ある医療系大学長のつぼやき

鈴鹿医療科学大学学長、元国立大学財務・経営センター理事長、元三重大学学長の「つぶやき」と「ぼやき」のblog

選択と集中の罠(その4)

2012年11月20日 | 科学

 ついつい、別の講演の依頼が入ってくると、ブログ更新が滞ってしまいますね。実は11月17日に島根で「大学病院と地域医療」についてお話をしてきたのですが、その準備などのために忙殺されて、気が付いたらずいぶんと更新の日が空いてしまいました。「大学病院と地域医療」というテーマも、たいへん重要なテーマなので、後日このブログでもご紹介したいと思いますが、とりあえずは、前回の「選択と集中の罠」の続きです。

 今日はディスカッションポイントの2のところです。つまり、「大学の研究力向上のために、各セクターが担う役割、課題、具体的取り組みについて」というサブテーマですね。

 

 まず僕の主張する具体的取組としては「研究費総額確保」が絶対に必要であるということです。当たり前といえば当たり前の主張ですね。しかし、日本の国の財政難から、総額確保は非常に困難な状況になりつつあります。

 政策のマネジメントも、民間企業のマネジメントと同じで、原則はPDCAサイクルを回すことですね。PDCAサイクルを回すためには、ミッション(理念・目的)とともに、明確な数値目標が設定される必要があります。だって、Plan Doの効果があったかどうかの測定ができなければ、Checkができませんからね。

 ところが、今までは、日本全体としての研究力やイノベーション力の国際競争について、そのミッションとともに、明確な数値目標が設定されていませんでした。僕は、これは致命的欠陥であったと思っています。ただ、数値目標らしきものはあったことがあり、「選択と集中的」な数値目標は掲げられていたのですが、日本全体の研究の量的な規模についての目標がなかったのです。「選択と集中」的な数値目標というのは、たとえば、国際的な大学ランキング100位以内に10大学入る、とかいう目標ですね。

 資源の乏しいこの島国に住む人々を、イノベーション力でもって、先進国並みの生活レベルに保とうと思えば、イノベーションの質だけではなく量が必要です。同じ意味ですが、量だけではなく質も必要です。つまり、海外から資源を買おうと思えば、イノベーションの「質×量」が、海外諸国よりも相対的に勝っている必要があります。売買は、相対的な力関係で決まりますからね。

 そのためには、研究費の総額確保がどうしても必要であるというのが僕の主張です。

 

  このような考え方に立って、研究力の論文数による目標を設定するとすると、今までのブログで何回もお話したように、例えば「高注目度論文の数」が候補として挙げられ、また、日本列島に住む人々の生活レベルに関係づけるとすれば、「人口当たりの高注目度論文数」ということになると思います。そして、海外から資源を買うためには、この指標が相対的に相手よりも勝っていなければ買えないわけですから、「人口当たりの高注目度論文数の国際的なポジショニング」が、主要な数値目標(KPI)の一つになると思われます。

 もちろん、ほかにも適切な目標設定はありうると思いますし、また、研究力を測る指標としては、論文数だけではなく、特許件数やその他の指標もあります。

 

 下のグラフは、今まで何度もブログでご紹介してきたグラフですね。日本の人口当たりのトップ10%論文数の国際的なポジショニングは世界で21番目、ということでしたね。欧米諸国やシンガポールは日本のはるかかなた。台湾は日本の1.5倍ということでしたね。日本の高注目度論文数を1.5倍にすることは非常に困難ですが、僕は台湾をぜひとも目指してほしいです。

 

 

 日本は、財政難もあり、大学や科学技術政策において「選択と集中」を推し進めてようとしているのですが、ここで、「選択と集中」政策の罠について、あらためて考えてみましょう。

 まず、「選択と集中」という言葉の由来です。これは、GE社のCEOであったジャック・ウェルチさんの経営手法で有名になった言葉ですね。シェアが1~2番目の事業に選択と集中し、それ以外は止めてしまうという経営戦略です。

 「選択と集中」という言葉は、政府関係文書にも頻繁に出てきますね。「傾斜配分」や「メリハリのある予算配分」なども、その類です。なにか「選択と集中」をしさえすれば、すべてがうまくいくというような雰囲気にもなっています。

 しかし、「選択と集中」を地で行ったシャープは、一時期は「選択と集中」の成功事例の企業として絶賛されましたが、今では、サムスンなどの韓国企業に席巻されて経営危機に陥り、液晶などに選択を集中をしすぎた「片肺飛行」がいけなかったと批判されていますね。

 「選択と集中」という言葉の産みの親であるGE社が、インフラ事業をはじめとして、多様な事業を展開して生き残っているのは、皮肉と言わざるをえません。また、日立なども、家電だけにこだわるのではなくインフラ事業をやったことで生き残っていますね。GE社や日立は、一つの事業がうまくいかなくなったら、他の事業で勝負ができるという「多様性」があったから生き残ったということが言えるのではないでしょうか?

 つまり、「多様性」を伴っていない「選択と集中」は、たいへんリスキーであるということだと思います。適切な「選択と集中」をせずにつぶれた企業もたくさんあると思いますが、不適切な「選択と集中」をしてつぶれた企業もたくさんあるのではないでしょうか?

 また、サムスンなどの韓国企業は、既存の事業の「選択と集中」というよりも、ゼロから立ち上げて、市場を席巻してしまいましたね。これを、なんと表現すればいいのでしょうかね。もっとも、ベンチャーなども、最初は一つしか売るものがないわけですから「選択」をする余地はなく、ひたすら一つのことに集中せざるを得ませんけどね。

 公共政策において、財政難の時に「選択と集中」をして、優先順位の低い事業を切る場合にも、「選択と集中」という言葉が使われています。でも、GE社の経営戦略に由来する「選択と集中」という言葉と、少し意味が違うような気がしてなりません。

 ただ、”不適切な”「選択と集中」が逆効果になることについては、両者とも同じですね。

 それでは「選択と集中」政策が陥りやすい「罠」について、大学や科学技術政策を例にとって、考えてみることにしましょう。

 

 

 

 

 「実績のあるところに予算を重点配分する」ことは、公共機関であまねく当然のことのように行われている政策手法です。このことに疑問を抱く人は、ほとんどいないのではないでしょうか?実績のないところに、国民からの貴重な税金を投入するわけにはいきませんからね。

 でも、この当たり前の常識についても、ちょっと考えてみましょう。

 この、予算配分の根拠となる「実績」というのは、公平な機会の下で競争した結果の実績が前提ではなかったのでしょうか?そうであるならば、誰も文句はいわないでしょう。しかし、最初から重点化されている組織と、重点化されていない組織とを競争させて、つまり、不公平な機会の下で競争させた結果の実績で予算配分を決めるというようなことがなされると、話が違ってくるのではないでしょうか?

 こういう重点化がなされると、最初から重点化されている組織は、当然実績も上がりますので、その結果さらに重点化され、さらに実績を上げて、さらに重点化される、という増殖が続く循環になります。そうすると、それまで、予算配分の組織間傾斜が富士山くらいの傾斜であったものが、気が付いたら、東京タワーの傾斜になり、さらに急峻なスカイツリーの傾斜になってしまいます。

 僕は、日本の大学間の、欧米諸国には見られない極めて急峻な傾斜は、このような政策の積み重ねで生じた可能性も否定できないのではないかと思っています。

 そして、このような大学間の急峻な傾斜が、日本全体のイノベーションの「質×量」の最大化に寄与するということであれば、これは適切な「選択と集中」政策ということになります。しかし、僕は、この傾斜が急峻すぎると「質×量」がむしろ低下するのではないかと考えています。限られた財政の中で、「質×量」が最大化するような傾斜を探る必要があるのではないでしょうか?

 次に、「科学研究費取得額の多い大学に予算を重点配分する」という政策について考えてみましょう。これは、実際に、平成19年に財政制度等審議会の資料として出された政策ですね。この時には、多くの地方国立大学の運営費交付金が半減するということで、全国知事会の反対決議にまでいき、政府は、この政策案を急きょ引込めましたね。ところが、今年の6月に出された「大学改革実行プラン」の研究評価の指標の一つに、競争的資金(科研費等)獲得状況が再度取り上げられているのです。

 このような、ある基準でいったん評価された結果を、評価指標に用いてさらに重点化することは、いわゆるレバレッジをかけることになり、先ほどと同じ「罠」にはまる危険性が高いと考えます。

 このような理由から、「競争的資金(科研費等)獲得状況」は、一つの研究力の評価指標ではあるのですが、それを予算配分の根拠とすることには反対です。そして、予算配分と直結する可能性が高い大学改革実行プランの評価指標からは除くべきであると考えます。むしろ「科研費あたりの論文数」を、研究力指標の一つとして入れて欲しいですね。

 

 さらに、「選択と集中」の「罠」にはまりやすい例を挙げていくことにしましょう。

 今回の論文数のベンチマーキングの結果を用いて、貢献度の低い(例えば高注目度論文数の少ない)地方大学の予算を削って、貢献度の高い大学を選択して集中する、という政策は、一見合理的な政策のように思えます。

 しかし、フランスがしたように、いくつかの大学を形の上で統合して、一つの大学として論文数をカウントした場合、その大学の貢献度は高くなり、逆に、「選択と集中」される対象になるかもしれません。

 日本でもたとえば、地方大学を10大学ほど形の上で統合して、論文数をカウントすれば、旧帝大に匹敵する研究実績が得られるかもしれませんね。このように、一大学あたりの論文数でベンチマーキングして、それを単純に「選択と集中」政策に反映させると、せっかくの日本の研究力(イノベーション力)を大きく削いでしまう危険性があります。

 このような「選択と集中」は、GE社に由来する「選択と集中」や、山中伸弥先生のiPS細胞の研究に「選択と集中」する政策とは、本質的に異なった使い方のように思います。本来の「選択と集中」とは似て非なるものなので、今後は誤解や混同を避けるために、何か別の言葉で表現した方がいいのかも知れませんね。

 また、地方大学で高注目度論文数が少ない理由としては、大学の規模が小さいこと、研究費を獲得し難いこと、学部教育負担が大きいこと、院生が少ないこと、研究設備が不十分であることなど、研究者の能力以外の要因が大きい可能性があると思います。つまり、せっかく優秀な研究者がおられても、不利な研究環境のために上位大学ほどの論文を産生できない可能性がある。そして、単純な数値指標で地方大学を切り捨てると、このような優秀な研究者の能力をさらに埋没させてしまうことになり、日本にとって一人でも多くのイノベーターが必要な時期に、大きな損失になるかもしれません。

 

  また、「選択と集中」をする場合には、「選択と集中」をした方のプラス面と、切り捨てた方のマイナス面の影響との差し引きで考える必要がありますね。

 たとえば、トップの大学や研究機関が世界的な研究レベルを保つためには研究者の流動性を高める必要があります。つまり、トップの大学は二番手の研究者を地方大学に転出させ、優秀な研究者を地方大学から、あるいは、世界から雇用するという、人的ダイナミクスを保つことによって、そのレベルを維持してきたと考えられます。地方大学は、その人的ダイナミクスの大きな受け皿となってきた可能性があるんですね。

 単純なベンチマーキングデータに基づいて、地方大学の裾野を切り捨てると、トップの大学や研究機関のレベルも低下する可能性があると思います。やはり、富士山の広い裾野は、トップの高さを保つために必要不可欠なのではないでしょうか?

 さらに、「選択と集中」をするためには、その前提として「種蒔き」が必須です。種を蒔いて芽が出た時に、目利きをして、有望そうな研究プロジェクトに「選択と集中」する、というのが常套手段ですね。これが本来の「選択と集中」の使い方だと思います。そして「種蒔き」と「選択と集中」のバランスについては、日本全体のイノベーションの「質×量」が最大化するような比率を探る必要があります。

 しかし、今の日本の「選択と集中」政策の議論を見ていると、この「種蒔き」をつぶしてしまうことが「選択と集中」であると勘違いしておられる方がいらっしゃるのではないかと、心配になってしまいます。

 大学間の傾斜についても、イノベーションの「質×量」が最大化するような傾斜を探る必要があると思われますが、たとえば、科研費あたりの論文数が地方大学の方が高いことは、この傾斜が急峻すぎることを意味している可能性もあるんじゃないかと思ったりしています。

 さらに、「財政難だから、これからは量より質だ。」というご意見を、審議会等で頻繁にお聞きするのですが、これも、大きな矛盾をはらんでいるのです。

 科学技術政策研究所が出している調査資料203に、高注目度論文数を産生した研究プロジェクトと、そうでなかった研究プロジェクトを比較したデータがあるのですが、それを見ると、高注目度論文を産生した研究プロジェクトでは、多くの人手と日数をかけているのです。

 また、高注目度論文を産生した研究プロジェクトにおいても、すべての論文が高注目度というわけではなく、数多くの論文を産生して、その中の一つが高注目度になるということなのです。高注目度論文を産生した研究プロジェクトでは、高注目度でない論文も、よりたくさん産生しています。

 つまり、高注目度論文を産生しようと思えば、お金がたくさん必要ということです。お金を減らして、なおかつ質を高めようというのは、幻想でしかありません。

 国の緊縮財政と「選択と集中」政策の潮流は、押しとどめることができない大きな流れだと感じますが、その潮流の中で、国立大学にも断続的に波が押し寄せてきています。それを、以下のスライドにまとめてみました。

 そのような状況の中で、一部の大学を除いては、国立大学は将来の見通しがつかず、存在基盤が弱く極めて不安定な状況に置かれていると感じます。もっとも、一部の私立大学も、存続の危機に置かれているわけですが・・・。

 

 

 こういった国立大学に対する「選択と集中」政策などの結果、基盤的運営費交付金が削減され、すると余力の小さい地方国立大学では、教育負担等を減らさずにきっちりと教員の削減をするので、FTE教員数(つまり教員数×研究時間)が減り、論文数は停滞~減少を来してしまったと考えます。

 しかし、ちょっと待ってくださいよ。このような「選択と集中」政策で機能を低下させた地方国立大学というのは、日本の800以上もある大学の中で、トップ5%前後に位置する、かなり上位にある大学群なんですね。トップ5%に位置する大学群の機能を低下させることが、果たして「選択と集中」なんですかね?もっと下位の大学の機能を低下させるということであれば「選択と集中」と言えるのかもしれませんが・・・。かなり上位に位置する大学群、しかも科学研究費あたりの論文数がむしろ高い大学群の機能を低下させるなんて、そもそも「選択と集中」になっていませんね。

 

  今日のブログでは「選択と集中」政策が陥りやすいさまざまな「罠」について、お話をしてきました。「選択と集中」政策をとる場合には、以上のようなことをすべて勘案した上で、日本全体のイノベーション力の「質×量」が最大化するような、「適切な選択と集中」政策をお願いしたいものです。

 では、いったい、どうすれば良いのか?これは、なかなか難しいテーマになるわけですが、次回のブログで、僕の考えをお話していくことにしましょう。

 

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