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◆しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。

2011年10月09日 17時04分21秒 | 聖書
(マタイ一五・二三)

心から求めつつもなお祝福を得ない人は、この物語によって慰めを得るだろう。この女は、救い主に対して大いなる信仰をもっていたが、主はすぐには祝福をお与えにならなかった。与える意図はもっておられたが、しばらく控えておられたのである。
「イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。」彼女の祈りはよくなかったのだろうか。否、彼女の祈りほどよい祈りはなかった。では必要に迫られていなかったのか。否、悲嘆にくれるほど必要に迫られていた。彼女は必要を十分に感じていなかったのか。彼女はそれを痛切に感じていた。熱心が足りなかったのか。彼女は実に熱心であった。信仰をもっていなかったのか。彼女の深い信仰はイエスさえも驚かれ、「ああ、あなたの信仰はりっぱです」と言われたほどである。
信仰が平和をもたらすことは真実であるが、いつでもただちに与えられるとは限らない。信仰の試みを要する理由があり、それが信仰の報いに先立つ。真実の信仰が、隠れた種のようにたましいの中に埋れて、喜びや平和のつぼみを出さず、花も咲かないという状態があるかもしれない。主が沈黙を守られることは、多くの求めているたましいにとって悲痛な試みである。
しかし、さらに耐えがたいのは、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」という厳しい答えである。主の答えを待つ多くの人々はすぐに喜びに会うが、だれでもそうなのではない。ある人々はピリピの看守のように、一瞬のうちにやみから光に移されるが、他の人々は生長の遅い植物のようである。赦しの意識よりも、深い罪の意識があなたに与えられるかもしれない。その時、その痛撃に耐える忍耐が必要である。あわれな心よ。たとえキリストがおまえを打ち、あるいは、あなたに怒りのことばを出されても、主の心の愛を信ぜよ。


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