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僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

(2/28)また夜中のつぶやきなので重いかも。

2008年02月28日 01時39分01秒 | Weblog
また夜に
雪が降る。
道路はうっすらと白くなる。
寒さが衰えない。
2月もあと2日で終わる。
3月に入れば
またぐっと、春が近づく気配を感じるのだろう。
午前中に
クロポチの注射。
薬が無くなったらまた連れてくるようにと
言われたが
今はおしっこの方は落ち着いたし
食欲もあるので
治ったと判断できれば
行かないことにする。
先生、ごめん。

お昼はロッテリア。
太陽のナミダ、流れてくる。
昨日も流れていた。
まだ買っていないよ。

レタスクラブを買ってきた。
これなら買いやすい。
たった1ページのPちゃんを
見るために買ってきた。


ゆうべは2時半ごろに眠り
朝は6時半起き。
今は眠いが
内君のドラマを観ながらこれを。
正直、今ひとつです。
自分の年齢が年齢だから
この手のドラマはもう
駄目なのかな。
それにしては
野ブタをプロデュースにハマッテいたけれど。
どうして
あのドラマは
子供たちが夢中になって観るのはわかるが
自分まで夢中になって
翌週が待ちきれない思いで観たのだろうか。
2005年の秋。
まだ
トモがこの世に存在しなかったね、トモ。
あれから3年になるのか。
今でもこうして
Pちゃんに心を寄せていられて
幸せです。





父から
先日の香典返しの品が送られてきた。
香典2万とは別に
お供物代1万円も勝手ながら独断で
私の名で置いてきたとのこと。
領収書も入っていた。
父の兄(もう大分前に亡くなった)の妻
父の義姉。
小さいときに会ったことはあるが。

きっと
後から、葬儀に来なかったことを
あれこれと言うのだろう。
私と父は
血のつながりはない。
母は
私の生母の妹だから
本来なら叔母にあたる。
それでも戸籍上は
父と母である。
父は自分の血筋の甥の子供たちを
可愛がっている。
いずれ、彼らに託すのだろう、あれこれを。
その子供夫婦は
父の家(私の実家か・・・)の
傍に住んでいる。
もしも
父とか母が倒れた時は
彼らが駆けつけてくれるだろう。
正月に(今年は行かなかったが)
実家に帰れば
その甥の子供たちがやってくる。
旅行も彼らの母親(甥の嫁)とよく行っている。
「このうちは、トモロッシちゃんより、
私たちの方が知っているんだから。」という
言葉を言われたときは
なんと返したらいいのかわからなかった。
冗談で返せばよかったのかわからなかった。
自分の実家でありながら
よそよそしく過ごし
そそくさと引き上げてきた私だった。



先のことを考える。
考えること自体
まちがっているのかも。
普通に
子供なら
親の面倒を見るのは当たり前
と皆から言われそうだ。

そのつもりではいるが
彼らはそのつもりではいないようだ。
いや
それもちょっとわからない。


彼らとの距離。
彼らとの確執。
彼らの前での遠慮。
彼らの前でのおどおどした自分。
彼らに甘えられなかった自分。
彼らに甘えることを許されなかった自分。
そんなことばかり浮かんでくるこのごろ。

以前
友人の家に行って
友人が小学生になる子供と接するのを見て
私は何を思ったかというと
友人の母親ぶりとか
こんな子供が私にもいたらいいなとか
そういう観点じゃなかったことに驚く。
子供側の気持ちである。
こんなに
自然に母親に甘えておんぶされている子供側の
気持ちが羨ましい、と思った。
私の年代なら
母親の気持ちに羨望するのが自然なのに
自分もこんな子供でありたかった、と
思ったのだ。

父や母を
恋い慕う気持ち
きっと
あったのだろう。
あった時もあった。
そして今なら
年老いていく彼らを
心配する自分のはずであるが

肝心の何かが欠けている。

私の生母は亡くなっている。
60代で亡くなったので
人生短かったなあ、と思う。
そして彼女の人生は
悲しかった。

私の実父は生きている。
彼には
2回しか会ったことがない。
気まぐれに年に1回ほど
電話が来る。
彼にはきちんと家庭がある。
私は
彼にも
父を慕うという感情が沸かない。
それが現実だ。
父に会いたい、という感情が沸かない。
父という呼び名さえ希薄な感情だ。
彼は
私が生まれたことを後から知ったらしい。
彼の大学も終わるころ。
(おお、Pちゃんの今頃だよ)

父親という自覚を持つには
残酷な年齢というか、環境だった。
一瞬のことが
1つの人生を産み落とすことになる。
その人生が勝手に歩いていくけれど
でもやはり
それは重大な出来事じゃないか、人生を産み落とすことは。
おかげで
私は
今の両親との確執を持って生きている。
私の生まれ方に批判的な今の母は
「おまえはとうに死んでいた人間だった。」
をよく口にしていた。
子供のころに聞かされたその言葉は
私をおどおどさせる子供にした。
母はますますそんな私を
なぜか嫌った。
母の何か気に入らないことをすると
「富良野に帰れ!」と言う。
富良野には当時生母がいた。
帰るに帰れない8歳の私は
どうしたらいいかわからなくて
泣いていた。
今の両親と暮らし始めて二年目である。
そしてそのうち一年は
私は病院暮らしなので
実質一年目の生活だった。
栄養失調と小児結核で痩せていた私を
救ってくれたのは
今の両親だ。
しかしその頃の私に
病気の自覚もなかったし
大人同士の約束(養子縁組)の意味もわからなかったし
恩を感じるとかも無自覚の6歳、7歳であったし
今の母の発する棘のような言葉は
生母への思慕を強くさせるだけだった。
子供心に
自分の各年の
できごとはほとんど覚えている。
鮮烈に覚えている。
それはどれも暗い。
今でも振り返れば
ひ弱で、引っ込み思案で、
哀れな子供時代だった、と思ってしまう。
明るい自分を思い出せない。
でも
写真はあるんだ。
明るく無邪気にマンガの人物のまねをしたのとか。
それを忘れているだけかもしれないね。


今夜もこんな時刻になってしまった。
父の手紙を読んでいると
どうしても
彼らとの出来事を思い出してしまい
暗くなってしまった、ブログ。
どうぞ
スルーしてください。
半分は自分の日記代わりなので
書きなぐりたい時もあります。
 

夜の雪は
止みました。
でも足が冷えていますよ。


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