(2024年8月25日)この解釈(悟性の不能、8月23日投稿)を含んで次節の一文を読む; « toute l 'entreprise de gagner à la conscience ce qui est en soi par la médiation de la connaissance est dans son concept un contre-sens, et qu’il y a entre la connaissance et l'absolu une ligne de démarcation très nette. » (同)瞑想し自身が本来持つ性状を掴む悟性の、あらゆる、企ては、認識の概念とは反対方向を目指す。認識と絶対の間には明瞭な識別線が引かれるのだから。
部族民:悟性(conscience)が登場する。後文で悟性の機能は弁証法と絡めて、かくかく説明される。認識(connaissance)は真理に向かうべく現象を野に映す。それを悟性が検査する、そして悟性は認識が抱いている概念とは「反対contre-sens」に向かう。故に真理にはたどり着かない。前文の「外部を理解せむとする悟性ながら、それは不能」に対応する。認識にはすでに(現象に関わる時点で)、絶対との明瞭な境界が存在する。なぜ境界線が明瞭なのか。絶対はモノが所有する、モノは認識外部に存在する。認識の野に動めくモノらしきは、絶対を反映するだけの現象でしかないから、この境界線は絶対と現象の差、ここが明瞭ーと読みたい。
蛇足; ヘーゲル全集(岩波、金子訳)では絶対を「絶対者」としている。この語は神を表す。しかし西洋哲学は思考から神を引き剥がすのを目的とするから(デカルトパスカルしかり、カントも)、ヘーゲルに「神」が登場するのは違和を感じる。神であれば « Absolu » 冠詞を被せず大文字で始まるを常とするから(仏語)、表現の上でも神はありえない。なおl’absolu絶対は本書を通じて、実質essence、真理véritéと併用して用いられる。存在するモノにしかそれら絶対は付与されない、この用語法は明確です。
ヒトの精神の略図(既出)
« si la crainte de tomber dans l’erreur introduit une méfiance dans la science, science qui sans ces scrupules se met d'elle-même à l'œuvre et connait effectivement, on ne voit pas pourquoi, inversement, on ne doit pas introduire une méfiance à l’égard de cette méfiance, pourquoi on ne doit pas craindre que cette crainte de se tromper ne soit déjà l’erreur même.
En fait, cette crainte présuppose quelque chose, elle présuppose même beaucoup comme vérité, et elle fait reposer ses scrupules et ses déductions sur cette base qu'il faudrait d'abord elle-même examiner pour savoir si elle est la vérité. » (66頁)
訳:誤謬に嵌る怖れは理性scienceに不信を芽生えさせる。しかしながら理性は平然と、己をして活動に入り、しっかりとそれを理解している。ヒト(理性の言い換え)はなぜこの怖れに気づかないのか。これと反対を考えよう、不信があったとしてもそれを理由として、不信を芽生えさせてはならない。間違いを犯してしまう怖れ、それを感じているその時が、すでに誤りに陥っている訳だが、なぜその事態をヒトは怖れないのか。
この怖れは、何かを前提とする、それは多くを真実としてしまう事だ。それ故、躊躇いもこじつけも、一旦、理性の土台に置こう。そこで、こうした怖れの、それ自体が真理であるかを検証するのだ。
« Elle présuppose précisément des représentations de la connaissance comme d'un instrument et d 'tin milieu, elle présuppose aussi une différence entre nous-même et cette connaissance ; surtout, elle présuppose que l’absolu se trouve d’un côté, et elle présuppose que la connaissance se trouvant d’un autre côté, pour soi et séparée de l 'absolu, est pourtant quelque chose de réel. En d’autres termes, elle présuppose que la connaissance, laquelle étant en dehors de l'absolu, est certainement aussi en dehors de la vérité, est pourtant encore véridique, admission par laquelle ce qui se nomme crainte de l'erreur se fait plutôt soi-même connaître comme crainte de la vérité » (67頁)
怖れは明確に、認識が時に道具(動き)として時に場として(影)の現象表現を採るのを前提にしている。我々自身(理性と理解)と認識との差異を予測している。怖れは、絶対はこちらに位置し、認識はあちら、覚自である故に絶対と離されていると知るし、「それなり」に実質である。別の説明と採ろう、怖れは、認識とは、絶対の外側にあるから、真理の外側であると知る。それでも認識はなおvéridique真実(らしき)である。それをして、誤りの怖れとは真理の怖れと分かる。
部族民:鍵語は « crainte» 怖れ。これは個人の感情「憂慮」ではない。認識に感情が入り込む文脈は考えられない。あり得る間違い、陥穽、リスクと考えたい。動詞devoir (活用でdoit)は「なすべき」ではなく「あり得る」とする。「真実véridique」の正確な意味は「dit vérité真実とされる 、辞書Robertなど」なので本当の真実 vérité とは異なる。
ヒトの精神活動、真理追求に潜むその不能を、精神の仕組から掘り起こしている。活動の根底には理性(science)が控える。しかし理性とて真理ではないからモノの真理にたどり着かない。かく、認識の仕組は不完全を抱える。我々(=理性)はそれに気づいていないから、思い違いが発生するなどとの用心を心得ていない。最終行の「真理の怖れcrainte de la vérité」は読み替えて、真理に「たどり着いたと錯覚する陥穽」となる。
引用文の伝えかけの真理追求に伴う怖れ(陥穽、起こり得る間違い)をまとめる:
1誤りに陥る 2理性はそれに気づかない 3誤りにはまると気付いた理性はすでに誤り 4多くを真理としてしまう 5戸惑いこじつけを休ませてこの前提(怖れ)は真実かを検証しなければ(でもしない) 6認識は道具でもあり現象の舞台でもある(前提) 7理性と認識に乖離 8認識は絶対の外 9現象を検査しても真理にたどり着かない 10真理にたどり着いたと勘違い、これも陥穽。
精神神動は「絶対」に届かないを10にまとめたが、次の文がこの10を言い表す « Cette conclusion résulte du fait que l'absolu seul est vrai ou que le vrai seul est absolu » (67頁)結論は 絶対は真理であり、真理は絶対である。
Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 2 了 (8月25日)
部族民:悟性(conscience)が登場する。後文で悟性の機能は弁証法と絡めて、かくかく説明される。認識(connaissance)は真理に向かうべく現象を野に映す。それを悟性が検査する、そして悟性は認識が抱いている概念とは「反対contre-sens」に向かう。故に真理にはたどり着かない。前文の「外部を理解せむとする悟性ながら、それは不能」に対応する。認識にはすでに(現象に関わる時点で)、絶対との明瞭な境界が存在する。なぜ境界線が明瞭なのか。絶対はモノが所有する、モノは認識外部に存在する。認識の野に動めくモノらしきは、絶対を反映するだけの現象でしかないから、この境界線は絶対と現象の差、ここが明瞭ーと読みたい。
蛇足; ヘーゲル全集(岩波、金子訳)では絶対を「絶対者」としている。この語は神を表す。しかし西洋哲学は思考から神を引き剥がすのを目的とするから(デカルトパスカルしかり、カントも)、ヘーゲルに「神」が登場するのは違和を感じる。神であれば « Absolu » 冠詞を被せず大文字で始まるを常とするから(仏語)、表現の上でも神はありえない。なおl’absolu絶対は本書を通じて、実質essence、真理véritéと併用して用いられる。存在するモノにしかそれら絶対は付与されない、この用語法は明確です。
ヒトの精神の略図(既出)
« si la crainte de tomber dans l’erreur introduit une méfiance dans la science, science qui sans ces scrupules se met d'elle-même à l'œuvre et connait effectivement, on ne voit pas pourquoi, inversement, on ne doit pas introduire une méfiance à l’égard de cette méfiance, pourquoi on ne doit pas craindre que cette crainte de se tromper ne soit déjà l’erreur même.
En fait, cette crainte présuppose quelque chose, elle présuppose même beaucoup comme vérité, et elle fait reposer ses scrupules et ses déductions sur cette base qu'il faudrait d'abord elle-même examiner pour savoir si elle est la vérité. » (66頁)
訳:誤謬に嵌る怖れは理性scienceに不信を芽生えさせる。しかしながら理性は平然と、己をして活動に入り、しっかりとそれを理解している。ヒト(理性の言い換え)はなぜこの怖れに気づかないのか。これと反対を考えよう、不信があったとしてもそれを理由として、不信を芽生えさせてはならない。間違いを犯してしまう怖れ、それを感じているその時が、すでに誤りに陥っている訳だが、なぜその事態をヒトは怖れないのか。
この怖れは、何かを前提とする、それは多くを真実としてしまう事だ。それ故、躊躇いもこじつけも、一旦、理性の土台に置こう。そこで、こうした怖れの、それ自体が真理であるかを検証するのだ。
« Elle présuppose précisément des représentations de la connaissance comme d'un instrument et d 'tin milieu, elle présuppose aussi une différence entre nous-même et cette connaissance ; surtout, elle présuppose que l’absolu se trouve d’un côté, et elle présuppose que la connaissance se trouvant d’un autre côté, pour soi et séparée de l 'absolu, est pourtant quelque chose de réel. En d’autres termes, elle présuppose que la connaissance, laquelle étant en dehors de l'absolu, est certainement aussi en dehors de la vérité, est pourtant encore véridique, admission par laquelle ce qui se nomme crainte de l'erreur se fait plutôt soi-même connaître comme crainte de la vérité » (67頁)
怖れは明確に、認識が時に道具(動き)として時に場として(影)の現象表現を採るのを前提にしている。我々自身(理性と理解)と認識との差異を予測している。怖れは、絶対はこちらに位置し、認識はあちら、覚自である故に絶対と離されていると知るし、「それなり」に実質である。別の説明と採ろう、怖れは、認識とは、絶対の外側にあるから、真理の外側であると知る。それでも認識はなおvéridique真実(らしき)である。それをして、誤りの怖れとは真理の怖れと分かる。
部族民:鍵語は « crainte» 怖れ。これは個人の感情「憂慮」ではない。認識に感情が入り込む文脈は考えられない。あり得る間違い、陥穽、リスクと考えたい。動詞devoir (活用でdoit)は「なすべき」ではなく「あり得る」とする。「真実véridique」の正確な意味は「dit vérité真実とされる 、辞書Robertなど」なので本当の真実 vérité とは異なる。
ヒトの精神活動、真理追求に潜むその不能を、精神の仕組から掘り起こしている。活動の根底には理性(science)が控える。しかし理性とて真理ではないからモノの真理にたどり着かない。かく、認識の仕組は不完全を抱える。我々(=理性)はそれに気づいていないから、思い違いが発生するなどとの用心を心得ていない。最終行の「真理の怖れcrainte de la vérité」は読み替えて、真理に「たどり着いたと錯覚する陥穽」となる。
引用文の伝えかけの真理追求に伴う怖れ(陥穽、起こり得る間違い)をまとめる:
1誤りに陥る 2理性はそれに気づかない 3誤りにはまると気付いた理性はすでに誤り 4多くを真理としてしまう 5戸惑いこじつけを休ませてこの前提(怖れ)は真実かを検証しなければ(でもしない) 6認識は道具でもあり現象の舞台でもある(前提) 7理性と認識に乖離 8認識は絶対の外 9現象を検査しても真理にたどり着かない 10真理にたどり着いたと勘違い、これも陥穽。
精神神動は「絶対」に届かないを10にまとめたが、次の文がこの10を言い表す « Cette conclusion résulte du fait que l'absolu seul est vrai ou que le vrai seul est absolu » (67頁)結論は 絶対は真理であり、真理は絶対である。
Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 2 了 (8月25日)