蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 4

2024年09月02日 | 小説
(2024年9月2日)

1~3回のあらましをスライド(再掲)にした。ヘーゲルの現象弁証法のまとめとなる。

以降は各論。今回は悟性conscienceはどのように対象に接するか...

« cette présentation peut être considérée comme le chemin de la conscience naturelle qui subit une impulsion la poussant vers le vrai savoir, ou comme le chemin de l'âme parcourant la série de ses formations comme les stations qui lui sont prescrites par sa propre nature ; ainsi, en se purifiant, elle s'élève à l'esprit et, à travers la complète expérience d'elle-même, elle parvient à la connaissance de ce qu'elle est en soi-même » (69頁)
ここでの説明(本書)は自然のままの悟性conscienceが、衝動に駆られ、真理の知を獲得する道のりを記している。知力の発展を通し予定付けられている「心」の内が、真理の形成に進んでいく過程は、駆け上るその節目毎の姿かもしれない。この過程は(悟性の)本来の性状として予定されているものである。かく、自身を純化しつつ悟性は、完璧な経験(弁証法)を経て、認識の中に自身が具有するものを確立するに至る。
部族民:悟性conscienceがここで出現する。上引用の文節は「現象としての弁証法」の取り掛かりと読める。悟性は知と交信し認識内で発展していく(手段として、あるいは舞台で)作用を演じる。その内訳は知がもたらす(外部の)真理らしき(対象objet)を悟性が生まれながらに持つ基準(mesure)に照らし検査(examen)し、次段階に向かう。この糧を経験 (expérience) とよぶ、弁証法の仕組みそのものです。本文を起点として精神現象での悟性の役割に進む。

« La conscience naturelle se démontrera être seulement concept du savoir, ou savoir non-réel. Mais comme elle se prend immédiatement plutôt pour le savoir réel, ce chemin a alors de son
point de vue une signification négative, et ce qui est la réalisation du concept vaut plutôt pour elle comme la perte d 'elle-même ; car, sur ce chemin, elle perd sa vérité » (同)
自然のままの悟性は知の概念として、非実際の知として現れる。しかしすぐに実際の知として身を定めるに努める。この道のりには否定の意味合いがまとわりつく。概念を実現すると悟性には自分自身が失われる、なぜならこの道のりで己の真理を失うから。
部族民:「自然のままの悟性conscience naturelle」が続けて出現する。自然の意味はまだ弁証法に向かっていないを示す。対象を検査する前の悟性。前の引用では「本来の自然性状propre nature」も連なる。悟性の弁証法に向かう活動は「生まれながら」と言っている。
先に、理性scienceは « la science est le phénomène » 現象である、すなわち非真理であるとした。悟性についても「知の概念concept du savoir」である限り実際ではない、非真理であるとしている。理由は精神の内に出現するとは現象として演じる、現象になった時点で真理は失われる。故に悟性にしても、真理を覚知できない。
弁証法の最終段階にてヒトはsavoir absolu 絶対値を獲得するのだが、それ以前の思考活動は全て現象、すなわち非真理である。
続く文節: « Il peut donc être envisagé comme le chemin du doute, ou proprement (comme le chemin du désespoir*). Il n'arrive pourtant pas ici ce qu'on a coutume d'entendre par doute, c'est-à-dire une tentative d'ébranler telle ou telle vérité supposée, tentative que suit une relative disparition du doute et un retour à cette vérité, de sorte qu'à la fin la chose est prise comme au début. Au contraire, ce doute est la pénétration consciente dans la non-vérité du savoir phénoménal, savoir pour lequel la suprême réalité est plutôt ce qui, en vérité, est seulement le concept non-réalisé » (同)
それは疑問の工程として考えられる。疑問とはこちらかあちらか、選択に揺れる試行錯誤を思い浮かべるが、そんなものではない。まずはなんとなく一回は(相対的)疑問を消して、真理らしきにたち寄り、それでも、判断は振り出し、さらなる疑問に戻ってしまう。(これが足がかりで)実際は逆で、現象としての知、その非真理の中に疑問が浸透していく。この知を説明すると、眼の前を至高の現実だと信じきっている知、でもそれは単なる非現実の空想(概念)にしか過ぎない。真実を掴めない知なのである。
Hyppolite:*絶望désespoirが疑いdouteに続く。これはドイツ語での地口でヘーゲルが遊んでいるだけだからHegel joue sur la ressemblance des deux mots 絶望なんて忘れる
部族民:弁証法の入り込む際のヒトの気分を、単純な疑問がきっかけとしている。この取り組みはじめを本文の章では「certitude sensible 感じられる確信」と表現する。
本章Introductionの冒頭で「現象の二通りの理解。一は道具として用いて「絶対」を掴み取る。一方は方法であってそれを通して「絶対」を感知する」を挙げた(65頁の引用)。その具体説明が上記「一回は疑問を消して、真理らしきに」=前者、後者は「その非真理の中に疑問が浸透していく」である。(ヘーゲル先生は2案の並立をこの後も繰り返す、2案あってもよろしい)しかし部族民はこの並立OKが分からない。現象の影を覗いながら考えるのだ!が分かりやすいから第2案に傾く。すると弁証法の否定は「こいつは真理でないとの疑問がオレ悟性に浸透した、こいつを検査した、ヤベー真理でない」と逃げ出し、次の行程に向かう。
理性にしても悟性にしても現象の野に現れた時点で、本来具有していた真理は失われるーヘーゲル主張の根幹です。

部族民:問題の一文: « la résolution, précisément, de ne pas se rendre à l'autorité des pensées d'autrui, mais d'examiner tout par soi-même et de suivre seulement sa propre conviction, ou mieux encore de produire tout de soi et de tenir pour le vrai seulement ce qu'il fait » (同)
唯一の解決を細部に渡って述べよう。権威とされる別の者の思考に自身を預けないことだ。すべてを自らで検査し、己の確信を追い続ける、更にすべてを自身で形成し真実のために己行いを維持することだ。
Hyppolite : Hegel montre contre le scepticisme de Schulze que le Scepticisme antique était plutôt la critique de la conscience commune et son élévation à la pensée. D 'autre part, Hegel critique un doute général qui isolerait la négativité de son contenu, et ne serait pas le chemin du doute. この「権威」とはSchulzeであろう。彼は懐疑主義を標榜したが、共通の悟性が思考に紛れると述べているのみ。(ヘーゲルの)疑いは「否定し、真理を見つけていく過程」につながる。この連綿性が弁証法なのだが、Schulzeはそこに行き着いていない。
本文の「権威に惑わされてはいけない」が、脚注で権威はSchulzeと教わる。ヘーゲル自身の疑いは「限定」であり、網羅的(何でもかんでも)疑いを否定する。この「限定疑い」は弁証法の段階継続の鍵です
Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 4 了 (9月2日)
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