メリークリスマス! 日本の教会ではもう少し改まって、主の御降誕の日をお慶します、とか言います。もちろん普通の会話ではメリークリスマスの方が主流でしょうが。
アイスランドでは、教会の内でも外でも共通してGledileg jolグレージィレーグ・ヨウルがクリスマスの挨拶言葉です。意味は「喜ばしいクリスマスを」。以前にも書きましたが、これが会話での挨拶となると、発音がくずれて「グレリヨ」みたいになります。
「グレリヨ!!」メリークリスマス!!
昨日23日はアイスランドの聖人ソールラウクスにちなんだ「ソールラウクス・メサ」と呼ばれる一種の祝日で、クリスマス前夜祭のような日でした。例年なら夕方に市内の旧目抜き通りをパレードする「平和行進」が行われるのですが、これもCちゃん対策のために中止となってしまいました。
クリスマス前日で、お店は遅くまで開いてクリスマスプレゼント準備の最後のチャンスとなり、多くの人で街は賑わうのが例年のこの日。今年は、人出はぐっと減りましたが、それでもそれなりに賑わったようです。ロックダウンが再開された英国などに比べると、多少の自由はまだあります。
さて、前回、前々回と書きましたように、個人的にはあたふたの度合いがかなり上がりっぱなしだった今年のアドベント。ここまできますと、一応の峠を越した感があります。
あたふたの理由は、教会での普通の集会がCちゃんのおかげでサスペンドになっているため、礼拝(ミサ)の動画を事前に収録して流す、ということが普通になっていたことです。
高齢の方が多い、私の居候先のブレイズホルトス教会にはTeck guyが皆無なため、私が収録係としてお助けしていたのです。
私自身が責任を持っている英語での集会や、そこから派生してきているペルシャ語グループの動画はもちろん作ることになっていたのですが、加えてアイスランド語の一般礼拝だけではなく、高齢者の会や、はたまたクワイヤ等が独自に配信したいクリスマス特番的な企画の動画まで作る羽目になりました。
アドベント期間中に撮影編集した動画は、全部で... 二十三になります。クリスマスの日まで勘定に入れて、二十三配信。
私自身、そこまでTeck guyではないので、慣れないこと、わからないことが順次発生してきて、まあ、かなり忙殺されたことは事実です。
それでも、なんというか、うまく動画がまとまってくれて、見るに堪えるくらいのレベルに達してくれると、こちらも嬉しくなるし、一種の達成感があります。
今回、この「本来の仕事ではないのだが、with Coxxxxの期間中はやらざるを得ないでしょ」的な課題に際して、ひとつ決めていたことがありました。それは自分の名前はどこにも出さない、ということ。
私は基本的にはクレジットに関しては、几帳面な方です。自分が責任者であるような場合には、何かの課題に貢献した人については、必ずその人の貢献が明らかになるようにクレジットを付けるようにしています。
例えば、何かのイベントがうまくいき、そのことをFacebookに書くような時、ちゃんと貢献者の方々の名前を挙げて感謝するようにしています。
ですが今回、自分が労を担いながら、自分の名前は出さないようにしたのにはわけがあります。
本文とは無関係ですが、アイスランドの「THE」クリスマス料理Hangikjot ラム肉の半燻製(自宅です)
第一に私は動画についてはシロートなので、できたものも素人の域を出ていないことはわかっているからです。はっきり言って、公にクレジットを掲げられるとこまではいっていない。
それに付随して、うかつに名前なんかを出して、あーでもない、こーでもない、と文句を言われるのが面倒だったからです。「画面がブレてる」「音声に雑音が入る」わかってますよ、言われなくても。
ですが、一番大きな理由は別にありました。「舞台裏で働くこともできるんだよ」アピールです。
私は「緑の党」のお話しの中で何回か触れましたように、メディアにものを言うことを積極的にしてきた人なので、「出たがり屋」「売名男」「スポットライト症候群」のように言われることもよくあります。
自分ではそうはお思いませんが、そのように見る人がいるということは理解できますし、ことさら腹も立ちません。そのくらいの批判は仕事のうちと思っています。その批判を恐れて、言うべきことを言わないとしたら、そちらの害の方がずっと大きい。
実際には、ずいぶん裏方の仕事をすることも多いのですが、そういう部分は他人様の目には届きません。当然です、だから「裏方」仕事なんだから。
ところが、今の教会にいる高齢の主任牧師が時折「まあ、トシキもスポットライト好きだからね」みたいなことを口にするのです。いい人なのですが、これには、多少カチンとくるところがありました。
なんせ、この牧師さん、政治談義が好きで教会のキッチンとかでよく演説を始めるのです。「これがアイスランドのキャピタリズムだ!」とか「現代のポピュリズムとは?」とか。
私が思うには、政治的な意見を開陳したいのなら、世間に向かって言ったら?ということです。教会のキッチンでトウトウと演説しても意味ないし。言うべきものがあるのに、外に向かって言えないのは、奥ゆかしいのではなくて、ガッツが足りないんでしょ?
で、それはともかく、今回この一連の動画のお助けを通して、この先輩牧師さんに、私は「スポットライト症候群」ではないことを悟ってもらいたいと思ったわけです。
先輩牧師さんが認識を改めてくれるか否かは、まだ分かりませんが、種は撒いた、という感じでしょうか?へへ、楽しみ。
本文とは無関係ですが、これも人気が出てきたクリスマス料理七面鳥(自宅です)
ところが、関連したことなのですが、ちょっと意外というか、私が思っていた域を超えるものに気が付かされました。動画制作という裏方仕事が、私の予想を超えて「裏方」だったことです。
動画を観る側としては、例えばそれが教会の動画だとして、「牧師さんのお話しがとても良かった」「クワイヤのコーラスがきれい!」「子供たちの歌声がかわいい」というような反応をするのが普通。
「この動画の編集は整っている」「音がきれいに取れている」とか「うまく繋いである」などという人はまずいません。いるとしたら、最近自分でYoutubeを始めた人で、そういう目で動画を観る人くらいのものでしょう。
実際にFacebookとかで配信をすると、「演者」に対しての賞賛はたくさん付くのですが、動画制作に関しては100%スルー。おそらく誰も、動画にはそれを撮影して編集してる人がいるんだ、なんて考えたこともないのでしょう。動画制作って、ここまで裏方だったんだー。
これは別に文句ではないのです。ただ、とても考えさせられるものがあります。いかに、物事には見える部分と見えない部分があるかということです。当たり前のことなんですが、自分自身、思っていたほど理解してはいなかったようで。
自分に関して考えてみても、やはりいつでも見える部分だけを見て判断し、ジャッジしてきてるなー、と認めざるを得ないのです。
もう一度ダウンタウンの「青い木」
テレビの「モヤさま」とか、好きなんです、ああいう「街ブラ」の番組。出てくるのは三村さんと、大竹さん、田中アナの三人が中心ですが、時折、収録クルーがが画面に映り込むと、「え〜! こんなに大勢で歩いてるんだ〜!」と驚かされます。
マイクロフォンの付いた長〜い竿を持つ人、ヘッドフォンで音声をチェックする人。照明、ディレクターさん?メイクさん、その他よくわからないのですが画面の外に十人以上で固まって動いていますよね。
考えてみれば、そもそも事前の情報収集や、訪問先の設定と交渉等々、収録に出かける以前に山のような仕事があるはずです。
ただ、そういう部分は「裏方」つまりは見えないところにあらねばならないものであるのがルールなのでしょう。いかにもさまぁ〜ずのおふたりと田中アナが三人だけで、行き当たりばったりに街ブラをしてるんだ、と視聴者が思うようなものこそが、優れた回なんでしょう。
だから、結局裏方に生きる人は、視聴者の方々からの賛辞以外のところに喜びと生きがいを見出さないといけないのでしょうね。
後に残るこの感覚は何?不公平感、あきらめ、哀愁? あるいは自分自身だけ味わえる満足感か?... ...
まあ、裏方さん自身にはそういうのもあるでしょう。対して、こちら、見る側にとって大切なのは、見えない部分が常にあることを理解すること、できればそれを忘れずにいることだろうと思います。
これって、テレビ番組だけのことではなく、ほとんど身の回りのすべてのことに当てはまることのはずです。そして、その周囲にある事柄が自分にとって多少なりとも良い影響や利益を及ぼしているのもであるならば、見えない部分で働いていらっしゃる方々にも感謝するということは、私は自分自身のためにも大切なものと考えます。
ちょっと無理ヤリー!?みたいになりますが、クリスマスの光も「暗闇と死の陰に座している者たちを照ら」す(ルカ1:79)ものであり、世のスポットライトの中心からは外れています。
見えないところにいる方々に感謝をするのは、クリスマスには特にふさわしいことなのでしょう。「あたふた」の嵐が過ぎ去ると、天にそれを告げる星が輝いていたような... (*^^*)
メリークリスマス。
*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
アイスランドでは、教会の内でも外でも共通してGledileg jolグレージィレーグ・ヨウルがクリスマスの挨拶言葉です。意味は「喜ばしいクリスマスを」。以前にも書きましたが、これが会話での挨拶となると、発音がくずれて「グレリヨ」みたいになります。
「グレリヨ!!」メリークリスマス!!
昨日23日はアイスランドの聖人ソールラウクスにちなんだ「ソールラウクス・メサ」と呼ばれる一種の祝日で、クリスマス前夜祭のような日でした。例年なら夕方に市内の旧目抜き通りをパレードする「平和行進」が行われるのですが、これもCちゃん対策のために中止となってしまいました。
クリスマス前日で、お店は遅くまで開いてクリスマスプレゼント準備の最後のチャンスとなり、多くの人で街は賑わうのが例年のこの日。今年は、人出はぐっと減りましたが、それでもそれなりに賑わったようです。ロックダウンが再開された英国などに比べると、多少の自由はまだあります。
さて、前回、前々回と書きましたように、個人的にはあたふたの度合いがかなり上がりっぱなしだった今年のアドベント。ここまできますと、一応の峠を越した感があります。
あたふたの理由は、教会での普通の集会がCちゃんのおかげでサスペンドになっているため、礼拝(ミサ)の動画を事前に収録して流す、ということが普通になっていたことです。
高齢の方が多い、私の居候先のブレイズホルトス教会にはTeck guyが皆無なため、私が収録係としてお助けしていたのです。
私自身が責任を持っている英語での集会や、そこから派生してきているペルシャ語グループの動画はもちろん作ることになっていたのですが、加えてアイスランド語の一般礼拝だけではなく、高齢者の会や、はたまたクワイヤ等が独自に配信したいクリスマス特番的な企画の動画まで作る羽目になりました。
アドベント期間中に撮影編集した動画は、全部で... 二十三になります。クリスマスの日まで勘定に入れて、二十三配信。
私自身、そこまでTeck guyではないので、慣れないこと、わからないことが順次発生してきて、まあ、かなり忙殺されたことは事実です。
それでも、なんというか、うまく動画がまとまってくれて、見るに堪えるくらいのレベルに達してくれると、こちらも嬉しくなるし、一種の達成感があります。
今回、この「本来の仕事ではないのだが、with Coxxxxの期間中はやらざるを得ないでしょ」的な課題に際して、ひとつ決めていたことがありました。それは自分の名前はどこにも出さない、ということ。
私は基本的にはクレジットに関しては、几帳面な方です。自分が責任者であるような場合には、何かの課題に貢献した人については、必ずその人の貢献が明らかになるようにクレジットを付けるようにしています。
例えば、何かのイベントがうまくいき、そのことをFacebookに書くような時、ちゃんと貢献者の方々の名前を挙げて感謝するようにしています。
ですが今回、自分が労を担いながら、自分の名前は出さないようにしたのにはわけがあります。
本文とは無関係ですが、アイスランドの「THE」クリスマス料理Hangikjot ラム肉の半燻製(自宅です)
第一に私は動画についてはシロートなので、できたものも素人の域を出ていないことはわかっているからです。はっきり言って、公にクレジットを掲げられるとこまではいっていない。
それに付随して、うかつに名前なんかを出して、あーでもない、こーでもない、と文句を言われるのが面倒だったからです。「画面がブレてる」「音声に雑音が入る」わかってますよ、言われなくても。
ですが、一番大きな理由は別にありました。「舞台裏で働くこともできるんだよ」アピールです。
私は「緑の党」のお話しの中で何回か触れましたように、メディアにものを言うことを積極的にしてきた人なので、「出たがり屋」「売名男」「スポットライト症候群」のように言われることもよくあります。
自分ではそうはお思いませんが、そのように見る人がいるということは理解できますし、ことさら腹も立ちません。そのくらいの批判は仕事のうちと思っています。その批判を恐れて、言うべきことを言わないとしたら、そちらの害の方がずっと大きい。
実際には、ずいぶん裏方の仕事をすることも多いのですが、そういう部分は他人様の目には届きません。当然です、だから「裏方」仕事なんだから。
ところが、今の教会にいる高齢の主任牧師が時折「まあ、トシキもスポットライト好きだからね」みたいなことを口にするのです。いい人なのですが、これには、多少カチンとくるところがありました。
なんせ、この牧師さん、政治談義が好きで教会のキッチンとかでよく演説を始めるのです。「これがアイスランドのキャピタリズムだ!」とか「現代のポピュリズムとは?」とか。
私が思うには、政治的な意見を開陳したいのなら、世間に向かって言ったら?ということです。教会のキッチンでトウトウと演説しても意味ないし。言うべきものがあるのに、外に向かって言えないのは、奥ゆかしいのではなくて、ガッツが足りないんでしょ?
で、それはともかく、今回この一連の動画のお助けを通して、この先輩牧師さんに、私は「スポットライト症候群」ではないことを悟ってもらいたいと思ったわけです。
先輩牧師さんが認識を改めてくれるか否かは、まだ分かりませんが、種は撒いた、という感じでしょうか?へへ、楽しみ。
本文とは無関係ですが、これも人気が出てきたクリスマス料理七面鳥(自宅です)
ところが、関連したことなのですが、ちょっと意外というか、私が思っていた域を超えるものに気が付かされました。動画制作という裏方仕事が、私の予想を超えて「裏方」だったことです。
動画を観る側としては、例えばそれが教会の動画だとして、「牧師さんのお話しがとても良かった」「クワイヤのコーラスがきれい!」「子供たちの歌声がかわいい」というような反応をするのが普通。
「この動画の編集は整っている」「音がきれいに取れている」とか「うまく繋いである」などという人はまずいません。いるとしたら、最近自分でYoutubeを始めた人で、そういう目で動画を観る人くらいのものでしょう。
実際にFacebookとかで配信をすると、「演者」に対しての賞賛はたくさん付くのですが、動画制作に関しては100%スルー。おそらく誰も、動画にはそれを撮影して編集してる人がいるんだ、なんて考えたこともないのでしょう。動画制作って、ここまで裏方だったんだー。
これは別に文句ではないのです。ただ、とても考えさせられるものがあります。いかに、物事には見える部分と見えない部分があるかということです。当たり前のことなんですが、自分自身、思っていたほど理解してはいなかったようで。
自分に関して考えてみても、やはりいつでも見える部分だけを見て判断し、ジャッジしてきてるなー、と認めざるを得ないのです。
もう一度ダウンタウンの「青い木」
テレビの「モヤさま」とか、好きなんです、ああいう「街ブラ」の番組。出てくるのは三村さんと、大竹さん、田中アナの三人が中心ですが、時折、収録クルーがが画面に映り込むと、「え〜! こんなに大勢で歩いてるんだ〜!」と驚かされます。
マイクロフォンの付いた長〜い竿を持つ人、ヘッドフォンで音声をチェックする人。照明、ディレクターさん?メイクさん、その他よくわからないのですが画面の外に十人以上で固まって動いていますよね。
考えてみれば、そもそも事前の情報収集や、訪問先の設定と交渉等々、収録に出かける以前に山のような仕事があるはずです。
ただ、そういう部分は「裏方」つまりは見えないところにあらねばならないものであるのがルールなのでしょう。いかにもさまぁ〜ずのおふたりと田中アナが三人だけで、行き当たりばったりに街ブラをしてるんだ、と視聴者が思うようなものこそが、優れた回なんでしょう。
だから、結局裏方に生きる人は、視聴者の方々からの賛辞以外のところに喜びと生きがいを見出さないといけないのでしょうね。
後に残るこの感覚は何?不公平感、あきらめ、哀愁? あるいは自分自身だけ味わえる満足感か?... ...
まあ、裏方さん自身にはそういうのもあるでしょう。対して、こちら、見る側にとって大切なのは、見えない部分が常にあることを理解すること、できればそれを忘れずにいることだろうと思います。
これって、テレビ番組だけのことではなく、ほとんど身の回りのすべてのことに当てはまることのはずです。そして、その周囲にある事柄が自分にとって多少なりとも良い影響や利益を及ぼしているのもであるならば、見えない部分で働いていらっしゃる方々にも感謝するということは、私は自分自身のためにも大切なものと考えます。
ちょっと無理ヤリー!?みたいになりますが、クリスマスの光も「暗闇と死の陰に座している者たちを照ら」す(ルカ1:79)ものであり、世のスポットライトの中心からは外れています。
見えないところにいる方々に感謝をするのは、クリスマスには特にふさわしいことなのでしょう。「あたふた」の嵐が過ぎ去ると、天にそれを告げる星が輝いていたような... (*^^*)
メリークリスマス。
*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is