台にしているとも見えない。布の折り重ねに乗るが、それを支える母の手に子の重さを支える力は見えない。母子の視線にも心の置き様にも中心軸、すなわち母子感情の交流がない。
5 聖母子は西洋絵画での主要な主題で、地域を越え時代に引き継がれ著名作家は作品を残すが、必ず母子の一体感を強調させている。この一体感こそが主題なのである。しかしこの母子像はあえてその主題から逃げている。

幾度眺めても不気味さを感じてしまうムーランの聖母子

6 子を支える布は無地である。これが亜麻布であれば小筆の推測がより当てはまるのだが、毛織物かも知れない(ネット解像力では不明)。中世を通して赤服は非常に高価で、その色を纏うことが高貴、聖を表していた。故に他の肖像画では聖母は赤布、あるいは同じく高価な青服を纏う。しかしこの聖母(アニエス)の装束は赤(西洋茜)に染められていない。赤の色が一般に用いられるのは新大陸の発見以降。サボテンから採取されるコチニールで赤色染料は一気に安価になった(16世紀半ば以降)。
上記の疑念の回答に、とりあえずの暫定として、この画は聖母子のスタイルを踏襲するが画家ジャン・フーケ(1420~1481年)は聖母子として完成させなかったのだ、としよう。

マリアがエリザベト(洗礼者のヨハネの母親、老齢ながら懐妊した)を訪ねる。マリアは聖なる赤服と高貴な青で現される。後ろはヨセフとザカリ(エリザベトの夫)。こうした柔和な状景がムーラン...には欠ける。画はネットから。

彼はこの画に何を残そうとしたのか。これからが妄想にはいる;
死骸である。アニエスの遺言執行者の一人エチエンヌ・シュバリエ(Etienne Chevalier,シャルル7世の財務官1410~1474年)がフーケにソレル肖像を依頼した。フーケがアニエス・ソレルをつぶさに眼にしたのは5年の前、それが死骸で、当然、彼女を見た最後であった。その様を母子像にした。泰西画で母子像とは聖母子に他ならないから、彼も伝統に倣って聖母子に仕上げたが、形式だけを画にした。画家の精神は対象の真実を伝えるに他ならないから、死骸とその様、さらには死因を憶測させるまでを画面に残したである。(続く)

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