4 精神現象と弁証法、真理追求の不能
(2024年9月9日) « il peut être encore utile de mentionner quelque chose sur la méthode du développement. Cette exposition est présentée comme un comportement de la science à
l 'égard du savoir phénoménal, et comme recherche et examen de la réalité de la connaissance ; mais elle ne paraît pas pouvoir avoir lieu sans une certaine présupposition, qui comme unité de mesure serait établie à la base » (72頁)
改めてこの発展の仕組みを語ろう。それは「現象の知」に関わる理性scienceの対処となる。認識は実在するのか否かの調査、吟味とも言える。認識がこの(現象法の)発展に出露する前提とは、根底として基準の組合せが備わる場合に限られる。
部族民:前引用(前回6日)は概念を検査する際の陥穽、言うなれば弁証法の欠点。次の文節となるこの引用では、精神側の現象の仕組みに入る。「この発展」とは理性の知への取り組みかた。
精神の根底は理性science(カントの先験に同じ)、理性が生成する能力を(考える力entendementの)悟性が真理を概念として創生する、これを基準mesureとする。両の基準が揃って、認識が実際化する、いわば現象の野が形成される。
精神現象を担保する理性活動をまとめた
現象の知とある、そもそも知は現象なので言い改めるべくもないが、絶対知savoir absoluに対比させている。現象とはあやふや、真理には遠いとの意義が加わると強調する。現象知はモノを概念化して認識に持ち込む、ここで2の基準が揃う。自己(悟性)の範囲(基準)と実際(モノ概念)をすり合わせ、(そもそも整合しないから)否定して、弁証法の過程(発展)を実践してゆく、この辺りを記した文。
理性scienceと認識connaissanceは組になって先験(カント)の働きを努める。優先は理性で認識を駆動し、現象の場(milieu)で弁証法を形成する。本文の冒頭で認識connaissanceは道具として、ないし舞台として弁証法で働くとした。本引用では認識を「野milieu」としたい。
前の引用文とこの解釈を重ねて、引用文の主題、弁証法の発展を語ろう;1まず理性の基準(理念といえるか)の自己形成、悟性への理念の引き渡し、2悟性は衝撃impulsionを受け基準を生成する、3悟性が認識の野=現象の舞台に登場、対象の検査(概念基準のすり合わせ)、4その不調、対象との差異を自己認識する、これで5節目momentでの経験expérienceが一旦終了―この仕組みの繰り返しが発展だーとヘーゲル先生が明らかにした。
それら現象運動の理性的担保として:1理性の判断(理念の形成)、2悟性による基準の表現、3知の律自、悟性の覚自 4知による対象の概念化 5必ず否定するその仕組 (概念は絶対がない) 5悟性déterminabilité決定能力=後述。
上文に続いて弁証法個々の過程の仕組み、まずは検査examenとは…
« l'examen consiste en l'application à la chose à examiner d'une certaine mesure pour décider, d'après l 'égalité ou l'inégalité résultante, si la chose est juste ou non ; et la mesure en général, et aussi bien la science, si elle était cette mesure, sont acceptées alors comme l'essence ou comme l 'en-soi. Mais ici, où la science surgit seulement, ni elle-même ni quoi que ce soit ne se justifie comme l 'essence ou comme l'en-soi ; et sans quelque chose de tel, aucun examen ne paraît pouvoir avoir lieu* » (72頁)
検査とは検査対象に一つの基準を当て判断する。整合するか不整合かの結果に分かれ、そのモノの正、不当が決まる。一般としての基準、言うなれば理性についてだが、理性と基準(理念)が合致するとすれば、一般的にそれらは実質または律自であるはずだ。しかし理性はただ野(現象)に現れるのみで、ともに現れるなにかのモノ(悟性の基準)は実体として、また律自として規定されない。このなにか(理性と基準の合致)が欠けていると、いかなる検査も実現しない。
Hyppolite:*Le problème critique paraît se reposer ; Il s'agit en effet d'examiner le savoir phénoménal, en le comparant à la Science, mais la Science qui apparaît seulement ne saurait être ici posée comme l’essence. 重要な問題がここに潜む。それは現象的(実在でない)知(がもたらす対象)を、理性との関わり合いで「検査」に進む事に関する。理性は、ただこの場に現れるのみで(現象)、実質として記されていない。
部族民:弁証法の検査の過程で(部族民は)先のページで「基準mesure」を当てるとした。実はその前に理性の基準との関連が横たわる(基準の語はすでに悟性に当てているから、理性のmesureには理念としたい)。Hyppolite指摘は理性それ自体が実体ではない。故に検査は、常に、成就しない。検査を終えても、検査自体がそもそも不調なので結果は不整合である。これが重要問題と仕組みの不備を語る。
悟性に引き継がれる前の理性が創出する理念(カント流に言うと先験から考える力に引き継ぐ過程)、は実質でない。実質でない理念が悟性に渡され基準となって、これまた現象でしかないモノ概念を判定する。いわば「標準原器」が存在しない見比べである。
弁証法の判断、検査に纏い付く、現象の根本欠陥をヘーゲルが指摘し、Hyppoliteが上塗りしている。基盤の脆弱と目的達成の不能、弁証法を手段にして真理追求に挑むヒト精神の未熟をヘーゲルが教える。
次文で悟性に進む;
« La conscience distingue précisément de soi quelque chose à quoi, en même temps, elle se rapporte ; comme on l 'exprime encore : ce quelque chose est quelque chose pour la conscience ; et le côté déterminé de ce processus de rapporter, ou de l’être de quelque chose pour une conscience est le savoir. Mais de cet être pour un autre nous distinguons l’être-en-soi ; ce qui est rapporté au savoir est aussi bien distinct de lui et posé comme étant aussi à
l'extérieur de ce rapport. Le côté de cet en-soi est dit vérité* » (72頁)
悟性は、何かに向けられる「何か」と、己自身とを峻別する。同時に己の中でそれらは交流する。ここを深く語ろう;この何かとは悟性のための何かである。予め決められている交流する過程の側面、言い換えると、悟性に何けられる何かの実体、それは知である。しかるに、我々(理性)は、他のなにか(悟性)に向けられるこの存在(知)と、自分を律する自身l’être-en-soiを区別している、そして、知に交流するモノは知とは区別され、この交流の外側に置かれる。この「律自」の側面(外側)は「真理とされるdit vérité」 となる。
部族民:この文にはヘーゲル流の修辞とHyppoliteの正確な翻訳が盛り込まれている。何かに向けられる、これは知、何かはモノ。言い換えると悟性は、モノを識別する知と、己を峻別する。自分を律する自身l’être-en-soiとは実体のモノ、知に概念化されていない真実とされるモノdit vérité、これらの関係を図式化している文です。「真実とされるモノdit vérité」の言い回しは奇妙だが、ヒトは真実を見抜けないから、実体のモノは真実らしいとの伝えかけと理解する。
単純化する。悟性には思考が具わる(基準mesure)。知は悟性に、某かのモノの概念を「ホイヨ」と差し出し、悟性は己の基準と見比べる(交流)。交流はするが融合しない。こうした外部現象に巻き込まれない律自(en-soi)とは真理のモノで、それは知の側面(外側)に位置する。易しく書かないのがヘーゲル修辞法です。Hyppolite訳は難しさをそのままに(仏独、両の言語を操るフランス知識層からは)より難しくしているとも(ネット情報)。
Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 7 了 (9月9日)
後記:本日9日には蕃神の特に近い者の命日にあり、指板を叩く指がしばし止まりました。私事で失礼しました。
(2024年9月9日) « il peut être encore utile de mentionner quelque chose sur la méthode du développement. Cette exposition est présentée comme un comportement de la science à
l 'égard du savoir phénoménal, et comme recherche et examen de la réalité de la connaissance ; mais elle ne paraît pas pouvoir avoir lieu sans une certaine présupposition, qui comme unité de mesure serait établie à la base » (72頁)
改めてこの発展の仕組みを語ろう。それは「現象の知」に関わる理性scienceの対処となる。認識は実在するのか否かの調査、吟味とも言える。認識がこの(現象法の)発展に出露する前提とは、根底として基準の組合せが備わる場合に限られる。
部族民:前引用(前回6日)は概念を検査する際の陥穽、言うなれば弁証法の欠点。次の文節となるこの引用では、精神側の現象の仕組みに入る。「この発展」とは理性の知への取り組みかた。
精神の根底は理性science(カントの先験に同じ)、理性が生成する能力を(考える力entendementの)悟性が真理を概念として創生する、これを基準mesureとする。両の基準が揃って、認識が実際化する、いわば現象の野が形成される。
精神現象を担保する理性活動をまとめた
現象の知とある、そもそも知は現象なので言い改めるべくもないが、絶対知savoir absoluに対比させている。現象とはあやふや、真理には遠いとの意義が加わると強調する。現象知はモノを概念化して認識に持ち込む、ここで2の基準が揃う。自己(悟性)の範囲(基準)と実際(モノ概念)をすり合わせ、(そもそも整合しないから)否定して、弁証法の過程(発展)を実践してゆく、この辺りを記した文。
理性scienceと認識connaissanceは組になって先験(カント)の働きを努める。優先は理性で認識を駆動し、現象の場(milieu)で弁証法を形成する。本文の冒頭で認識connaissanceは道具として、ないし舞台として弁証法で働くとした。本引用では認識を「野milieu」としたい。
前の引用文とこの解釈を重ねて、引用文の主題、弁証法の発展を語ろう;1まず理性の基準(理念といえるか)の自己形成、悟性への理念の引き渡し、2悟性は衝撃impulsionを受け基準を生成する、3悟性が認識の野=現象の舞台に登場、対象の検査(概念基準のすり合わせ)、4その不調、対象との差異を自己認識する、これで5節目momentでの経験expérienceが一旦終了―この仕組みの繰り返しが発展だーとヘーゲル先生が明らかにした。
それら現象運動の理性的担保として:1理性の判断(理念の形成)、2悟性による基準の表現、3知の律自、悟性の覚自 4知による対象の概念化 5必ず否定するその仕組 (概念は絶対がない) 5悟性déterminabilité決定能力=後述。
上文に続いて弁証法個々の過程の仕組み、まずは検査examenとは…
« l'examen consiste en l'application à la chose à examiner d'une certaine mesure pour décider, d'après l 'égalité ou l'inégalité résultante, si la chose est juste ou non ; et la mesure en général, et aussi bien la science, si elle était cette mesure, sont acceptées alors comme l'essence ou comme l 'en-soi. Mais ici, où la science surgit seulement, ni elle-même ni quoi que ce soit ne se justifie comme l 'essence ou comme l'en-soi ; et sans quelque chose de tel, aucun examen ne paraît pouvoir avoir lieu* » (72頁)
検査とは検査対象に一つの基準を当て判断する。整合するか不整合かの結果に分かれ、そのモノの正、不当が決まる。一般としての基準、言うなれば理性についてだが、理性と基準(理念)が合致するとすれば、一般的にそれらは実質または律自であるはずだ。しかし理性はただ野(現象)に現れるのみで、ともに現れるなにかのモノ(悟性の基準)は実体として、また律自として規定されない。このなにか(理性と基準の合致)が欠けていると、いかなる検査も実現しない。
Hyppolite:*Le problème critique paraît se reposer ; Il s'agit en effet d'examiner le savoir phénoménal, en le comparant à la Science, mais la Science qui apparaît seulement ne saurait être ici posée comme l’essence. 重要な問題がここに潜む。それは現象的(実在でない)知(がもたらす対象)を、理性との関わり合いで「検査」に進む事に関する。理性は、ただこの場に現れるのみで(現象)、実質として記されていない。
部族民:弁証法の検査の過程で(部族民は)先のページで「基準mesure」を当てるとした。実はその前に理性の基準との関連が横たわる(基準の語はすでに悟性に当てているから、理性のmesureには理念としたい)。Hyppolite指摘は理性それ自体が実体ではない。故に検査は、常に、成就しない。検査を終えても、検査自体がそもそも不調なので結果は不整合である。これが重要問題と仕組みの不備を語る。
悟性に引き継がれる前の理性が創出する理念(カント流に言うと先験から考える力に引き継ぐ過程)、は実質でない。実質でない理念が悟性に渡され基準となって、これまた現象でしかないモノ概念を判定する。いわば「標準原器」が存在しない見比べである。
弁証法の判断、検査に纏い付く、現象の根本欠陥をヘーゲルが指摘し、Hyppoliteが上塗りしている。基盤の脆弱と目的達成の不能、弁証法を手段にして真理追求に挑むヒト精神の未熟をヘーゲルが教える。
次文で悟性に進む;
« La conscience distingue précisément de soi quelque chose à quoi, en même temps, elle se rapporte ; comme on l 'exprime encore : ce quelque chose est quelque chose pour la conscience ; et le côté déterminé de ce processus de rapporter, ou de l’être de quelque chose pour une conscience est le savoir. Mais de cet être pour un autre nous distinguons l’être-en-soi ; ce qui est rapporté au savoir est aussi bien distinct de lui et posé comme étant aussi à
l'extérieur de ce rapport. Le côté de cet en-soi est dit vérité* » (72頁)
悟性は、何かに向けられる「何か」と、己自身とを峻別する。同時に己の中でそれらは交流する。ここを深く語ろう;この何かとは悟性のための何かである。予め決められている交流する過程の側面、言い換えると、悟性に何けられる何かの実体、それは知である。しかるに、我々(理性)は、他のなにか(悟性)に向けられるこの存在(知)と、自分を律する自身l’être-en-soiを区別している、そして、知に交流するモノは知とは区別され、この交流の外側に置かれる。この「律自」の側面(外側)は「真理とされるdit vérité」 となる。
部族民:この文にはヘーゲル流の修辞とHyppoliteの正確な翻訳が盛り込まれている。何かに向けられる、これは知、何かはモノ。言い換えると悟性は、モノを識別する知と、己を峻別する。自分を律する自身l’être-en-soiとは実体のモノ、知に概念化されていない真実とされるモノdit vérité、これらの関係を図式化している文です。「真実とされるモノdit vérité」の言い回しは奇妙だが、ヒトは真実を見抜けないから、実体のモノは真実らしいとの伝えかけと理解する。
単純化する。悟性には思考が具わる(基準mesure)。知は悟性に、某かのモノの概念を「ホイヨ」と差し出し、悟性は己の基準と見比べる(交流)。交流はするが融合しない。こうした外部現象に巻き込まれない律自(en-soi)とは真理のモノで、それは知の側面(外側)に位置する。易しく書かないのがヘーゲル修辞法です。Hyppolite訳は難しさをそのままに(仏独、両の言語を操るフランス知識層からは)より難しくしているとも(ネット情報)。
Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 7 了 (9月9日)
後記:本日9日には蕃神の特に近い者の命日にあり、指板を叩く指がしばし止まりました。私事で失礼しました。