蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

土俗医師の失敗 2 最終

2019年05月01日 | 小説
本日は令和元日、新天皇陛下徳仁様のご即位を祝い弥栄を祈念します(部族民通信スタッフ一同)

レヴィストロースの解釈を聞こう;
<Les Ahmadi s’ecartent de l’orthdoxie, notamment par l’afirmation que tous ceux qui se sont proclames messies au cours de l’histoire au nombre desquels ils comptent Socrate et le Boudah)le furent effectivement : sinon Dieu aurait chatie leur impudence.
訳;アフマディ教団はイスラム正統派と離れた教義を持つ。救世主(メシア)と称した歴史上の聖人を、会得した悟りの聖境のまま認める点が独自である。そのなかにはソクラテス、ブッダも救世主と数えている。なぜなら(もしも彼らが似非であったなら)その不用心なる言動を神は罰していた筈だから。
(訳注:Boudahを大文字で始めてle(あの)を冠した。幾聖かのブッダ(如来)のうち歴史で確かめられている「あの人」の言い回しで、それは釈迦である。仏教解釈においてレヴィストロースの見識が読める一文である)

アフマディ教団のなかでラホール分団は少数派ながら、当時(1947年)からなお一層の独自性(柔軟性)を保っている。ラホール訪問の年の分派教団長はムハンマドアリ。レヴィストロースの語った相手の地位などの記録は悲しき熱帯の文中に見あたらないが、発言の大胆性、異端と目される教義根幹に結びつく内容からして教団長アリ猊下であると推測する次第です。

写真:レヴィストロースが面談したと思われるイスラムラホール派の教団長(当時)ムハンマドアリ。Wikiより採取。

次に、言葉が易しい理解は難解の一文;
<les puissances surnaturelles provoquees par le rebouteux, si sa magie n’avait ete reelle, auraient tenu a le dementir en rendant venimeux un serpent qui ne l’etait pas habituellement>
(5回読み返しても意味不明、6回目になんとか解釈にこぎ着けた、以下に)
訳;俗医師がまやかし者であったのなら、呼び込んだ超自然の力は彼をすっかり欺いて、普段は毒持ちでない蛇を毒蛇に変えてしまった筈だ(訳はかくたやすい)。
しかし無毒の蛇を毒蛇に変えたとしたらーが理解できなかった。無毒の蛇が出てくるのは、免疫術の被険者を咬ませる、免疫判定の場のみ。そこで;

意訳の前提;仮定法過去で俗医師を「もし正しくなかったら」としているので、正しかったのは事実。よって、呼び出した魔術も正しい。超自然の力は彼を欺かなかったから(無毒蛇は無毒蛇のままで検証に使った)一方、毒蛇は毒の威力を常に保ったままである。
意訳;無毒の蛇を被術者に咬ませるはいつものやり方。当然、被険者(通訳)に毒害は及ばない。しかしこの検証の過程で、超自然力がイタズラして(=dementir)無毒を毒蛇にしてしまう事が起こってしまったら。それでも、被検者(ロザリオ市の通訳)はこの通り生きているから、毒に抗して生き延びたと俗医師が主張できる。そして己の免疫術を「毒にこれほどまで有効だ」と買いかぶり、不実の陥穽に己をおとしめてしまう。
超自然のイタズラにのめり込まなかった理由とは、土俗医の性状が確かなものだったからだ。
そして、被険者はnaivete信じやすさをもともと持つから、咬ませ蛇は無毒と知るけれど免疫の有効性に疑問は持たない。施術の後に藪に入るに怖じ気づかない。俗医師が咬まれ死んだ理由は超自然が彼を欺かず、毒蛇は毒の真理がそこにも継続していたから。

文言と行句の意味はかくと分かったから、文章の解釈に入る。
2の挿話(土俗医、アフマディ派)に対してレヴィストロースは
1 信じやすさの反応として悪意ちょっかい、一方で寛容
2 神は正しきを罰しない、故にソクラテスは聖者
3 超自然力は土俗医を欺かなかった、そして死んだ
これらを上げて、一方向の意味のある流れとして紹介したと思われる。
これら話全体の主張、あるいは意味あいを解釈するに1~3を流れの中にくくらなければならない。いかなる解釈でその作業は可能か。
語りの要素は神(超自然)、信じやすさ(疑い深さ)、そしてご加護と罰(欺かれる)である。すると神の本性、人の素性、両者の相克をレヴィストロースが語ると見当をつけられる。

信じやすさと悪意は人の素性の根源かも知れない。この2点でブラジル民衆とラホールのアフマディ派は共通している。
皆様からはアフマディ派に「悪意」はない、寛容があるとの反論を受けるであろう。レヴィストロースは悪意と寛容を同じ精神活動の作用、反作用と論じる。信じやすさを立て軸にすると、横の軸には一方に寛容があって、対極に悪意が位置し同軸に並ぶ。対立しながらも、あり方としては否定と肯定、作用と反作用の有様の差異にすぎないから、同じ精神作用と規定できる。
日本人だってこの絡繰りを知っています。「可愛さあまって憎さ100倍」「愛と憎しみはコインの一枚、表と裏の賭けなのよ、義男様」だなんてね。

(心の動きに標準作用がまずあって、その反作用=inversement=が近似(=congrue)として伝播する。このレヴィストロースのとらえ方は精神の背後に「メタ精神」なる深層意識があると想定していると思われる。フロイトの深層心理とも近いか。それはあまねく人類に、共通の論理倫理の底流かもしれない。後の神話学4部作(生と調理など)で、神話の伝播を例証する手段として使われている)

ブラジル奥地の民衆とムスリム聖職者は、共通の判断(信じやすさ)と精神作用(悪意と寛容の軸)を持つ。これが精神の流れの筋道、人の素性の有様。

神(超自然)をどのように考えているのか;
神は彼らをchatier罰しなかった、欺かなかったと述べた。評価するあるいは罰する、この過程を考えてみよう。
「人は無知である、ここを自覚してから物事を論じよう」とソクラテスが考えついた。それを聞いた神は「良くできている、君は正しい」と評価したーこうした小学校の綴り方教室的な流れではない。思索過程に潜り込み騙す(罰する)、これが神ときに悪魔の常套です。
考え込んで苦心惨憺するソクラテス。神は彼を加護した(罰しない)。罰するとは思考に潜り込んで欺く(dementir)。それを神や悪魔にやられたら、どんな人でも真理と離れた倫理を展開してしまう。
「コヤツめ、けしからん」、ソクラテスの頭の隙間に神が潜り込んで彼を欺く。すると哲人は錯乱のまま「1,2分考え込めば儂は森羅万象の全てが分かる」と結論してしまう。こうなったら、のちのちに哲学も科学も出現しない。
釈迦の修行について、ソクラテスの思索過程より日本人はよく知る。
神が「こいつは偽物だ、如来になれない、懲らしめてやる」と断食の瞑想に介入したら(これが罰、欺き)、「空即是色、色即是空」全てが無常と教える叡智と正反対の結論にたどり着いてしまった。「金を稼ぐのだ。綺麗な嫁さんを娶れるし肉もたっぷり食える。人生は全てが色だ、欲だ」なる似非教義をブッダが広めたであったろうに(過去の仮定法なので歴史事実と異なる)。
アフマディ派長老の言葉「罰するchatier」を、ロザリオの通訳は「欺くdementir」と言い替えた。ご加護、そして罰の神と人の相克をパキスタンとブラジル奥地が思考で同じ方向性で語られた。これに加えて、人の素性と精神の動きの様も大陸の隔たりを超え、共通土台に築き上げられる(前述した)。

図:部族民通信のオリジナル。縦軸は信ずるか疑うか、横軸は反応として寛容か悪意か。軸の交差点は人の原点である赤ちゃん精神。信じる寛容にラホール派、疑う悪意の固まりにご注目。

信じやすさの機能、土俗医の死、ラホール分派の寛容、守る神と欺く神を語る2の挿話、それらを結ぶ精神の構造の解釈。単純化したのが上の手書き図である。信じやすさの対極に疑い深さを置いた。2の軸が交差する座標原点は赤ちゃんの無垢な心。寛容も悪意も持たず、疑いすら知らない。歳ふるに疑いと悪意を強める人の性サガが図に読める。歴史上の人物の位置を入れた。サルトルはアンガジュマンなどと他者攻撃が執拗なのでmaliceの濃い位置に押し込めた。

補:レヴィストロースはサンタクロース伝承を「信じやすさ」で分析している(悲しき熱帯ボロロ編、死者と生者Les mots et vivants)。こちらではcrudiliteで信じやすさを表している。論理性を前面に出したら受け入れられない事柄(サンタクロースがプレゼントを持ってくる)、否定しないで子供に交じって、サンタ伝説を信ずる態度が社会、家族の維持に役立つと主張する。ボロロ族の生死観と重ね合わせている(悲しき熱帯を読む、をご参照)。

土俗医師の失敗の了

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