先週の一週間は、毎日「雨―」の連続でした。風が強い日もありましたが、それよりもザーザーと上から下へ降る、まるで日本の梅雨時期のような日まであったのです。それでいて気温は13, 4度と、この時期としては高いのです。
やれやれ、嬉しいのか、つまらないのか決めかねる気分です。毎年、夏から短い秋、そして冬へと移り変わる時期は、精神的にも肉体的にも調子を崩しやすいですね。久々の「闇」の到来に気が重くなりそうですし、「寒気」には身体がまだ慣れていないので、実際よりも寒く感じてしまいます。
冬に入りきってしまえば、それはそれで平気なのですけどね。
さて、今回は夏の間に読んだ新聞記事についてご紹介します。面白いと言うか、気になるものだったので「そのうちブログに書こう」と思ってとっておいたものです。
その記事は、アイスランドの新聞のネット版で「その記事について扱った記事」を見つけたものです。元の記事はイギリスのGuradianのネット版でした。
タイトルは「レイキャビクでは私は書けない、と分かった。それから小さなことに気が付き始めた」というものです。書いたのはイギリスの女流作家のサラ・モスさんという方。
「アイスランドで物語を書こう」と思い、家族連れで2009年から10年にかけて、レイキャビクに越してきたのだそうです。もう十年も前のことですね。その時の体験を基にした記事なのですが、先へ行く前に、このサラ・モスさんがどのくらいの?作家なのかについて一言しておきましょう。
1975年グラスゴー生まれ、ということですから、今年四十四歳ですね。レイキャビクへ来た当時は三十四歳。Wikiによりますと、六篇の小説と、いくつかのノンフィクションものを書いているようです。
自身のホームページを見ますと、オックスフォードで英語文学のPhDを取り、現在はワーウィック大学というところの教授で「Creative writing」なるものを講義しているそうです。それほど「売れっ子作家」というわけではないようです。
さて、このGurdianに現れた記事、まずはタイトルのように「レイキャビクでは書けなかった」と打ち上げておいてから、どうしてそうなったのかを説明しています。
「アイスランドの(自然の)風景は、物語りを携えているのでしょうが、それらは私の物語りではありませんでした。
物語りを携えているアイスランドの風景
(アイスランドでは)ドイツやフランスでの長期滞在では感じなかった『外国』を感じました。アイスランド人の感情を読み取ることができなかったのです。(...)
誰も腹を立てたり、心配したり、興奮したりしないように思えました。(...)
アイスランドの映画も観たのだけど、サブタイトルがあったにも関わらず、ストーリーに付いていけませんでした。そこで語られていること(僅か)と、起こっていること(ほとんどが暴力か手仕事)の間にどんな関係があるのか、理解できませんでした。
私はいつも謝り回っていたように思います– その場にいること、アイスランド語を話せないこと、それが何であれ何かを尋ねていることを。だがあらかじめの謝罪(断り)はアイスランドでは通用しておらず、(そのような行為は)ますます私を奇妙な人物に見せてしまい、私がただ弁解しまくっているように感じさせたようです。
Sorry, sorry for saying sorry.
私はジョークも言わなかったし、笑いもしませんでした。だって、私の場所じゃなかったんです。私は自分を小さく、静かにして、観察し学ぶようにしました。古典的な新参者の移民の反応ですね。
良く知られたことですが、アイスランド語にはPleaseという言葉がありません。そしてTakk (ありがとう)は、英国人のThank youよりも、はるかに稀にしか使われないのです。(...)
同僚の(アイスランド人の)ピエトゥルが私に言ってくれました。(...)『礼儀というものはここでは(アイスランドの)植物のようなものさ。陽の光が少なく、シーズンも短いから、皆、地面に近いし、育つのも遅い。でもすべてそこにあるし、機能するんだ。君もわかるようになる』」
こんな調子で続くので、ここまで読んだアイスランド人は早々にギブアップして「なんだ、こいつは?」となってしまったことでしょう。私自身も「なんだ、ひどくjudgingだな」と思いました。当然ですよねえ? 実際、この記事について扱ったアイスランドの新聞のネット版は、この辺で終わっているのですから。
ところが、ここに落とし穴がありました。実際にGurdiannの記事を当たってみると、本当はまだ先があったのです!
サラさんは続けます。
「風がない時は、私は夏期の習慣である就寝前の散歩をするように努めました。雪の上に月明かりが届いていることもあるし、オーロラを見ることもある。本当に『闇』というわけではなかったのです。私は遥か南の方のかすかな、光の動き(Modulation)を学びました。
同じようにして、ひかえめな作法やある種の礼儀の中に紛れ込まされている、気が付くかどうかくらいの自己表現のモドュレーションを、私は学びました。
もちろん、アイスランドにも感謝や悔恨、さらに自己批判までも存在するのです。アイスランド人にも興奮や怒りを表現する方法はあるのです。問題は、私が、それらに気が付くことができなかった、ということなのでした」
元の記事を読みたい方はこちら
闇の中にも明かりはある... その光の波長をつかめるかがカギ?
考えてみると、私自身、アイスランドへ来てからの数年間は、このサラさんが書いていることと同じような「ネガティブ!!」感情を持ちましたね、この国に対して。私の場合に一番強く感じたのは「なんて『気配り』のない連中なんだ!」ということでした。
それどころか、こちらが謙遜にひかえめに出てやると、かさにかかってきたりして。ザケんじゃねえよ。
あの時からこのブログをしていたとすれば、きっとサラさんの記事の前半と同じようなことを書いていたことでしょう。人間、始めは自分の既に持っている表現法や、周りを測る基準を使わないわけにはいかないですからね。
そして、ある程度のところから、見えなかったものが見え始めたり、気がつかなかったものに気が付き始めたりして、アジャストしていけるのだと思います。
そこまでいって、まだ気に食わなかったら、それは本当に「相性が悪い」ということになるのではないでしょうか?
記事の全体を見る限り、サラさんもアイスランドと本当に「相性が悪い」というわけではなかったのでしょう。めでたし、めでたし。
サラさんの記事を紹介するフリェッタブラーズィズ紙ネット版 見出しは「アイスランド人 感情なし」
しかしです、ここで私は言いたい。
このガーディアンの記事をアイスランドで紹介した、フリェッタブラーズィズ紙のネット版。明らかに意図的に記事の後半部分を無視して、前半の「ネガティブ」部分だけを取り上げていました。
これではサラさんが、アイスランドに本当に幻滅して、徹底的に攻撃している「てい」になってしまいます。実際、ネット版に寄せられたコメントは、その線に乗っかったものがほとんどでした。
三流の大衆紙ならともかく、アイスランドでは一応モルグンブラウズィズ紙と並んで「二大紙」に数えられている新聞がそういうことをするかなあ?という呆れた気分にさせられました。
記事のテーマがテーマだけに、逆に複雑な思いがします。一周グルっと回って、結局、サラさんが始めに感じたことが正しかったんじゃないのかい?とか...
やれやれ、アイスランド。私だって、私だって、ツカれるわ...
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
やれやれ、嬉しいのか、つまらないのか決めかねる気分です。毎年、夏から短い秋、そして冬へと移り変わる時期は、精神的にも肉体的にも調子を崩しやすいですね。久々の「闇」の到来に気が重くなりそうですし、「寒気」には身体がまだ慣れていないので、実際よりも寒く感じてしまいます。
冬に入りきってしまえば、それはそれで平気なのですけどね。
さて、今回は夏の間に読んだ新聞記事についてご紹介します。面白いと言うか、気になるものだったので「そのうちブログに書こう」と思ってとっておいたものです。
その記事は、アイスランドの新聞のネット版で「その記事について扱った記事」を見つけたものです。元の記事はイギリスのGuradianのネット版でした。
タイトルは「レイキャビクでは私は書けない、と分かった。それから小さなことに気が付き始めた」というものです。書いたのはイギリスの女流作家のサラ・モスさんという方。
「アイスランドで物語を書こう」と思い、家族連れで2009年から10年にかけて、レイキャビクに越してきたのだそうです。もう十年も前のことですね。その時の体験を基にした記事なのですが、先へ行く前に、このサラ・モスさんがどのくらいの?作家なのかについて一言しておきましょう。
1975年グラスゴー生まれ、ということですから、今年四十四歳ですね。レイキャビクへ来た当時は三十四歳。Wikiによりますと、六篇の小説と、いくつかのノンフィクションものを書いているようです。
自身のホームページを見ますと、オックスフォードで英語文学のPhDを取り、現在はワーウィック大学というところの教授で「Creative writing」なるものを講義しているそうです。それほど「売れっ子作家」というわけではないようです。
さて、このGurdianに現れた記事、まずはタイトルのように「レイキャビクでは書けなかった」と打ち上げておいてから、どうしてそうなったのかを説明しています。
「アイスランドの(自然の)風景は、物語りを携えているのでしょうが、それらは私の物語りではありませんでした。
物語りを携えているアイスランドの風景
(アイスランドでは)ドイツやフランスでの長期滞在では感じなかった『外国』を感じました。アイスランド人の感情を読み取ることができなかったのです。(...)
誰も腹を立てたり、心配したり、興奮したりしないように思えました。(...)
アイスランドの映画も観たのだけど、サブタイトルがあったにも関わらず、ストーリーに付いていけませんでした。そこで語られていること(僅か)と、起こっていること(ほとんどが暴力か手仕事)の間にどんな関係があるのか、理解できませんでした。
私はいつも謝り回っていたように思います– その場にいること、アイスランド語を話せないこと、それが何であれ何かを尋ねていることを。だがあらかじめの謝罪(断り)はアイスランドでは通用しておらず、(そのような行為は)ますます私を奇妙な人物に見せてしまい、私がただ弁解しまくっているように感じさせたようです。
Sorry, sorry for saying sorry.
私はジョークも言わなかったし、笑いもしませんでした。だって、私の場所じゃなかったんです。私は自分を小さく、静かにして、観察し学ぶようにしました。古典的な新参者の移民の反応ですね。
良く知られたことですが、アイスランド語にはPleaseという言葉がありません。そしてTakk (ありがとう)は、英国人のThank youよりも、はるかに稀にしか使われないのです。(...)
同僚の(アイスランド人の)ピエトゥルが私に言ってくれました。(...)『礼儀というものはここでは(アイスランドの)植物のようなものさ。陽の光が少なく、シーズンも短いから、皆、地面に近いし、育つのも遅い。でもすべてそこにあるし、機能するんだ。君もわかるようになる』」
こんな調子で続くので、ここまで読んだアイスランド人は早々にギブアップして「なんだ、こいつは?」となってしまったことでしょう。私自身も「なんだ、ひどくjudgingだな」と思いました。当然ですよねえ? 実際、この記事について扱ったアイスランドの新聞のネット版は、この辺で終わっているのですから。
ところが、ここに落とし穴がありました。実際にGurdiannの記事を当たってみると、本当はまだ先があったのです!
サラさんは続けます。
「風がない時は、私は夏期の習慣である就寝前の散歩をするように努めました。雪の上に月明かりが届いていることもあるし、オーロラを見ることもある。本当に『闇』というわけではなかったのです。私は遥か南の方のかすかな、光の動き(Modulation)を学びました。
同じようにして、ひかえめな作法やある種の礼儀の中に紛れ込まされている、気が付くかどうかくらいの自己表現のモドュレーションを、私は学びました。
もちろん、アイスランドにも感謝や悔恨、さらに自己批判までも存在するのです。アイスランド人にも興奮や怒りを表現する方法はあるのです。問題は、私が、それらに気が付くことができなかった、ということなのでした」
元の記事を読みたい方はこちら
闇の中にも明かりはある... その光の波長をつかめるかがカギ?
考えてみると、私自身、アイスランドへ来てからの数年間は、このサラさんが書いていることと同じような「ネガティブ!!」感情を持ちましたね、この国に対して。私の場合に一番強く感じたのは「なんて『気配り』のない連中なんだ!」ということでした。
それどころか、こちらが謙遜にひかえめに出てやると、かさにかかってきたりして。ザケんじゃねえよ。
あの時からこのブログをしていたとすれば、きっとサラさんの記事の前半と同じようなことを書いていたことでしょう。人間、始めは自分の既に持っている表現法や、周りを測る基準を使わないわけにはいかないですからね。
そして、ある程度のところから、見えなかったものが見え始めたり、気がつかなかったものに気が付き始めたりして、アジャストしていけるのだと思います。
そこまでいって、まだ気に食わなかったら、それは本当に「相性が悪い」ということになるのではないでしょうか?
記事の全体を見る限り、サラさんもアイスランドと本当に「相性が悪い」というわけではなかったのでしょう。めでたし、めでたし。
サラさんの記事を紹介するフリェッタブラーズィズ紙ネット版 見出しは「アイスランド人 感情なし」
しかしです、ここで私は言いたい。
このガーディアンの記事をアイスランドで紹介した、フリェッタブラーズィズ紙のネット版。明らかに意図的に記事の後半部分を無視して、前半の「ネガティブ」部分だけを取り上げていました。
これではサラさんが、アイスランドに本当に幻滅して、徹底的に攻撃している「てい」になってしまいます。実際、ネット版に寄せられたコメントは、その線に乗っかったものがほとんどでした。
三流の大衆紙ならともかく、アイスランドでは一応モルグンブラウズィズ紙と並んで「二大紙」に数えられている新聞がそういうことをするかなあ?という呆れた気分にさせられました。
記事のテーマがテーマだけに、逆に複雑な思いがします。一周グルっと回って、結局、サラさんが始めに感じたことが正しかったんじゃないのかい?とか...
やれやれ、アイスランド。私だって、私だって、ツカれるわ...
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
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